幼馴染みに初めてを奪われた騎士はトラウマを克服したい

柴咲もも

第1話 トラウマがやってきた

 夕陽に朱く染まる一室で、少女と向かい合う。夕陽の朱よりもさらに紅く頬を染め、幼さの残るあどけない顔を伏せると、どこか蠱惑的な榛色の瞳でセルジュを見上げ、少女はぽつりと呟いた。

 セルジュは耳を疑った。心臓が、尋常ではないほどに暴れていた。拒絶することもできず、ごくりと息を飲んで、少女のされるがままになっていた。

 窓枠の影が色濃く落ちる絨毯に膝をつき、少女はたどたどしい指づかいでセルジュの前を寛げる。ほっそりとした指先が自身に触れる、その光景から、セルジュは目が離せなかった。


 どうしようもなかった。

 初めて他人から与えられるあまやかな刺激に抗うことなどできようもなく、セルジュはただ少女にされるがままに快感を貪り続けた。息を荒げながらテーブルに手をついて、必死の思いで身体を支えた。

 上目遣いで何かを問う少女の言葉すら耳に入らなかった。己の乱れた息が耳触りで、ただ唇を噛み締めて、必死で声を堪え続けた。



***



 ハッとして目を見開くと、まだ薄暗い窓の向こうから小鳥の声が聞こえてきた。

 首筋が嫌な汗でぐっしょりと濡れいて、身体中が酷くべとついて不快だった。寝間着の袖で汗を拭い、のそりと身を起こすと、セルジュはベッドの縁に腰掛けた。

 酷い夢だった。しばらくみないと思って安心していたのに、あんなにも鮮明にあの日が再現されるなんて。

 黒檀色の短い髪をくしゃくしゃと掻き乱して、セルジュは低く唸った。


 少年の頃に体験したあの出来事は、初めて味わう快感とともに、セルジュの心を、プライドを酷く傷つけた。

 自分より四つも年下の少女に良いように弄ばれ、情けない声を聞かれ、果てる瞬間までしっかりと見届けられて。あまりの羞恥に耐えきれず、茫然とする少女を置き去りにして、セルジュはその場から逃げ出したのだ。

 幼馴染みであり婚約者でもあった少女とは、それ以来、会っていない。あまりのショックで屋敷に引き籠り、半年近く少女からの便りを無視し続けていたところ、あっさりと婚約を解消されたからだ。

 あれだけセルジュを辱しめて、心に傷を負わせて、おまけに一方的に婚約を解消するなんて。

 酷い女だと思った。あどけない少女の姿に騙された。あの女は愛らしい天使の皮を被った悪魔なのだと、そう悟った。


 その後の人生は散々だった。あの出来事がトラウマになり、セルジュは女性を前にすると酷く緊張するようになった。全身が嫌な汗をかき、動悸が激しく乱れるようになったのだ。

 寄宿学校の創立記念パーティーで、ダンスのパートナーになった相手に手汗がすごいと大声で馬鹿にされ、皆の前で笑い者にされた。それが、セルジュの自尊心にトドメを刺した。

 以来、セルジュは社交の場には顔を出していない。幸いセルジュは子爵家の次男で、年の離れた兄には既に妻子があった。

 結婚はすっぱりと諦めて、剣術修行に明け暮れた。その甲斐もあって、この国の王太子に剣術の腕を買われ、先日、護衛騎士という誉れ高い任を与えられたばかりだった。

 長いあいだ悩まされてきた悪夢も、みなくなったはずだったのに。


 ぶんぶんと首を振り、悶々と頭を悩ませる生々しい夢の記憶を消し飛ばす。顔を洗い、素早く訓練着に着替えて、セルジュは自室をあとにした。



***



 振り下ろされた切っ先を受け流し、鍔迫り合いに持ち込むと、拮抗状態の最中、相手の集中が途切れる一瞬がある。その隙を見計らって軽く柄を捻ってやれば、弾き飛ばされた剣が石畳に転がって、甲高い音を響かせた。

 手首を抑えて膝をつく相手の眼前に剣先を突き付けて、セルジュはにやりと笑ってみせた。

「勝負あったな」

「……あー、またかよ。くそー」

 セルジュがしたり顔で勝利を告げると、稽古相手の騎士は気の抜けた声を洩らし、両手両足を投げ出して地面に伸びた。

「相変わらず強ぇな。俺の前に十人相手してたから今日はイケると思ったんだけどなー」

「相手の疲労を当てにしてるようでは高が知れるぞ」

 騎士の言葉を鼻で笑い飛ばし、もう一度大きく剣を振るう。そのままセルジュはその場を離れ、訓練場の隅でこちらを見据える男の元へと向かった。


 黒い燕尾服に身を包んだ赤銅色の髪の青年は、腕を組んで眼前に立つセルジュと向かい合うと、灰色の瞳をすっと細めて優雅に微笑んだ。

「朝から精が出ますね」

「これが仕事だからな。それより何の用だ、ロラン」

 セルジュが汗を拭いながら要件を尋ねると、ロランと呼ばれた青年は懐から手帳を取り出して、すらすらと言葉を連ねはじめた。

「本日のスケジュールの確認に来ました。午後から王太子殿下に剣術の稽古をつける約束は覚えていますね?」

「覚えている。安心しろ、この程度の訓練の疲れなど午後には響かん。殿下の訓練でも全力でお相手するつもりだ」

「……それです。それが困るんです。貴方は何かと勝ちに拘る。殿下は良いと仰いますが、それでは困るのです」

 深々と溜め息をつかれ、セルジュは太い眉を露骨に顰めた。

「手を抜く方が失礼に当たるだろう。第一、殿下の剣の腕は俺と互角だ。手を抜けばこちらがやられる」

 腕を組んで踏ん反り返って見せれば、ロランは首を振って顔を伏せ、眉間を抑えて溜め息をついた。

「本日の訓練には殿下の婚約者であらせられるグランセル公爵令嬢リュシエンヌ様が同席なさるんですよ」

「それがなんだ」

「鈍感ですね。こういった場合、殿下に格好良く勝たせて差し上げるのも臣下の勤めだと言っているのです」

「……なるほどな」

 要するに、王太子が惚れた相手に良いところを見せるための引き立て役になれということらしい。それならそうとわかりやすく言えば良いだろうに。

「善処しよう」

 ため息混じりにそう応えると、セルジュはずかずかと王宮に向かって歩き出した。

 やれやれと肩を竦ませて、ロランが後を追ってくる。


 ロランはセルジュが仕えるべき主であるデュラン王国王太子ヴィルジールの従者だ。セルジュが王太子の護衛騎士に任命された同日に王宮に上がったことや、王太子付きという立場上、文官と武官という別の所属でありながらも、ふたりはなにかと行動を共にすることが多い。子爵家の次男という似たような環境で育ったこともあり、互いに身の上話をすることも度々あった。


「婚約者と言えば、セルジュ、貴方も特定の相手がいたりするのですか?」

 王太子の私室に向かう途中、それまで黙って隣を歩いていたロランがおもむろに切り出した。

 婚約者というその言葉に、今朝の悪夢がよみがえる。無意識にごくりと生唾を飲むと、セルジュは平静を装いながら曖昧に問いに応えた。

「……今はいない」

「親に縁談を持ち掛けられたりは……?」

「ない」

「そうですか、羨ましいですね」

 微かに含みをもたせてそう呟くと、それきりロランは口を噤んだ。


 大方、親に縁談でも薦められたのだろう。憂鬱な溜め息をこぼすロランに僅かに同情しながらも、女性関係の話題がすぐに済んだことに、セルジュはほっと胸を撫でおろした。

 女性恐怖症のことは、まだ誰にも話していない。幸い騎士団には男しか所属しておらず、教育の行き届いた女中達は決まった時間にしか姿を見せない。そのため、王宮ここでは意図的に女性と接することなく暮らすことが可能だった。

 言ってみれば、この王宮はセルジュがトラウマに思い悩むことなく暮らせる貴重な場所だったのだ。

 少なくとも、このときまでは‎。



***



 青く澄み渡る空の下、広々とした庭園に剣撃を交わす甲高い音が木霊する。

 一介の騎士達が使用する訓練場とは似ても似つかない整然とした広場の中央で、セルジュはお得意の剣技を奮っていた。

 対するは、このデュラン王国の王太子ヴィルジール。さらさらと揺れる蜂蜜色の髪と澄んだ空色の瞳が美しい、絵に描いたような王子の姿をしているものの、細身の身体に不似合いな剣撃と神懸かりなセンスを備え、この国の騎士達の羨望を一身に集める彼は、護衛騎士を務めるセルジュすらもときに捩じ伏せる、剣術の天才だった。


 長く続いた打ち合いの最中、ふたりの攻撃の手が同時に止まる。互いに視線を交わし、小さく頷き合うと、ふたりは剣を収め、王宮に続く石畳の道を振り返った。

 小道の向こうから人影がふたりの元へとやってくる。先頭を歩くのはロラン、その後ろのドレスの女性がヴィルジールの婚約者だろう。さらに後に二名程控えているようだが、姿はよく見えなかった。

「リュシエンヌ!」

 婚約者の名を呼んで、ヴィルジールが大きく腕を振る。普段は人に見せない無邪気な笑顔は、先程までの鋭い剣術の使い手とはおよそ思えない。駆け出したヴィルジールの背中を、セルジュは早足で追い掛けた。


「お招きありがとうございます、ヴィルジール殿下」

 ドレスの裾を持ち上げて、軽く足を引いて、グランセル公爵令嬢リュシエンヌが淑やかにお辞儀をしてみせると、薄い紅茶色の長い髪がふわりと柔らかに揺れた。儚げな印象を与える透きとおる白い肌は頬だけにほんのりと赤味がさして、翠玉のようなつぶらな瞳が愛らしい。瑞々しく潤った唇には薄らと紅が引いてあった。

 可憐で清らかで美しい彼女は、一言で言ってしまえば、これ以上ないほどセルジュの好みのタイプだった。王太子に仕える身でありながら主の存在すら忘れてしまうほどに、セルジュはリュシエンヌに魅入っていた。それ故に、彼女の側に控えるふたつの影に気が付いていなかった。


「私の護衛騎士を務めるセルジュだ。今日の手合わせの相手をしてもらう」

 ご機嫌なヴィルジールがセルジュを紹介すると、リュシエンヌはセルジュを見上げ、ふわりと微笑んだ。

 あまやかな笑顔にだらしなく表情が緩んでしまう。何か一言とセルジュが口を開いた瞬間——その声は恐ろしいほどはっきりとセルジュの耳に届いた。

「セルジュさん?」

 鼓膜を震わせるその声に、ぞくりと悪寒が走る。

 あれから何年経ったのか、声変わりもしているだろうに、姿を確認しなくてもセルジュには声の主がわかってしまった。

 間違いようもない、この女は‎——。

「コレット・マイヤール……」

 からからに渇いた喉で少女の名前を絞り出す。

 亜麻色の髪に榛色の瞳をもつ小悪魔は、苦々しく呟くセルジュを見上げ、にっこりと微笑んでいた。

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