僕の白
その数日後、俺は矢張り毎日のように病院へ通っていつもの席に座っていた。庭からは薄っすらと、あのヒヤシンスブルーの紫陽花が控えめに咲いているのが見えた。
「耐え忍ぶ恋。」
あの時、彼女はあの小さくて無機質な花に悲しい意味があるんだといった。そうして、私に似ているといったんだ。その時、笑っていたかどうかはもう忘れてしまったけれど。花を眺めていると、ふいに横の席に人の気配を感じて俺は目線を向けた。いたのは、白衣の父親だった。細身の優しそうな雰囲気、実際、父親は優しかった。好かれる医師とは、成程、父親で間違いない。
「どうしたんだ、父さん」
俺が目をまた花に戻して言うと父親は一つため息をついて体を前に乗り出すように背を曲げ手を組んだ。
「結崎加奈ゆいざきかなさんという人がいる、父さんの担当患者さんだ。」
「ああ、知ってる、父さんの患者ってこともなんとなく。」
知っていた。彼女は俺と話をするとき、俺の向こうに父親を見ていたから。そうして俺の大好きなあの笑顔で俺の向こうの父親に笑っていたのだ。
「あの子は癌だ。」
父さんは少し重苦しく口を開いて一言ずつ噛みしめるように言った。
「ああ、助からないんだろう。」
俺があえて軽く淡々とそう言うと父親ははっとした顔で俺を見た。彼女がお前に言ったのかと、そう、目が問いかけていた。だけど実際にはありえないと父親もわかっているはずだった。どうせ優しい父さん、―――いや、高野先生のことだ。
本当、優しいだけが取り柄の。
そんな父親が結崎に死ぬなんて言うわけがない。
「好きになるなよ、つらいのはお前だからな。」
父親はそういって席を立った。白くて細くて、ただ人の親として背中だった。だけど俺はそれに返事はしなかった。俺の中で結崎への思いは、もう理屈でどうにかなるもんじゃなくなっていた。それに、父さんに言われることほどつらいこともなかった。
結崎は次の日、車いすで庭に出てすぐに倒れた。近場にいたナースがすぐに駆け付けて、今は病院で寝かされていた。すっとスライド式のドアを開けて俺は慣れた手つきで病室へと入った。
「結崎。」
小さく声を出して呟くと、静まり返った病室の静寂がより一層際立った。結局俺は四日間、毎日病室へ通った。だけど、結崎を目を覚ますことはなかった。
五日目の夕方、俺は学校が終わるとすぐに病院へと向かった。真っ白の廊下が少しだけ騒がしいような気がして、それが結崎の病室からだとなんとなく思った。不思議と怖くもなんともなかった。たった一つ、間に合わなかったんだと、それだけ思った。病室に入ると父親がいて、結崎の姿はなかった。もう、運ばれた後だと分かった。
残念だな。
と、ぽつり、一言だけ口からこぼれた。父さん以外には誰もいなかったから、きっと父さんには聞こえていただろう。それでもその言葉に父親が反応しないことが、ありがたかった。俺自身、残念、の真意は良くわからなかったから。ただ、結崎が死んで、残念だと思ったのか、死に際に間に合わなくて、看取れなかったのが残念なのか、どちらにせよ、残念だと、それしか思えない僕はあまりにも人間としての心が渇いているように感じた。加えて俺は、不謹慎だと思うが、結崎が、白くなった姿を見てみたかったと思った。死ぬときの姿を愛おしいとする考え方の宗教もあるけれど、俺は全くそんなことは思わないし、マザーテレサが、死の中にも美しさがあるなど言ったそうだけど、その考えにも賛同できない。ただ、白くなった結崎はきっときれいだっただろう。それを見ることのできた父さんに少しだけ、ほんの少しだけ嫉妬したりした。
「二時間ほど前だ。」
ふいに、父さんが俺に言った。
「白かった?」
俺は父さんの言葉を無視してもう一度繰り返した。
「結崎は、白かった?」
父さんは俺の顔からすっと視線をそらして、そうして―――いつか、「病院が好きだ」と俺が言った時のような顔をした。俺はそんな父さんを横目に見て、ああ、全く、この人はいつまでも臆病だな、と小さくため息をついた。父親は何も答えずにベッドの横に置いてあったヒアシンスブルーの、あの洋書を手に取った。その本を開いて父親は弄ぶようにぱらぱらとページをめくってもう一度俺に目線を戻した。
「やはりお前に病院へ通うのをやめさせるべきだった。」
「なんで」
「顔を鏡で見てきなさい。お前の言う、白くなるというのが死んでいるということなら俺はお前の方が白く見える。いつ死人になったんだ、バカ息子。」
父さんは淡々と、静かに、ただ、怒りを含んでそういった。優しい父さんはいなかった。俺は何も言えずにただ黙ってヒアシンスブルーに目を落とした。これが新鮮だと感じてしまったときから既に俺は白かったのかもしれないな。
俺はふっと自嘲気味に笑うと、取り直すかのように父さんに目を合わせていった。
「父さん、結崎に何か言われた?」
父さんは俺の質問に少し眉をひそめてからいつもの柔らかな顔に戻ってなんでだ、と問い返した。
「やっぱり、知らなくていいよ。」
俺はそう言って窓際に近づいて外の庭を見下ろした。散歩をする母親と男の子が見えた。その子がそっと枯れかけの、あの、ヒヤシンスブルー色をした紫陽花に近づいた。父さんは、気づかなくていい。「耐え忍ぶ恋」なんだろう。その気持ちは俺だけが気づいててあげるよ。
もう一度真っ白の部屋に視線を戻して、もう二度と入ることのないこの病室を俺は後にした。
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