第6話 心はいつだって青空教室
雨の精霊がいるからといって、天気が常に雨な訳ではない。
天候は見渡す限りの曇り空だった。今日はしっかりと天気予報を確認したが、どうやら午後にこの雲は晴れてしまうらしい。傘を持たずに家を出られるだけで、少々気が楽になったようにも思えてくる。
夢や目標に溢れている場所といえば。
認めたくはないが、それが学校であることは明白だった。小晴が高等学校で下界の勉強をしていたように、僕ら現実世界でも学校が夢の実現を目指す場所であることに変わりはない。
少しためらって、小晴と共に家を出た。周りから見れば普段通りの僕であるが、僕からすれば小晴と登校することになる。中々踏ん切りがつかなかったが、まあ仕方がない。
いつもより早めに家を出て、通学路を小晴と並んで歩く。見られていないと分かっていても、少し浮足立ってしまう。
「昨日より人通りは少ないですね」
そんな僕にはお構いなしに、小晴は辺りを見渡していた。
当然のことなんだろうが、緊張しているのは僕だけか。そう考えると、少し残念な気もする。いや、残念なのかどうかも分からないのだけれど。
僕の家から学校までの距離はそう遠くはない。昨日の公園と、商店街と。それなりに道を歩いていれば十五分程度で辿り着く。大して面白そうな所は何一つないはずだった。それでも、楽しそうに歩いている小晴が隣にいると、ここが楽園であるかのように錯覚してしまいそうになる。
「で」
そんな考えを振り切ろうとしたのかもしれない。本題に入らなくては。そう思って、声をかけた。
「今から僕の通っている高校へと向かう訳だが、これから小晴さんに協力するにあたって一つだけお願いしたいことがある」
「なんでしょう?」
純粋無垢な瞳がこちらを覗いていた。その瞳に語り掛ける。
辺りに人がいないことを確認してから、僕は言った。
「小晴さんの姿を捉えているのは僕一人だけ。周りの人からは認識されていないし、どうやら声も届いていない。こんな状況で学校に行って、僕が小晴さんに話しかける訳にはいかない」
普通に考えて、人の多い場所へ出ることが自殺行為のようなものだ。
「だから、周りに人がいる時。僕が小晴さんに話しかけることはないし、小晴さんを無視しているかのように扱う時があると思う。けど、そこだけは許して欲しい。僕にも一応、立場ってものがある」
無気力に溢れた日常だが、それなりに友人はいるのだ。昨日の林さんのような出来事を繰り返さないためには、これを理解してもらわなければならなかった。
「人のいる時間には出来るだけ、別の場所にいてくれないか。あまり近くにいてもらうと、きっとどこかでボロが出る」
小晴は、ある程度察してくれていたのだろう。僕の言葉に嫌な顔一つ見せず頷いた。
「分かりました。祈吏さんに協力してもらっている以上、私も何か出来ることはしないといけないですからね」
「そうしてくれると助かるよ」
「でも…」
言おうとして、小晴は黙った。同時に、僕の背後に視線を向けた。何かと思い振り向くと、自転車が僕の横を通り抜けていく。
劣等生ではあるようだが、どうやら機転は利くらしい。
「でも?」
何かを言いかけて、小晴は首を振った。
「やっぱり、なんでもないです」
「そう言われると妙に気になるな」
「言おうと思ったのですが、言わない方が楽しいかと思って」
そう言って笑う小晴。昨日も思ったが、この子の行動理念は楽しいとか面白いで構成されている。それはそれで羨ましいような気もするが、何にしても、僕にとっては良からぬことを思いついていそうな笑みだった。
まあ、深く追求するようなことでもないだろう。
「とにかく、学校にいる時は特に気を付けますね」
「ありがとう」
不思議な子だが、物わかりが良くて助かった。やることがないから協力すると話してしまったものの、不安と言えば不安ではあった。
商店街を抜けて、最寄りの駅へと向かっていく。通勤ラッシュの時間にはまだ早く、小晴の言う通り人はまばらだった。人目があると小晴と会話する訳にはいかない。そうなれば、この時間に登校するのが安全策といった所だ。僕の端的な考えは間違っていなかったらしい。
駅を抜ければ高校はすぐ目の前だった。視線の先に、特徴的な箱型の校舎が浮かび上がる。三年前に建て替えをしたばかりの新校舎。さすがに、この時間に登校する生徒は中々少ない。
「凄いですね。建物が立派です」
そんなうちの校舎を見て、小晴が感嘆の声を上げた。
「そっちの学校だと校舎はどんな感じだったんだ?」
「ないこともないんですけどね」
どうも、歯切れが悪かった。何かまずいことでも聞いたのか?
はにかむようにして、小晴は言った。
「うちは青空教室なんですよ」
「ああ、そうか」
雲の上で雨が降らないのなら、天井を無理に作ることもないって訳だ。
「青空教室なんて呼び方をするのも恥ずかしいですけどね。向こうの建物は基本的に塀で囲んでいることが多いんです。もちろん、天井のある建物もありますよ。でも、みなさん風来坊なので、どこかに留まることを知らないんです」
「睡眠も栄養補給もいらない。昨日寝る間際にそう言ってたな」
僕が眠る時になって、小晴は精霊の生活事情を話してくれた。雨の精霊は人型をしているが、体内構造は普通の人間とは異なるらしい。眠ることも食事をすることも可能だが、それは一つの娯楽のようなものであって身体に影響を与えることはないのだとか。
「そうですね。ですから、家を持っている人がごく一部なんです。その分、こちらの世界でホテルとか民宿と呼ばれているようなものが栄えていたりするんですよ。疲れた時に、安心して休むことが出来るように」
当たり前が異なる世界。少し行ってみたいような気もする。
「ですから、この校舎は凄く立派です」
なんだか、小晴に褒められると不思議な気持ちになる。別に僕自身が褒められている訳ではないが、目の前に見えるこの校舎。普段何気なく見ている校舎は、凄い建物なのか。
高校の目の前で小晴と並んで校舎を見ていた。そう言われてみると本当に凄い建物であるかのように見えてきて、普段とは違った視点で物を捉えられそうな気がしてくる。
が、僕は油断していた。冷静に考えて、普段の僕がこんなことをしているはずもなかった。
小晴と会話をするのが不自然なのは、小晴が周りに見えていないからだ。
だが、それは会話をする時に限ったことではない。そのことを忘れていた。
周りからしてみれば、僕一人が校舎を茫然と眺めていることになる。
「なにしてんの、こんな所で」
聞き覚えのある声に話しかけられて、ようやくそのことに気が付いた。
思わず、声の主より先に小晴の方を向いてしまう。が、どこへ行ったのか小晴の姿は見当たらなかった。人の気配を察知して隠れたのだろうか。それならそれで、言ってくれればよかったものを。
「昨日も聞いたな。それ」
声の主が誰だかは分かっていた。この時間に学校へ来る生徒などそう多くはない。来るとするなら、朝練のある運動部の生徒くらいのものだ。
振り向いた先、陸上部のジャージを着た赤坂光夏がそこにはいた。
「こんな時間に登校してくるなんて珍しいじゃない。何かの前兆?」
「前兆ってなんだ。たまたま早く目が覚めただけだよ」
「早く目が覚めたにしても、この時間に来ようなんてよく思ったね」
そう言いながら光夏は靴紐を緩めていた。そのまま部室に荷物を置いて外周でも走るのだろう。
小晴が見当たらなくなってしまったので普段通りの応対をすることにした。もしかすると、それを考慮してどこかへ隠れてくれたのかもしれない。
「そっちは朝練か」
普段通りに、言ってやる。
「そ。今週末には大会あるからね。先輩にとっては最後の大会になるし、私達二年生も全力でサポートしないとだからね」
「今週末? 随分早いんだな」
「野球とは違うの。一般的な高校部活は六月でも長い方だよ」
言われて思い出した。高校野球の夏大会は、一般的には遅い方だ。
なるほどな、と一人納得する。最後の大会が近いのならば、これだけ早い時間から威勢が良いのにも頷ける。
しかし、サポート? それは少しおかしいだろう。
「でも光夏、お前主力じゃないのかよ。いくら二年生だからって部のエースがサポートに回る必要はないだろ」
小晴同様うっかりしている光夏ではあるが、中学時代から短距離の成績は良かった。高校に入学してからも部内トップの成績を残していると言っていたはずだ。
光夏は『どうでもいい』と言わんばかりに手をひらひらと泳がせた。
「あははー。まぁそうなんだけどね。でも、私がやりたいことだからいいんだよ。三年生の先輩が最後の大会なんだから、その人達がメインなのは事実だよ」
「それはそうだろうけどさ」
「それに、サポートに回るからって私が手を抜く訳じゃないんだから。先輩がベストを尽くせるように私もベストを尽くす。もちろん、狙うは優勝だよ」
光夏は笑った。そうか。勘違いしていた。赤坂光夏はそういう人間だった。
他人を自分と同じように考えることの出来る人間。
だから、僕にもあんなことを言ってきたりする。
「そうだったな」
それに気が付いて、呟くように言った。まあね、と笑っている光夏はとても県内トップレベルの選手には見えない。見えないが、僕よりも遥かに眩いレールを歩いていることは確かだろう。
光夏が校舎の中へ入ったので、僕もついていくことにした。小晴の姿が見当たらないが、気にしている訳にはいかない。
「あ、そういえばさ」
昇降口で靴を交換して。何かを思い出したのか、光夏は指を立てた。
「昨日はごめんね。なんかちょっと、変なこと言っちゃったかもしれない」
変なこと? 僕は首をひねる。
「何かあったか?」
「ほら、ちょっと上から目線で物を言っちゃったところ、あったじゃない」
「ああ…」
言われて思い出していた。そういえば、教室で暇を持て余していた僕に光夏は何か物言いをつけてきたんだった。
笑え、だとかなんだとか。
「別に、気にしてないよ」
「本当?」
本当に気にしていなかった。
普段通り、ただ、僕の事実を突きつけられただけ。
「どうしたんだよ、急に」
僕は言ってやる。別に深い意味はなかったようだった。
「や、なら良いんだけどさ。なんか、強めに言っちゃったような気がしてね。もしかしたら気にしてるんじゃないかと思って、心配してたんだよ」
「まあ、心配される筋合いはない」
「そうね。その方が祈吏らしいかもね」
余計なお世話だ、とまた言いそうになる。
「でも、そうね。気にしてないなら良かったよ。祈吏がそんな調子のままだと私も調子、狂っちゃうからね」
靴を履き替えて荷物をまとめて。何もない僕をおいて、光夏はグラウンドへと向かう。
光夏は昔の僕と今の僕を知っている。皮肉な所はあるが、こう言われてしまってはどのように返すべきか分からなかった。
「じゃ、私そろそろ行くから」
流れる時を惜しむようにするのは何か目標を見つけているから。一秒の動きに無駄のない光夏を見て、そんなことを思う。
目標…?
不意に、小晴の言葉が脳裏に浮かんだ。
「光夏」
そして自分でも何を思ったのだろうか。グラウンドへ駆けていく光夏を呼び止めてしまった。
「なに?」
なんてことはない。ほんの気まぐれなのだけれど、
「頑張れ」
と、思わず口が動く。
「らしくない!」
光夏はそう言って笑いながら、今度こそ行ってしまった。
「…………」
『頑張れ』は他人行儀のようで、あまり好きな言葉ではない。
今、どうして頑張れと言ったのか自分でもよく分からなかった。
らしくない、とは光夏もよく言ったものだ。今の僕が僕でないとでも。考えて、よく分からなくなる。
とにもかくにも昇降口で佇んでいる訳にはいかなかった。僕も靴を履き替え、廊下を渡り教室へと向かうことにする。
―と、すっかりその存在を忘れていた。
「祈吏さん」
階段を登った所で後ろから囁く声がして、その存在を思い出した。
「お前、どこに隠れてたんだ」
僕のあとを追うようにして、小晴は階段を飛び跳ねながら登ってくる。
「校舎の裏側です。ただ今から考えると、私が隠れる意味はありませんでしたね」
「やっぱり馬鹿なんじゃないのか」
うっかりです。と言ったような気もするが、僕は構わず階段を登った。
予想通り、教室には誰も姿を見せていなかった。始業時刻の一時間前。おそらく、あと三十分は僕一人と精霊一人の空間になる。
いつもと変わらぬ教室の端。
小晴はこちらを向く形で前の席に座った。
「祈吏さん、さっき話していた方は?」
物珍しそうに教室を見渡しながら、小晴は聞いてくる。
「赤坂光夏。このクラスの生徒だよ。中学も一緒だから、それなりに口は利いてる」
「なんだか忙しそうな感じでしたね」
「陸上部だからな。部内のエースで、次の大会でも優勝が期待されてるんだろう」
さっきも思った事を、そのまま言ってやる。
「小晴さんが探しているような、目標を持った人間だよ」
「ほう」
『さすが学校です』と呟いて、小晴は楽しそうに身体を小刻みに揺らす。
その姿はまるで幼稚園児のようだ。言えば、怒られるのだろうけど。
「祈吏さん、ひとつ質問してもいいですか?」
「なんだ」
しかし園児と言えど中身は同い年な訳で、そう聞いてくる小晴の声色は真剣だった。
「その、光夏さんの目標とは一体なんだと思いますか?」
またしても瞳を丸くして、小晴は言う。
何を当たり前のことを聞いているのだろうか。
「何って、陸上で記録を残すことだろう?」
「そうでしょうか?」
小晴は首を縦には振らなかった。
「実は、私の方にも会話が聞こえていたんです。人が誰もいなくて、静かでしたので。ですが、私の聞いていた限りだと、光夏さんの目標は陸上以外のことのような気がしました」
陸上以外のこと。どうしてそうなる。
僕には分からなかった。
「いやいや。どう見たってそうだろう。前から見ていたんだから、よく知っている。光夏は時間が惜しいってくらい陸上に全部を注いでるような奴だ」
「もしそれが陸上の為でなかったとしたら、どうでしょうか?」
陸上の為でなかったら…。
「まさか」
そんな訳があるまい。それが陸上の為でないのならば、光夏は今まで何の為に忙しない高校生活を送ってきたというのだ。
この子は一体何を言っている?
小晴の発言には同意をしかねなかった。しかし…
「祈吏さん」
小晴の表情、真剣なまなざし。これらを目の前にして、僕が反論することも出来なかった。
そんなはずがある訳もないのに、僕よりも小晴の方がずっと自信に溢れているようにさえ見えてくる。
何を根拠に。
たった今、僕と光夏の何気ない会話をほんの数分耳にしていただけではないか。それだけでどうしてそう断言できる。どうして。
「叶えましょう」
誰に聞かせる訳でもなく。呟くように、小晴は言った。
「赤坂光夏の夢を?」
聞くと、頷く。
「そうです」
その夢が何であるか。それを決して明かすことはなく。
僕を捉えているその瞳は、どこか違うものを捉えているようにさえ思えた。
小晴は僕に向けて、天使のように微笑んだ。
「簡単に言うと、笑ってもらうんです」
それが、夢へのお手伝いなのだと。
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