不思議な雨の日の記憶~アメアガリ~
香月てる
前編~不思議な少女と陸上少女~
第1話 不思議な雨の日の少女
祈吏いのりさんは本当にとっても素敵な方なんですよ」
「素敵過ぎて、私はきっとどうにかなってしまうんです」
「だから、いつかまた会える日が来たら―」
人生における意味を考えていた。
自らの意思とは関係なく人は生まれ、そして自我を持ち、気が付けば人生という名のレールを歩み始めている。
神様とはご都合主義なもので、僕達をレールの上には乗せるのだけれど、その行く先を示してはくれない。
だから、僕達は自分の手でレールを敷かなければならないし、自分でゴールを探さなければならない。周囲の環境や人との出会いによる様々な岐路を選択しながら、自ら目標点を設定し、努力をし、小さな目標を通過していく。
そうして人生における大きな目標を見つけた中で、僕らは一つの疑問に答えを出す。
「自分の生きる意味は何だったのか」
人生を与えられた段階では決して示してはくれなかった目標を、僕らは自ら導き出すことで自分に生きる意味、価値を見出しているのだろう。
それならば。
ここまで考えて、僕は思った。
それならば、今現在その目標を見失ってしまっている僕自身には、一体どんな価値があるのだろうか。
高校入学後初めての試験を終えた教室は爽やかな解放感に満ち溢れていた。晴れて放課後を迎えたこの時間に教室に残っている者は少なく、窓際の席でぼんやりと外を眺めている人物など僕くらいのものだった。
何を見ている訳でも、誰かを待っている訳でもない。ただ、中間試験という一つの通過点を過ぎて、路頭に迷っていた。今日、放課後、自由な時間が出来て、一体何をすればいいのだろう。
勉強から解放されたは良いものの、やるべきことが見つからず、家に帰るのも何だか勿体ないような気がして教室にいる。ただそれだけのことだった。部活動が終わる頃には帰らなければならないが、それだけでも気休めになるような気がする。
とにもかくにも、端的に言えば、暇だった。暇すぎて、窓から少し身を乗り出して、下の景色を覗いてみたりする。
試験期間の影響で、昨日まで無人地帯と化していたグラウンドには活気が取り戻されていた。
顔をしかめながら全力で走り続けているのは陸上部の生徒だろうか。彼が走り抜けたその横では、バトミントン部が集団で準備体操を行っている。そしてそれを遮るかのように、バスケ部らしき生徒がランニングをしていった。何を考えているのだろうか。もしかすると、バトミントン部に恨みでもあったのかもしれない。
「…何をしてるんだろうな」
自分で言って、あまりにも情けなくて笑う。本当に何をしているのか。他人の努力を応援することが無駄とまでは言わないが、それをただ遠巻きに眺めているだけの傍観者はあまり有益ではないだろう。そう考えて、身体を戻した。無為な時間を過ごしてしまった。
家に帰るのも何だか勿体ない。グラウンドを眺めるのもあまり有益ではない。時間だけが有り余っていて、それを有効活用する術がない。分かってはいるけれど、今すぐどうこう出来る問題ではなかった。ただ、教室にいるのもそろそろ飽きてきた。このまま何もしないのならば、適当に本屋でも回って時間潰しした方がまだ少し気晴らしになるかもしれない。
放課後を迎えて既に一時間以上が経過していた。隣駅の本屋へ寄って帰ればちょうど夕食前に帰宅できるだろう。そんなことを考えて、教室を出る。が、僕があまりにもぼんやりしていたせいだろうか、教室へ向かってくる人物に、僕は気が付かなかった。気が付けば僕は誰かとぶつかっていて、気が付けば誰かに声をかけられていた。
「なにしてんの、こんな所で」
活発な、明るい声。聞いた瞬間、声の主がはっきりと分かる。振り返る前にその姿を想定しながら、少し面倒そうに声をかけてやった。
「暇人ですみませんね」
想定通りのジャージ姿で赤坂光夏あかさかみつかはそこにいた。どうやらずっと走ってきたのか、呼吸が早くなっている様子だったが、一度大きく深呼吸したかと思うと既に呼吸は整えられていた。流石と言わざるを得ない所だが、廊下を走るのはよくないと思う。
僕の言葉を聞いて、光夏は苦い笑みを浮かべていた。大体がこんなやり取りだから、もはや皮肉にすら聞こえていない。何か忘れ物を取りにきたのか、教室のロッカーを覗き込みながら、光夏は答えるのだった。
「そういうこと言わない。理想を口に出してると本物になれるって私に言ったのはどこのどいつなのよ、まったく」
皮肉を皮肉で返される。どこのどいつはここにはいない。
やることもないから、と理由づけすると光夏に怒られてしまいそうだが、本当に僕にはやることがなかった。ちょっとだけからかってやりたい衝動に襲われて、思わず返す。
「あくまで理想を語ればって話だろ? 暇人になりたいと思ったつもりはない」
僕の声が届いたのか否か、ロッカーを開けては閉めと繰り返す光夏。バタン、という音が幾度となく繰り返される。
「探し物?」
今度は聞こえていたらしい。
「そうなんだけど、ちょっと苦戦中かな」
「何、探してるの」
「体育館シューズ。学校用のじゃなくて、陸上部指定のやつね」
結局ロッカーには見当たらなかったらしく、小走りで教室前方に向かう光夏。黒板の裏を探し、教卓の下を探し、ついにはゴミ箱まで漁っている。
「さすがにそこにはないだろ」
指摘してやると、光夏は舌を出して笑った。
「分からないよ? 私、うっかりさんだから」
確かに光夏には適当な所があるが、いくらなんでもゴミ箱はないだろう。普通に失くしたか、家に置いてあるかだ。
「なんだか急に中練に決まっちゃってね」
探すまでの間繋ぎだろうか、光夏は言った。
「あっ、あった!」
間繋ぎにもならなかった。
光夏のシューズは自分の椅子に置かれていた。どうして最初にそこを確認しなかったのかは疑問だが、どうやら本当にうっかりさんだったようだ。
「それで、まぁ、うん。急いで取りに来たんだよ」
切り出してしまった以上、そのままにもしておけない。とは言え練習に向かわなければならない。そんなところだろうか。時間を惜しむかのように光夏は僕の目を見ていた。
「今日笑えない人は明日笑えないよ!」
去り際、光夏はそんなことを口にして走り去っていった。笑顔をモットーにしている光夏だ。きっと、暇人だなんだと話す僕を見て、思う所があったのだろう。余計なお世話だと言いたい所だが、それを口には出さなかった。
光夏がいなくなると、また教室は静寂に包まれた。まるで嵐が訪れたような感覚を覚える。忙しなく動き回っていた光夏は次の大会で優勝を狙うのだと言っていた。光夏にとって、今の小さな目標はそこにあり、それこそが通過点なのだろうか。
そんなことを考える。考えた所で、どうなる訳でもないのだけれど。
光夏の様子を見た後では、教室にいる気にもなれなかった。
歩む道の分からない僕は本屋へと向かう。
気だるさだけが残っていて、充実感を得た気にはなれない。
草原の広がる地元の錆びれた公園。昔はここに沢山の遊具があったものなのだが、今ではその面影すらもない。危険という理由で遊具の殆どは撤去され、残されたのは木製のベンチただ一つ。そのただ一つを僕は占領していた。
時間潰しにと古本屋へ来たのはいいけれど、目当ての本がある訳でもない。今から立ち読みを始めるには中途半端な時間な気がして、結局すぐに出てきてしまった。されど家に帰りたくはない僕は、こうして一つのベンチへと収束した。草原では小学生の集団が野球をして遊んでいる。小学生の野球ならばまだ見る気にはなれた。その結果、こうしてそれを眺めるに至る。
「…おじいちゃんかよ」
一人呟いて、自販機で買ったコーヒーを啜った。制服を着ているから高校生には見えるだろうが、やっていることは仕事をリタイアした人達と変わらない。教室の椅子が公園のベンチに変わっただけで、現状は特に変化していない。
右打席に入った少年が三塁線上にセーフティバントを決めた。意表を突かれた三塁手は捕球をせずにファールを狙う。が、どうやらファールにはならなかったようで、攻撃側の少年達が湧いた。見事なバントを決めた少年は無邪気に笑い、ガッツポーズをしている。
豪快な特大ホームランや剛速球での奪三振も痺れるが、意表を突いたセーフティバントにはそれとは違う快感が待っている。相手の裏をかいてやったという、悪戯心に火をつけるような感覚。あの感覚を得ている今の少年には、まるで自分が漫画の主人公のように思えていることだろう。例えこれが遊びであろうと、ガッツポーズをするのも頷ける。ただ、欲を言うのならばもう少しバットを寝かせていれば完璧だった。
気が付けば、その様子に集中していた。未完成な少年野球ほど何が起こるか分からないものはない。次の打者は左打者だったが、これは投手が上手く捌いた。外、外からの内側へのストレート。今度は投手がガッツポーズ。しかめ面の打者はかなり悔しがっている。
次の打者でさっきのバント少年が盗塁を試みた。投手の足元だけを見た、俊敏なスタートを切っていた。捕手は懸命に送球するが、焦りからか大暴投となる。それを見た少年は悠々と三塁へ。だが、牽制で刺され、ベンチから野次を飛ばされていた。
夕暮れ前に試合は終わり、結局ドローとなったようだった。また明日やろうな、と手を振る少年の集団。僕は自分の立場も忘れ、純粋にその様子を楽しんでいた。遠巻きに眺めているだけの傍観者であることに何の違和感も抱きやしない。
一つ、大きな息を吐いた。いつまでこんな日々を繰り返しているのだか。小学校時代、僕もあの少年達と同じように、一人の野球人として学校生活を送っていた。学校が終わればこの公園へ行き、日が暮れるまで遊び野球。家に帰ればプロ野球を観て、翌朝のニュースで順位表を確認していた。
小学一年生の夏休みの事だった。教育テレビに映し出された高校野球に憧れた。夢の舞台、甲子園。まるで大人のように見えるユニフォーム姿の高校生が、真剣な眼差しで野球をしていた。鳴り響くブラスバンドの応援に、超満員の大観衆。その観衆のど真ん中で、背番号1は光り輝いている。
自分もあの舞台に立ちたい。幼心にそう思った。少年野球を始めた僕は日々の練習に没頭し、中学野球を終える頃には地元でも名の知れるエースとなれた。卒業文集の最初の一行に、僕はこう書き記した。
「高校野球で甲子園へ行く」
それが僕の目標であると。
僕にとっての人生は各駅停車甲子園行だった。少年野球、中学野球。一つ一つの通過点を乗り越えて、その先にあるのは明確なゴール。高校に入って、ようやく挑戦権を得ることが出来たと思っていた。あの日、テレビで見ていた背番号1。その姿に、今度は僕がなるのだと。
卒業式を終えた、春休みの初日。自転車を快調に飛ばして、僕は隣町へと向かっていた。中学までの野球とは違い、高校野球ではボールの種類が異なる。軟式から硬式球へと少し硬いボールに変わるため、今までの道具を新調しなければならない。隣町にある野球道具専門店は、県内でも有名な店として知られていた。せっかくならば、そこで買おう。浮かれに浮かれて自転車を飛ばした。坂を二つ越え、大きな交差点に差し掛かる。そこを抜ければ専門店はもうすぐだ。ちょうど僕が交差点へ突入した時、青信号が点滅するところだった。少し速度を上げれば渡れるかもしれない。僕は更にペダルを回した。それがいけなかった。
僕が横断歩道へ入ったと同時に軽トラックが突入していた。クラクションが鳴るより先に、やばい、と思ってブレーキをかけた。しかし、雨で滑りやすくなっていた道路は急ブレーキを許してはくれなかった。僕は横転し、自転車はトラックに跳ねられていた。車が僕に直撃しなかったことは不幸中の幸いだと思う。が、勢いよく横転した僕は右肩を脱臼していた。
日常生活に支障はない。だが、ボールを投げることは難しい。
きっと、運もなかったのだろう。もしくはこれが運命だったのかもしれない。僕のレールは思わぬ形で断線した。諦めることは出来ないと幾度となくボールを放ったが、肩に痛みが走るだけだった。そのうちボールを握ることが怖くなった。高校野球を見るのが辛くなった。
吹き付ける風が冷たくなり、辺りは暗くなり始めていた。六月だと言うのに、今日は日が落ちるのも早いような気がする。嫌気がさして、ベンチを立った。そうしてまた、一呼吸置く。
今まで自分が甲子園に出ること以外、何も考えてこなかった。入りたい野球部の為に受験勉強をしていたし、時間があれば練習をこなしていた。
だからその目標を見失って、こうして夜まで何も出来ずにいる。目標が見当たらないから、何をすれば良いのか分からない。課題が出れば勉強をするが、それも作業をこなしているだけだ。作業をこなせばまた無が訪れる。無が訪れて、こうなる。
帰ろうと思った所で唐突に雨が降り出した。地面に打ち付ける強い雨。そういえば、あの日もこんな雨の中自転車を飛ばしていた。日が落ちるのが早いと思ったが、空が暗くなっていることに気付いていなかっただけらしい。
こんなことならば、早く帰宅するんだった。何もせずに直帰することを嫌った結果、こうして雨にまで降られてしまった。天気予報など見ていなかったので、当然傘など持っていない。空から見られている誰かに現状を馬鹿にされているようで、何とも言えない気持ちになる。
雨に濡れたくはなかったが、雨の中走りたくもなかった。ポケットに手を入れて、ゆっくりと公園を後にする。結局、無為な時間ではあっただろう。だけど、何も無いのならこうする他になかったではないか。
これが言い訳であると分かっていた。自分を納得させる為の理由づけであることも分かっていた。だがそれを許容する他に手段がないこともまた、知っている。
そんなことを考えながら、僕は後ろを振り返った。なんてことはない、ただの習慣的な動作だった。グラウンドを出る際に何か置き忘れかないかどうかを確かめる習慣。さっきまで座っていたベンチに何か置き忘れたものはないか、無意識に僕は確かめようとした。
その時だった。
眩い光が差し込んだ。
そして気が付けば、さっきまで僕が座っていたはずの場所、誰もいないはずの小さなベンチに一人の少女が佇んでいた。
少女、と表現するのが正しいのかどうかは分からない。どこの学校かは知らないが、白を基調とした制服を身に纏っていて、雨だというのに傘も差さず、ただ一点を見つめている。
今、あの場所は確かに僕が座っていたはずだ。あの場所に座って野球少年を眺め、無為な思考に襲われたりしていた。公園を出ようとしてから後ろを振り返るまでの間はほんの十秒あるかないか。その僅かな間にあの子が立ち入ったのか? そんなはずはない。この公園の入り口は一つしかない。
妙な錯覚かと疑いたくなるが、確かに少女はそこにいる。無為な思考を繰り返すばかり幻覚まで見えるようになってしまったのだろうか。何度見ても同じことだった。あの少女は幻覚などではない。
この数秒間に何かが起きていたのか、それとも単に僕が気を抜いていただけの話だったのか。どちらにせよ、気が付いた時にはその少女と目が合っていた。どこか一点を見つめていた少女だったが、僕の視線に戸惑いの色を示したのかもしれない。少女の視線は確実に僕を捉えていて、僕もまた、少女の綺麗な瞳に吸い込まれているのだった。
黒髪ショートに澄んだ瞳。可愛い、と表現するには大人びていて、美人、と表現するにはあまりにも幼い。が、雨の中に照らされる少女の姿は間違いなく美しかった。僕と同い年か、離れていても一つか二つだろう。今、僕は、同い年くらいの美少女と、雨の中、見つめ合っている。
しばらくの間、互いに視線を逸らさなかった。いくら僕が暇人と言えど、目が合っただけの美少女に話しかけるような奴ではない。されどこのまま目を逸らすには勿体なくて、立ち去ることは気まずい気がした。向こうの出方を待っているのだが、何を考えているのだろうか、少女は僕の目を捉えたまま一向に視線を逸らす気配がない。ならば。
ならば、どうしようか。そう考えた時、僕はまた、不思議な点に気が付いた。
「えっ?」
思わず僕が声をあげたのはそのことに気が付いたからではない。
見つめ合っていたはずの少女が僕の手を握りしめ、澄んだ瞳でこう聞いてきたのだ。
「もしかして、私のこと見えてるんですか?」
視線の先、少女の制服は、一滴たりとも濡れていなかった。
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