25.會州一の志(三)
ポーン…
クリアに響くピアノの音。
土方さんの人差し指が、鍵盤をひとつ優しく叩いた。
久しぶりだなぁ。
ようやくふたりきりの時間が持てた。
少し広めの長方形、背もたれのない猫足のピアノ椅子にふたりで腰掛ける。
ピアノに向かうわたしを後ろから抱きしめる。
「今日は俺だけのために弾いてくれないか」
はい、と頷いたわたしの指を鍵盤に導き、今度は重ねた指でひとつ白鍵を鳴らした。
「何か、爽やかな曲がいい」
耳元で囁く声に反応して胸が高鳴る。
「遠くにいても、やわらかい風が吹いたら、ふっとお前が思い浮かぶような」
土方さん、疲れてるのかな?
毎日、目の回るような忙しさだった。
それに。
戦でたくさんの血や遺体を見たはずだ。
日々の市中見廻りでも気を張ることが多いし、わたしが思うよりもずっとずっと、新選組の仕事というものは死と隣り合わせなんじゃないかって…。
「あ、すまん。こうしていたら弾けないよな」
「弾き終わったら、ぎゅってしてくれますか?そのときは離さないで…くれますか?」
「そんなこと言うと、離したくなくなる」
優しく微笑む人に、厳しい表情の仮面を被らせたくないのがわたしの本音で。
それも土方さんが自分で選んだ道だ。
常にそばにいることは難しくても、心だけはいつでも寄り添っていたい。
美しいアルペジオ。
16
心地よい風が吹いている、そんな曲。
ショパン、『エチュード Op.25 No.1 変イ長調』
テンポを少しおさえ気味に、ひとつひとつの音を長く響かせて。
流れるように美しく。
やわらかく静かに弾く。
クレシェンド、
デクレシェンド、
髪を揺らすのは、穏やかな春風か、爽やかな夏風か。
静かに、けれど途切れることなく軽やかに吹く風。
“嵐が迫り来るとき、牧童が洞窟に避難している。遠くで風や雨が吹き荒んでいるが、牧童は静かに笛を取り美しい旋律を吹いている。そういうところを思い浮かべてみなさい。”
と、 ショパンが弟子に言ったことから、『牧童』や『牧童の笛』とも呼ばれる。
シューマンが名づけたという『エオリアン・ハープ』の愛称が最もメジャーだろう。
「エオリアンハープ?」
「自然の風を受けて、ひとりでに音が奏でられる竪琴です」
ギリシャ神話にも登場する弦楽器。
風の神・アイオロスから名づけられた。
「風の神様の楽器です」
ショパンの演奏を聞いたシューマンは、“この曲はエチュードというよりは詩である。曲が終わったとき、もう一度見たいような幸福な夢から覚めたような印象を受ける。”と語った。
ショパンはどれほど美しい演奏をしたんだろう。
2分30秒~40秒ほどの短いエチュード。
淡い妄想をしてみる。
もしも。
現代で出逢ったとしたら、わたしは土方さんに恋をしたかな?
放課後の音楽室でこの曲を弾いていたら、静かにドアが開いた。
「“ピアノ、誰が弾いてるのかと思って”」
華やかで目を引く、ちょっとだけ不良の先輩。
先輩に密かに憧れている
人気があるから、話しかけられる日が来るなんて思いもしなかった。
「“その曲、初めから弾いて”」
窓際に寄りかかり、わたしのピアノの音色に耳を傾ける。
開けっ放しの窓、カーテンが風に揺れていた。
夕空から差し込む光がたゆたい、先輩の黒髪を照らす。
それから毎日、廊下ですれ違うときには目を合わせるだけで。
放課後の音楽室でふたりきり、言葉を交わす。
なんて。
そんなふうに、少女漫画みたいな出逢いだったらいいな。
制服姿の土方さんはどんなかな?
一目で恋に落ちるほど、かっこいいに決まってる。
「ため息をもらすほど、最後までとにかく綺麗な曲だな。幸せに満ちた気分にさせてくれる」
暴風や向かい風の中でも、心穏やかに。
祈りを捧げるような。
風の神様に祈りが届くとき、風に吹かれて世界は輝く。
「気に入ってくれましたか?」
「うん、もう一度、初めから弾いてくれないか」
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