第6話

椎日のデビュー作、「箱の中」は高校二年生の少年、というには幾らか大人びた青年が主人公の話だった。丁度、高校二年といえば俺と椎日が出会ったころで小説の中のその青年は少し、そのころの椎日をにおわせるような、どこか途方もないところを見ながらもそこに行く当てを知らないような、掴み損ねる人間として描かれていた。つまりその青年を通じて、あの頃の椎日が少しばかり顔を出したようにかんじられたのだ。


「箱の中」で青年は学校からの帰り道に、古いアイドルのプロマイドだがなんだかが飾られた駄菓子屋に毎日のように寄り道する。まんまるく太った50代のおばちゃんがいつも小さなカウンターに大きな体を縮めて新聞を読みながら座っている。青年がくるとおばちゃんはチラリと青年を見て、何も言わずまた新聞を読み始める。なんとも不愛想な店だ。青年は気にする様子もなく、かといって駄菓子を手に取るでもなく、カウンターの方へと近づいて10円のガムやらがランダムに並べられた棚の足元に座り込む。そこにはいつも、おばちゃんとそっくりのまんまるく太ったぶさいくな顔をした三毛猫がいるからだ。青年はいつもその猫に触ることはしない。あるときは「おはよう」という。あるときは「雨だね。」という。けれど猫は青年を見ない。いつも同じように、まんまるい体を丸く縮めて、欠伸を一つして目を閉じるのだ。青年は猫が眠ったのを見て、微笑んで家路を歩き出す。この猫と青年と、そうして駄菓子やのおばちゃん。これが、「箱の中」に出てくる登場人物だ。


 ある日、青年はいつものように猫の横に座り込んで、こんなことを言った。


『僕は、学校というものを知らない。学校を知らないのだよ、君。一人一つ確かなものが与えられて、それを受け取った学生がまるでピースのように埋め込まれていく枠、というのか、箱、というのだろうか。つまり僕の中で、学校とはそれだったのだ。僕はいつもその左下端にいる心持でいるのだけれど、その四角い箱が僕の部分だけ欠けているのに気づく。僕の居場所だけ、僕が埋め込まれるはずの部分だけ、ないのだよ。君、わかるか。けれど、そうだな。君は丸っこいから、箱に入っても隙間ができてしまうな。その隙間でいいから僕にくれまいかね。』


 猫は矢張り、青年を見ない。青年は微笑んで、その日は猫が眠るのを待たずに家路を歩き出す。


 この言葉は確かに青年の言葉であったし、椎日がそれほど、青年のように饒舌に話したことはこれまでに一度もなかった。けれどそれは紛れもなく椎日の言葉であった。椎日が青年を通じて、あの日の、「学校は四角い。」と呟いた椎日の思うところを俺の手に取って見える形にして差し出してきたのだ。俺はこの小説のこの部分を読んだ時の、あの経験のない興奮を未だに思い出せる。当時の俺は椎日と出会って三年以上過ぎていたが、初めて、椎日の内側に触れた気がしたのだ。と同時に、その、椎日の頑なだった壁の内側に、剥がしようのない真っ暗な世界を感じたのだ。


 あの時の俺はこの真っ暗なものがなんなのか、無邪気に椎日に問いだたすことはしなかった。そういった類の、椎日に対しての好奇の目を俺が一度でも向けていれば椎日は俺の傍にいなかっただろう。椎日は只管に自分を知られることを、理解されることを拒んでいたのだから。それが死ぬことと同義であるかのように、その恐怖から逃げるように見えるほどだ。


 ただ、椎日は稀に自分から、今の、椎日という人間が実るまでの種を、俺に差し出すことがあった。俺はそれを受け取って、土に埋めた。そうして水やりは、椎日に任せた。入り込まず、椎日が懐を開け、水をやり、その種を実らすまで待った。椎日は頻繁に、その種をひどく悲しそうな顔をして掘り起こし捨ててしまうことがほとんどであったが、この小説、そしてこの種は、花を咲かせたのだ。


 青年の口を借りて、見事に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る