86―エイティシックス―
安里アサト/電撃文庫・電撃の新文芸
86―エイティシックス―学園if
夏祭り(86―エイティシックス―学園if)
ショーレイ・ノウゼン二六歳の十歳離れた弟は、現在絶賛反抗期だ。
「ただいまー……ん? なんだシン、祭りでも行くのか?」
「…………」
なので珍しく浴衣なんか着ているところに声をかけて返事がないのも、まあいつものことだ。
クラスの子と七夕のお祭りに行くんですってー、と階下のリビングから母親の声だけが登ってくる。それを聞いてレイはふぅんと思う。
クラスの単なる友人と遊びに行くだけなら、わざわざ浴衣なんか着ないだろうから。
「デートか。相手の子どんな子? 美人?」
「…………」
無視。
うーん、難しいお年頃とか思いながら自室に戻ってネクタイを解いていると、開けたままの扉の向こうから声がかかった。
「兄さん」
「ん」
「帯が結べない」
言うと思った。
男物の浴衣は別に兵児帯で適当に結んでも構わないのだが、そう言うからには貝ノ口でも結びたいのだろう。
「お前な。そろそろ困ったらとりあえずお兄ちゃん助けてって言ってないで、自分で動画なり見て……」
見たら机の上のスマートフォンで着付け動画が再生されていた。
なるほど一応努力はしてみたんだなと、思ってレイは口を噤む。
努力はしてみるようになっただけ、困るとすぐ頼ってきた小さい頃からは成長しているようだが、できなかったらすぐ頼ってくるあたり大差ない気がしなくもない。
俺ひょっとして、大分甘やかしてたのかなぁ……とか、自覚ゼロな反省をし始めた兄の内心をよそに、シンは露骨に嫌な顔をしている。
「助けてなんて言ってない」
「ハイハイそーですね言ってませんねー」
頼ってるんだから変わりはないというか、帯結んでもらいながら言う台詞じゃないというか。
やれやれと息を吐いてレイは言う。
「あんまりそういう生意気なこと言ってると、文庫に結ぶぞ無理矢理」
「文庫って何」
マルガレータ・ミリーゼ夫人の十六歳の娘は、ただいま絶賛お年頃だ。
「お母様、わたし、変じゃないですか?」
「……レーナ。貴女、それを着つけた私に聞くの?」
つん、と答えたミリーゼ夫人だったが、内心は微笑ましくてたまらない。
姿見の前であっちを向いたりこっちを向いたり、何度も何度も確認してしまう気持ちは、覚えのないものではなかったので。
袖を広げて背中を姿見に映して、帯の様子を念入りに確認しているらしいレーナに相好を崩した。
「可愛らしくできているわよ。自信を持ちなさいな」
涼しげな桔梗色の浴衣に、色とりどりの蝶の模様。リボンのような形の文庫結びにした帯は、少し大ぶりで華やかに。白銀色の繻子の長い髪は丁寧に梳ってポニーテールに結い上げて、浴衣と揃いにした蝶の髪飾りが、動くたびに揺れてちりちりと鳴る。
単なる友達と遊びにいくにしては、いささかならず気合の入った装いだ。よく見れば珍しく化粧までしている。厳選したらしい仄かな桜色が艶やかな唇。
「だって……」
「淑女がそわそわするものでもありません。……座って、落ち着きなさいな。出かけるまで、もう少し時間はあるのでしょう?」
何故かレーナは真っ赤になった。
「ええと、時間があるというか……」
うろうろと視線をあちこちに飛ばし、結局俯いて蚊の鳴くような声で言った。
「あの、迎えにきてくれるって」
ミリーゼ夫人は一つまばたいた。
「あらまあ」
「迎えに!?」
無粋な大声を割り込ませたのは、リビングのソファで何気ない風を装って上下逆さの新聞を読むとかいうベタすぎるごまかしをしていた、彼女の夫でありレーナの父親であるところのヴァーツラフ・ミリーゼ氏だ。
「迎えにって……家までか!? エスコートなんてデートじゃないか! そんな、どこの泥棒猫とも知れない奴に……!」
「言葉が間違っていましてよ、馬の骨。というか」
ミリーゼ夫人は呆れたような目を夫に向けた。
「……あなた。まさかそれで会社早退してきたんですの?」
「まさかとはなんだ!? 娘を心配するのは父親の当然の務めだろう! 何かあったらどうするんだ!?」
ミリーゼ夫人は呆れたを通り越してはっきりバカにした目を夫に向けた。
「バ……いくらなんでも過保護なのではありませんの?」
「言い直す前! 言葉は飾ってくれ頼むから!」
「バカなんじゃありませんの?」
「飾って!」
「だいたいあなただって、学生だった時分にしたことじゃありませんのわたくしのお父様に。棚に上げて図々しい」
「それはそうなんだが……」
言い合っていたらインターホンのチャイムが鳴った。
ぴょこんと見えない猫耳を立てるような感じでレーナが反応する。頭の固い夫がそれに気づく前にと、ミリーゼ夫人はそちらを見ないまましっしと片手を振った。頷いてレーナがそそくさと玄関ホールに向かう気配。
夫がレーナの不在に、気づいた時にはもう遅い。
「行ってきます! ――シン、お待たせしました……」
少し前の不安げな様子はどこへやら。これ以上ないほど華やいだ声が、からころと鳴る下駄の足音と共に駆け出していった。
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