30.悲しみのあなたに愛を(四)
明里さんが去って、どれくらいこうしていたのか。
泣きながら走り去ってしまっても、わたしたちはこの場から動くことができず、黙ったまま格子窓を眺めていた。
随分と時間が経った気がする。
辺りは静まり返って。
静かすぎて怖い。
時計がないのがかえってよかったのかもしれない。
今何時なのか、時を知るのも怖いくらいだ。
もうすぐ夕暮れなのに、あの部屋に灯りはつかないのだろうか。
「あ、お父はん…」
八木のおじさんがうつむいたまま前川の屯所から出て来た。
沈んだ表情。
わたしたちがいるのに気づき、足を止めた。
嫌…
おじさん、何も言わないで…
聞きたくない。
涙に濡れた瞳で。
ぽつりと低いトーンで言った。
「山南はんはもう…切腹してしまわれた…」
あんなに泣いても、涙ってまだ出るの。
「お父はんも、立ち会うたんか?」
「いや…」
首を横に振って、おじさんもほろりと涙した。
「あそこの部屋やったそうや…」
指差したのは、あの格子の部屋。
明里さんとお別れした後に、あの部屋でそのまま…
本当の本当にもう会えないの?
現実が受け入れられない。
「わても、しばらくここにいてええか…?さすがにしんどいな…」
唇を震わせ涙を堪える為三郎。
さっきはぽろぽろ泣いてたのに。
「泣きたい時は泣くのがいちばんや…」
「男は心を強う持たなあかんて、皆が言うてはった」
「強がるのと、強いのは違うよ」
何かを守るために勇気を出すこと。
つまづいて転んでも立ち上がること。
泣いてもいい、逃げないで乗り越えること。
「わたしたちは絶対に忘れちゃいけない…」
命の重さも尊さも、知ってるつもりだった。
「自分の命だけど、自分だけのものじゃないって。絶対に忘れちゃだめなの」
毎日を大切にしていなかった。
生きる意味など考えたこともなく。
現代に生きる人にも、明日が必ず来るなんて保証はないけれど。
昨日があって今日が終われば、明日が来る。
それが当たり前だったの。
「剣を持たないわたしたちだからこそ、心に刻んでおかなきゃいけない」
「何で…?」
「剣を持つ人はときどき、それを忘れちゃうでしょ?」
「そやな…」
当然ながら、おじさんも山南さんの死をまだ受け入れられていないようだった。
「山南はんは優しいお人やさかい。斬った相手に対しても、自分のことのように深く心を痛めてはったんと違うか」
仕事を全うできないと分かっていても。
やるか、やられるかのこのご時世では、その優しさが伝わらないこともあったのかもしれない。
「
真面目な人ほど、問題に向き合おうとすればするほど、悩みから抜け出せなくなってしまうのかも。
そんな苦悩と葛藤をしているときでも、山南さんは穏やかに笑いかけてくれた。
どんなときでも誰にも思いやりを持って接していた。
「それは逃げでも、弱さでもあらへんのや」
「はい、敵であっても心を砕いて手を差し伸べようとするなんて、すごいことだと思います」
「剣を握るっちゅうことは、常にそういう負けたほうの思いも背負うことなんかもしれへんな…」
信念を曲げず、ブレずに生きていくなんて簡単なことじゃない。
決してできないわけではないけれど、周りの人の気持ちにふれたら、揺らいでしまうことだってある。
ひとりで生きているわけじゃないから。
「さっきのあの
「はい…」
「好きおうてるのにな…なんでやろ」
「ふたりみたいに、自分の口でちゃんと伝えられる人にならないとね…」
「何を?」
「ありがとうと、あいしてる…」
涙で声が詰まる。
「大好きだからこそ、家族も友達も好きな人も存在が当たり前すぎて、恥ずかしくて伝えられないときもあるけど…。誰でもいつか言えなくなる日が来る」
「そやな、こんなふうに突然言えんようになるかもしれへん…」
「俺…今日のこと思い出したら、その度に泣いてしまうかもしれへん。あの女の人とのこと…」
「うん…」
「大人になっても、年を取っても、泣いてまうと思うんや…」
「うん…」
「そやけど、一生忘れへん」
「うん」
「俺とかれん姉ちゃんは、ふたりの証人なんや」
「うん」
西の空が赤く染まっていく。
あの部屋を照らすように。
今日の夕焼けは美しすぎて。
こんなにも美しいのに、とても残酷だ。
悲しすぎて胸が張り裂けそうなのに、なぜきれいだと思うの?
切ないほどにきれいで。
水色、オレンジ。
紫、ピンク。
色が融け合い、心を奪われていまいそうだ。
沈丁花が夕空に融けたら、こんなふうになるのかもしれない。
おひさまは沈んでいくけれど、こんなにも眩しい。
涙でにじむ目に、心に沁みる。
涙を拭くことも忘れて、日が暮れていくのをずっと見ていた。
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