34.夕虹は晴れ(五)
東山の高台に位置する金戒光明寺はロケーションも抜群で、山門に上れば東海道が見渡せるそうだ。
「天王山、大坂城、淀川まで見えるらしいぞ」
東海道の発着点である三条大橋にも近いだけでなく。
御所へは人が走れば15分、馬を走らせれば5分ほどの距離だ。
「地元の人たちは“黒谷さん”と呼んでるんだ。金戒光明寺、と寺の名前を言っても分からない人もいるらしい」
「えー不思議!愛称のほうが有名だなんて親しみがあっていいですね」
壬生に屯所があるときから、新選組とここ黒谷さんの會津本陣との間で、ほぼ毎日のように伝達や報告が行われている。
「近藤が帰った?!」
「はい、少し前に帰られました。雨が落ち着くまで待ってはどうかと申し上げたんだけんじょ、俄雨だろうからと」
「この雨の中、どこに行ったんだ」
「何か用事があると仰っていました」
御本陣に着いたときには、すでに局長の姿はなく。
すぐ止むだろうから傘もいらないと笑って、借りていかなかったそうだ。
土砂降りの中を歩けば、ものの数分で全身びしょ濡れだろう。
「すれ違っちまったか」
「局長、大丈夫かな」
「雨、止まねぇな」
「体冷えてるでしょうね。風邪ひかないといいけど」
「鴨川の水かさも流れも増してるな」
黒谷の本陣、金戒光明寺から歩いて15、20分ほどで三条大橋に差し掛かった。
「あれは…」
「どうしたんですか?」
橋の向こうから、こちらに向かって来る笠を被った男の人に反応し、駆け寄る土方さん。
「近藤さん!」
「えっ、局長?」
「歳!かれんさん!」
「局長!」
「この土砂降りの雨の中、どこほっつき歩いてたんだよ。ほら、傘差せよ」
「迎えに来てくれたのか?」
「かれんが、傘を持たずに出かけたからって」
「こんなにびしょ濡れで、ひとまず手ぬぐいで拭きましょう」
「ありがとう」
「帰るぞ」
「あ、もしかして黒谷まで行ったのか?」
「すれ違いだったみたいだ」
「それはすまなかった!大雨の中、歩かせてしまったな」
「そんなこと、いいんです」
「早く戻ろう。熱出ちまうぞ」
「すぐにお風呂沸かしますね」
「待ってくれ、その前に寄りたいところがあるんだ」
「何だよ、用は済んだんじゃねぇのか?」
「ああ、これからなんだ」
と、右手に持っていた白いヤマユリの花を目の前に出した。
「今日はお幸の月命日だろう」
「お花を買いに行ってたんですね」
「それから、これも」
「お幸ちゃんの好きな大福!」
「そういうことなら、まずは銭湯行くぞ!」
チーンとおりんの澄んだ音が柔らかく響く。
高音の音色は、ゆらゆらとうねるような長い余韻を残して消えていった。
「近藤先生、お体あったまりましたやろか?」
「ありがとう、お孝ちゃん」
お幸ちゃんのお仏壇に花と大福を供え、手を合わせた。
局長もここへ来るのは久しぶりだろう。
お孝ちゃんと逢うのも。
「なかなか顔を出せず、申し訳なかったね」
「い…いえ!ええんです、ええんです!」
「ああ…」
「うちのことより、お仕事とか他のことに時間使ってください…!」
お孝ちゃん、テンパってる。
ドキドキしてるんだろうな。
普段は気が強くてハッキリしてるけど、恋する姿は乙女そのものだ。
むしろ誰よりも乙女かもしれない。
「ほほえましいな」
そんなお孝ちゃんの様子を見て、土方さんがわたしに耳打ちした。
余計なことは言わず、目を細めている。
「顔が赤いぞ」
と次の瞬間、局長がお孝ちゃんのおでこに手を当てた。
「お!」
「きゃっ!」
隣の土方さんとふたり、目を輝かせて胸キュンのリアクション。
思わず声を出してしまったけれど、ご両人はまったく気づいていない。
「夏風邪でも引いたんじゃないか?」
「えっ?いえ、その…」
耳まで真っ赤っかで、蒸発するか卒倒しそうな勢いだ。
「これは局長は天然でやってるんですか?計算ですか?」
「天然だろうな」
「このままじゃお孝ちゃん、自爆しちゃいます」
「そうだな、助け船出してやれ」
「あーお孝ちゃん!お台所貸してくれる?」
「え?あ!うん!今行くわ!近藤先生、失礼します…」
思考停止状態で台所に来たお孝ちゃんを抱きしめた。
「大丈夫?落ち着いて」
「久しぶりやし、急やったし…!」
近くにあった団扇をサッと手に取り、お孝ちゃんの顔に向けてパタパタと風を送る。
「平常心を取り戻そう」
「平常心でいられへん!いっ、今の何?」
「ドキドキするね、深呼吸しよう」
「…うち、変やない?」
「変じゃない、かわいい!自信持って!」
「自信なんか、持てへん…」
「おい、大丈夫か?」
「土方先生…すんまへん」
いいタイミングで来てくれた。
今にも泣き出しそうなお孝ちゃんの心をすぐに察したようだ。
土方さんなら、恋する乙女に魔法の言葉をくれると思った。
「お孝ちゃん、そこまで好きなら、この恋に本気で向き合っていいんじゃねぇか?」
「そやかて、うちではあかんのです…」
「駄目だって、近藤さんに言われたのか?」
「そうではありませんけど…」
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