30.悲しみのあなたに愛を(六)
曲の雰囲気がガラリと変わる中間部。
ここだけ弾いたら、ピアノやクラシックに詳しくない人は『別れの曲』だとは思わないかもしれない。
あの美しすぎるメロディがあまりにも有名すぎて。
この中間部が難しい。
手の小さいわたしは苦労した。
もともと
延々続く16分音符の和音の連打。
感情を抑えきれないような、情熱を胸に走っていくような。
まさかこんなに激しい、動きを持った旋律が現れるなんて、普通なら想像できない。
冒頭から素直に気持ちを込めて歌っていたら。
そうだ、この曲は“ショパン”のエチュードなんだった、と突如思い出す。
あのすばらしいメロディの陰に隠れているけれど、さすがはショパンの1曲。
やはり一筋縄ではいかないのだ。
だけど、今は。
今日だけはそんなこと気にしないで。
純粋に、ただ無心で弾きたい。
また弾いてくれるか、というリクエストに応えて、山南さんのために真心こめて弾きたいの。
「どうぞ、ご贔屓に…」
すっと戸が開いたのに気づいて、鍵盤から手を離す。
「どこにいるかと思ったら、ピアノの音が聞こえてきた」
「あ…どうしても弾きたくなって…」
「タニマチでもいるのか?」
「え…?」
「ご贔屓に、って」
「そうなんです」
冗談を言って和ませようとしてくれたんだと思って、少しだけ笑って応えた。
「うるさいですよね、こんな時間に。弾くのやめますから…」
「いや、続けてくれ。何と言う曲だ?」
「“別れの曲”…です」
「そうか、別れの…。今一度はじめから、聞かせてくれるか」
再び、鍵盤がゆっくりと動き始める。
今までにこれほど感情のこもった演奏をしたことがあったかな。
そして、始めの美しい主題が再現されていき、穏やかに曲を弾き終えた。
「美しい曲だな。だが、どこか哀愁をそそる…」
土方さんの声、いつもと違う。
気落ちしたような声。
今の冗談だって無理してるのが分かった。
「泣いているかと思った…」
近づき、わたしの顔に触れる。
「いや、泣いていたな…」
目が腫れて、涙のあとが残っているんだ。
「かれん…」
「はい…」
「抱きしめてもいいか…」
「はい…」
今までに一度だってこんな土方さんを見たことがない。
苦しすぎて、胸に刺さる。
何も気の利いたこと、言えなかった。
だって…
たぶん、泣いてる。
声が漏れないようにしていたけど。
人前ではクールで、涙なんて見せない人が。
わたしが泣いたらダメだって思ったけど、一緒に泣くのもいいかな、なんて思えてきて…
涙の雨に、ぎゅっと抱きしめるのが精一杯だった。
人に厳しくするということは、自分にも厳しくしなければならない。
自分も強くいなければならない。
決して弱い姿は見せてはならない。
常に誰より強くあり続けなければ。
この部屋を出たら、またそうしなきゃいけない。
泣いてたなんて微塵も感じさせないようにして。
我慢なんかしないで。
泣いたのはこの曲のせいにしてもいい。
今だけは思いっきり泣いてほしい…
「…お前は、どう思う?」
「え…?」
「俺の決断は本当に正しかったのか…」
突然の問いに戸惑い、言葉に詰まる。
「山南さんは…最期に、何も後悔していないと言ったんだ」
心情を察して、まだ声を出せないでいた。
「俺が居場所を奪っちまったのかもしれないな…」
自分が山南さんを追い詰めたんじゃないか…
そう思ってるのね。
「……分からない」
「そうか…」
「ごめんなさい。わたしには正しかったのか、間違ってたのかは分からない」
「…そうだな。すまん、変なこと聞いちまったな。忘れてくれ」
抱きしめた腕がほどかれて、体が離れた。
「嫌われても仕方ないと思ってる」
「…でもね!」
何かひとつでも勘違いしたまま別れるなんていけない。
山南さんの魂は、今もまだここにいる気がするの。
そうでしょう?
山南さん。
ここにいるよね?
まだ行ってはだめ。
行かないで。
「全部聞きました。大津で、山南さん本人の口から」
「全部って…どこから」
「何もかもすべてです。その…一度だけ情報を渡してしまった、とかも含めて」
「誰にも言ってないだろうな?」
「はい…」
誰にも言わないということは、土方さんが一方的に悪者になるということで。
ただ、言ってしまえば、今度は逆に山南さんが悪者になる。
「あの書き置きも、土方さんが山南さんの字を真似て書いたんだろう、って…」
土方さんは山南さんを思い、真実を言うなと言う。
山南さんは土方さんを思い、真実を言いなさいと言うだろう。
試衛館時代からのみんなと、島田さん、山崎さんには言うべきだと思った。
あの人たちなら、山南さんのことも土方さんのことも理解しているから、沖田さんとわたしがそうだったように、真実を知ったところで、ふたりを悪く言ったり軽蔑したりしない。
絶対に。
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