第2話 天使と小悪魔

 ギィンと鈍い音をたてて剣身が火花を散らす。

 ヴィルジールの剣撃はいつにも増して重く、鋭く、果敢な攻め立てに圧され、セルジュは止むを得ず一歩足を退いた。

 ロランの話では、ヴィルジールは夜会で見かけたリュシエンヌに一目惚れし、押しの一手で婚約まで漕ぎ着けたらしい。そうまでした相手が今、この試合を観ているのだから、やる気が漲るのも無理はない。良いところを見せたいと思う気持ちも理解できる。

 だが、セルジュにも護衛騎士という大役を任されている矜持がある。本来護るべき相手である王太子に易々と討ち取られるわけにはいかない。ロランが言うように気を遣うにしても、簡単に負けを認めるわけにはいかないのだが‎‎。

 ヴィルジールの剣撃を跳ね除けて素早く距離を取ると、セルジュは大きく息を吐いた。剣の柄を握り直し、鋭い視線でヴィルジールを威圧する。充分な間合いを保ちながら乱れた息を整えた。


 いくら剣の天才と言われるヴィルジールが相手でも、普段のセルジュならばここまで防戦一方にはなり得ない。異常なまでの劣勢の原因は判っていた。

 全身が嫌な汗をかいている。訓練で汗だくになることはあっても、こんなにも不快な汗をかくことはそうそうない。

 それもそのはずだ。今セルジュの全身を濡らしているのは身体を動かしてかく爽やかな汗ではない。緊張と恐怖と羞恥‎から滲み出る冷や汗は、あのとき受けた屈辱による精神汚染にセルジュの本能が必死に抵抗している証だ。

 試合をはじめてからというもの、絶えず背中に視線を感じている。絡みつくような視線が、夕陽に染まる榛色の瞳を想起させる。心音が乱れ、あらかじめ巻いてあった布が滑り止めの役割を果たせないほどに手のひらが汗でぬめりを帯びていた。

 ——何故、寄りにもよってこんな日に、あの女が‎。

 ぎりと奥歯を噛み締めた、その瞬間。ヴィルジールが素早く切り込み、同時に刃渡りに重い衝撃が疾った。捻りを加えた剣先の動きに鍔が絡め取られ、握り締めた柄がぬるりと滑る。耳触りな金属音とともに弾き飛ばされた剣身が陽の光に輝いた。



***



 手合わせの幕切れは実に呆気ないものだった。

 勝利の余韻に浸るヴィルジールを残して塀の際に置かれたベンチに腰を落ち着けると、セルジュは黙々と剣の手入れをはじめた。剣身を陽にかざして刃毀れの有無を確認する。砂利を踏み締める靴音に気付いてちらりと前を見上げると、タオルを手にしたロランが満足気にセルジュを見下ろしていた。

「見直しましたよ。鬼気迫る形相でしたから、我を忘れて勝ちにいくのかと内心冷や冷やものでした」

「もう少し競るつもりだったんだがな」

 自虐的に笑い、セルジュは鞘に収めた剣を武器棚に立て掛けた。汗に塗れた布の切れ端を解き、手のひらを軽く握る。手首にも指先にも痺れは残っていなかった。

「殿下のあの喜びようを見ましたか? あれで良かったのですよ」

 そう言って、ロランが柔和な笑みを浮かべる。差し出されたタオルを受け取り、ちらりとその後方を見やると、リュシエンヌと何やら愉しげに語らっているヴィルジールの姿が見えた。

 無邪気に浮かれるヴィルジールを相手に華やかに微笑んでいたリュシエンヌは、ロランとセルジュの視線に気が付くと、ヴィルジールに軽く頭を下げ、ふたりの側へと歩いて来た。座り込むセルジュと向かい合い、彼女は慎ましくお辞儀をする。

「とても素晴らしい試合でしたわ」

 微笑みとともに労われ、セルジュは慌てて佇まいを改めた。

「お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ございません」

「ご謙遜なさらないで。貴方のような方が殿下の護衛についてくださっていると知れて、わたしも安心しました」

 そう言うと、リュシエンヌは爪先立つようにしてセルジュにひそりと囁いた。

「殿下に気を遣ってくださったのでしょう?」

 ふわりと微笑むその仕草に、胸がきゅんと締め付けられる。仄かに香る甘い匂いに心臓が跳ね上がり、思わず後退りそうになった。緊張で全身が強張っているが、決して嫌な気分ではない。

 軽くお辞儀をして王太子の元に駆け戻るリュシエンヌを、セルジュは呆然と見送った。

 美しく可憐で優しい、まるで天使か女神のような女性だった。長いあいだ忘れていた甘やかな感情が胸中を満たしていくようだ。

 つんと袖が引っ張られたが、セルジュは敢えて気付かないふりをした。

「セルジュさんですよね?」

 弾んだ声を聞き流す。「聞こえない聞こえない」と自分に言い聞かせると、セルジュは踵を返し、颯爽と歩き出した。先ほど憶えた甘い香りと感情を噛み締めて、纏わりつく存在を脳裏から消し去ろうと試みる。

 がずっとリュシエンヌの傍に控えていたことには気付いていた。だが、今のセルジュにとって彼女は他人でしかない。挨拶をする義理もない。

 掛けられる言葉を全て無視して、そそくさと訓練場を離れようとしたセルジュだったが、その足は思わぬ伏兵に阻まれた。

「セルジュ、そちらのお嬢さんは知り合いですか?」

 空気を読まないロランの言葉に思わず舌打ちが洩れる。ぎりと拳を握り締め、セルジュは渋々後方を振り返った。

 あれから随分と経つのに、あどけない仕草も表情も変わっていない。亜麻色の髪の少女はセルジュと目が合うと、眩しいものでも見るかのように愛らしい榛色の瞳をすっと細めた。

「わたしです、わたし。コレッ」

「わかっている。さっき名前を口にしてやっただろうが」

「じゃあなんで無視するんですか。久しぶりの再会なのに」

 不服だと言いたげに、コレットはぷうっと頬を膨らませた。

 セルジュは軽く苛立った。こめかみに血管が浮かび上がっているのがわかる。見渡した視界の端に、にやにやと笑いながら去っていくロランの姿が映っていた。



***



 居館と別棟を繋ぐ長い渡り廊下にふたり分の靴音が響いていた。

 セルジュの私室は別棟の騎士団宿舎にある。護衛騎士を務める以上、早急に部屋に戻り、身支度を整えて、王太子の私室の隣に設けられた控えの間に戻らなければならない。

 護衛騎士の任務は忙しい。だから、先ほどから絡んでくる小煩い小動物に構っている暇などないというのに。

 大きく溜め息を吐くと、セルジュは足を止めて後ろを振り返った。


 長身のセルジュと小柄なコレットでは歩幅も大分違う。早足で歩くセルジュをずっと小走りで追い掛けていた所為だろうか。肩で息をしていたコレットは、セルジュと目が合うとぱっと表情を輝かせた。

「ついてくるな。お前はリュシエンヌ様の侍女だろうが。仕事に戻れ」

 素っ気なく言い放つと、コレットは息を弾ませたままセルジュの言葉を笑い飛ばした。

「それなら大丈夫です。侍女の仕事はジゼルがやってくれますから」

「どういうことだ」

「ここでのわたしの仕事は、王宮で暮らす人達を取材して、リアリティのある面白い小説を書くことなんで!」

「……は?」

 セルジュは露骨に不機嫌になった。背が高く体格も良いセルジュがこうやって凄んで見せれば大抵の相手は怖気付くものなのだが、コレットが怯む様子はない。苛立ちを隠そうともしないセルジュを相手に、彼女はあっけらかんとして言った。

「わたし小説書いてるんですよ。で、リュシエンヌ様はわたしの小説の一番の読者様なんです」

「行儀見習いじゃなかったのか」

 中流以下の貴族の娘が他家に仕える理由と云えば、行儀見習いと相場が決まっている。上流貴族の令嬢に仕え、礼儀作法や言葉遣い等を身に付けるのだ。

 コレットはマイヤール辺境伯の一人娘であり、中流以下の貴族とは言い難いが、この落ち着きようの無さなら、彼女の父であるマイヤール辺境伯が心配するのも頷ける。てっきり行儀見習いで公爵家令嬢であるリュシエンヌに仕えているものだと思い込んでいたが、違ったのだろうか。

 首を傾げるセルジュの言葉に、コレットの能天気な声が続いた。

「一応、名目上はそういうことになってますけど」

 あっさりと肯定されて、セルジュは思わず溜め息を洩らした。

「真面目にやれ。マイヤール辺境伯と言えば国防の要となる国王陛下からの信頼も厚いお方。その令嬢であるお前がいつまでもこの有様では、卿もさぞ頭を悩ませていることだろう」

 話をしているだけで頭が痛くなる。仏頂面で眉間を押さえるセルジュを余所に、コレットは心底楽しそうに声を弾ませた。

「そんなにつんけんしないでくださいよ。一度は結婚の約束までした仲じゃないですか」

「……あんなもの、親が勝手に決めただけだ」

「もしかしてご機嫌斜めですか?」

 怪訝な瞳で顔を覗き込まれ、セルジュは遂に声を荒げた。

「お前は、自分が過去に何をしたか覚えていないのか?」


 純真だった少年の日の苦い記憶が蘇る。

 この女がいなければ、あんなことが無ければ、セルジュの少年時代はもっと輝かしいものになっていたに違いないのに。

 ことの重大さを理解しようともしないコレットの無神経さに無性に腹がたつ。はっきりと自覚出来るほどに、セルジュは険しい顔をしていた。

 馴れ馴れしく話し掛けるなら、良い加減それなりの誠意を見せてもいいはずだと思っていた。だが、セルジュの意に反し、コレットはきょとんとして首を傾げるだけで、目に見えない疑問符を宙に浮かばせていた。

「もういい! 二度と俺に近付くな!」

 湧き上がる怒りをなんとか押し留める。吐き捨てるように言い残して、セルジュは足取り荒く渡り廊下を後にした。

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