29.夢の香、千里のかなたへ(八)
「それから君はピアノを見事に弾くが、異人から短期間で習得した程度の腕ではないだろう?」
「はい、5歳からレッスン…お稽古を」
「やはりね。楽器も剣術と同じで、何年も稽古を重ねなければああはこなせない。西洋の楽器ならなおのこと」
山南さんの推理はほんの序の口だった。
「最初に君がここへ運び込まれて目を覚ました時に、我々のことを“新選組”かと聞いた。知ってのとおり、その頃はまだ壬生浪士組」
「あ…」
「その後、會津候から“新選組”の名を賜った時は驚いたよ」
「そこまで気にしてなかった…」
「実は君は會津の隠密で、我々の動きを逐一報告しているのかとも思った。
「まさかそんな!忍者みたいなことできません」
「だろうね。しばらく警戒していたが、君の性格からしてそれは私の思い過ごしだった」
「思い過ごし?」
「君には不思議な魅力はあるが、何かを背負っているような影は皆無だ」
そんなところまで深読みするなんて、さすがだとしか言えない。
新選組の総長としての責任感だろうか。
「そこで申し訳ないとは思ったが、君の持ち物を拝見させてもらった。そうしたらこれが」
そう言って目前に差し出した物。
これ…大学の学生証。
使わないから、なくなっていたことにも気づかなかった。
「紙や布より丈夫で、硝子や鉄より柔らかい。何でできているのか、皆目見当がつかない」
プラスチックのカード。
久しぶりの感触。
江戸時代にあるわけがない。
「君が先ほど言った、西洋式の変え方というのがこの記号だろう?」
山南さんが指差した記号とは、まだ使われていないアラビア数字だった。
「はい、1年の変え方は西暦といいます」
「調べたところ、現在は1865年ということが分かった」
「どうやって…」
「生年月日と書かれているこれが君の生まれ年だね。とすると、100年以上の開きがあることになる。知った時は驚いたよ」
「ですよね。あ、日本独自の元号は残りますよ」
「今は“元治”だが、今後の元号を書いてくれないか?君の時代まで」
「分かりました」
紙と筆と墨を受け取る。
慶応の“応”の字は、旧漢字のほうがいいよね。
「“慶應”、“明治”、“大正”、“昭和”、“平成”、か…」
遥か遥か先の時代。
山南さんにとっては、日本であって日本でないようなものだ、と感じるかもしれない。
「あの日ここへ来た君は、訳の分からないことを話していたが、納得だ。時代を遡ったことを確認するための質問だった」
「はい」
「この“学生証”とやら、これほど鮮明に、絵の如く色が付いた写真も初めて見た。色を染めたわけではないだろう?」
白黒とかカラー以前に、写真自体がまだめずらしい物だもの。
カメラや写真の技術が日本に入ってきて、さほど経っていないみたいだし。
「もしや異人かとも思ったが、言葉は通じるし、身なりも容姿も日本人だ」
「すごい…」
「他にも、君の持ち物は用途不明の謎の物ばかり。西洋から伝わったのであろう目新しい物も次々と出てきた」
鮮やかで見事な推理。
感心のあまり、思わず聞き入る。
「化粧品には詳しくはないが、容器も違えば、花のごとく鮮やかで見たことのない色のものが揃っていた」
ここでのメイクは赤、白、黒の3色が基本だから。
アイメイクにも紅を使うのだ。
「さっきの会話もそうだ」
「さっきの?」
「大津は初めてだと言ったね」
「はい」
「會津から京へ来たならば、東海道は通ったはずだろう?」
「あ」
「まあ、船ということも考えられなくはないが、大概は宿場町を通る」
「あの、わたしのことを怪しいと思ったのに、どうしてそのままここへ置いてくれたんですか?」
「考えてみれば…私たちは試衛館で出会う以前のことをすべて知っているわけではない」
「そうなんですか?てっきり知ってるものだと」
「生い立ちや、どこでどのように過ごしてきたのかは関係ない」
「そうですよね」
「お互いを信頼し、同じ志を胸にしているが故に、我々は共に生きることを選んだ」
「仲間、ですよね?今も変わらず」
「ああ、もちろん。かれん君もだよ」
「わたしも、仲間?」
「ああ」
「すごくうれしいです」
仲間。
それなのに。
今、山南さんが死を目前にしている。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「気持ちは変わりませんか?未来の話を聞いても」
「未来か…」
「さすがに150年後を見ることは叶いませんけど、少し先の未来を見てみたいと思いますよね?」
「それは見てみたい。知りたいこともたくさんある」
「後悔はないんですか?」
「後悔か…考えたことなかったな」
言いきれるのがすごいと思った。
わたしにもできるだろうか。
そんな生き方が。
「信念を貫く他、道はない」
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