第10夜 三日月の夜に溶けて消える
「彼女が、誰だかは分からないんだ」
「……分からない?」
「ああ。でもね、胸がぎゅう、と締め付けられるような、目のあたりが熱くなるような。そんな感覚が、さっきからずっとしているんだ」
「……それだけ、ですか?」
「ああ。きっと、夢の中で恋に落ちるっていうのは、こういう感覚なんだろうね」
「……それはどういう……」
「目が覚めたら、どうしようもなく好きになっていたってこと」
隣を歩く僕を見ながら、彼は笑う。
彼を追いかけながら話を聞いてみれば、『会わなければいけない彼女』がこっちに居ると、彼にわかるらしい。
彼女の居る方角が分かると、彼は何度も繰り返して言う。
なぜだか、彼の話を聞けば聞くほど、僕には彼の言う『会わなければいけない彼女』が琥珀先輩なのだと確信するばかりで。
そんな彼の言葉は、適当かもしれない。
嘘なのかもしれない。
それでも、僅かな可能性にかけたいと、思ってしまった。
彼の横顔を見て、
真っ直ぐに前を見続ける彼の瞳を見て、
僕は、願ってしまった。
ーー 琥珀先輩に、会わせてあげたい、と
「ひっ、まっ!!」
「多っすぎる、っだろ!!」
彼が歩けば歩くほど、ディアボロの数が増えていく。
もう何回目かすら分からないディアボロとの遭遇に、じわじわと身体に疲労感が溜まっていく。
疲れないわけでは、無いらしい。
けれど、不思議と思っている以上に身体は動かせている。
「……変な感覚」
ここに来てから、あまり喉も乾かないし、空腹も覚えていない気がする。
そんなことを思いながら、怯える彼を背に、オールを振りかぶった。
何も見えなかった風景も、その数に比例するかのように、段々と見えてくる。
「……とは言ったものの……」
夜空も、連なって動いていた光も、いつの間にかもう見えない。
ただただ、真っ白な空間がどこまでも続いていて、地面にはところどころに薄っすらと、小さな足跡がついている。
ぐるぐると、ふらふらと。
真っ直ぐではなく、曲がりくねっている足跡を、彼は見向きもせず。
ただ、なにかに吸い寄せられるかのように歩き続けている。
「……なあ、君」
「え、あ、はい」
突然、くるり、とこっちに振り向いた彼が、じいと僕の胸のあたりを見つめる。
「それを」
「それ?」
「それを少し、貸してくれないか」
そう言って、彼が指さしたのは、僕が首からさげているオールの欠片。
先輩を探していた時、使われていないはずの、古いGATEの前で見つけた、割れたオールの欠片。
「これ、ですか?」
「ああ」
必ず返す、とオールの欠片から目をそらさずに呟く彼に、欠片を握りしめてから、彼へと手渡す。
「……やっぱり」
「やっぱり?」
「彼女がいる」
「どこに?!」
「彼女が、いるんだ」
ダッ、と走り出した彼の背を追いかける。
「先輩!! 琥珀先輩!!」
名前を呼ばない彼の代わりに、
名前を知らない彼の代わりに、
先輩の名前を、大声で叫ぶ。
ー 凪、そんなに大きな声、出せるんだね。
ふいに、そう言われたような気がして。
「先輩!! どこですかっ!!!」
鼻の奥が、ツンとするのをこらえながら、がむしゃらに彼の背を追いかければ、ふいに彼の足が止まる。
「どうし」
「琥珀」
立ち止まった彼が、先輩の名を呼ぶ。
その視線の先を見やれば、力なく横たわる、一人の小さな人。
あれは、紛れもなく
「先輩!!!」
そう叫んだ僕の声があたりに響くのと同時に、立ち尽くしていた彼も、彼女のもとに駆け寄る。
「琥珀っ、琥珀ッ!!」
膝をつき、抱きかかえた彼の手から、だらりと力なく、彼女の手がおちる。
「いやだ、嫌だ。君が、君がいない世界は、もう」
もう二度と。
琥珀先輩の肩に顔を押し付けて、彼が先輩の身体を折れてしまいそうなくらい抱きしめる。
「先輩、先輩ってば」
力のない腕は冷たい。
僕の知っている僕よりも暖かい先輩の体温じゃ、ない。
なんで。
どうして。
ただ、会いたいと願っただけなのに
ただ、彼を好きになっただけなのに
「どうして、どうしてこの世界は」
琥珀先輩に厳しいんだ。
自分に出来ることが見つからなくて、ぎゅう、と先輩の手を握りしめた時、突然、ぶわ、と
「この匂いっ?!!」
ばっ、と下がっていた顔をあげれば、からたんぽぽの花びら色の光が、先輩を包んでいく。
この、光 は
ー 「老いぼれからの、僅かながらの祝福、と言ったところ、だね」
ふふ、とあの人の笑った顔が、目に浮かんだ。
「……また泣いてるの?」
少しだけ、掠れた、小さな声。
「……君のせいだろ」
「……きみは泣いてばかりね」
じんわりと、指先に体温が伝わってくる。
「……凪」
「っ、先輩」
「どうして凪が」
彼に抱きしめられまま、僕を見て、先輩が泣き出しそうな顔をする。
「先輩」
「分かっているの、凪。ここが、どんな場所なのか」
「せんぱ」
「帰れなくなるかも、しれないんだよ」
そう言って、琥珀先輩が僕の手を、握り返す。
でも
「でも、会わせてあげたいって、願ってしまったんだ」
「……凪?」
「先輩と、この人を、会わせてあげたいって。僕自身も、先輩に、琥珀先輩に会いたいって、思ってしまったんです……っ」
声が、震える。
視界が、滲んでいく。
怒られる。
嫌われる。
僕は、
「僕は、じゃ」
「邪魔なわけないでしょう?」
「せんぱ」
「すかぽんたん」
「なっ?!」
ぎゅう、と握られた手の力は、以前よりもずっとずっと弱いけれど。
あははっ、と笑う顔は、僕が知っている先輩と、少し違うけれど。
「ありがとう、凪」
いまだ泣いている彼の頭を撫でながら、僕に言った先輩は、笑い顔から、柔らかな表情へと変わっていく。
「琥珀」
「……なに?」
「もう、どこにも行かないで」
「……でも、それはきみが」
「君と、琥珀と一緒なら、どこにいても、どこでも、どうなっても大丈夫だ」
「……でも」
「答えは、でも、じゃないだろう?」
いつの間にやら泣き止んでいた彼が、琥珀先輩の肩から顔を離して、先輩と見つめ合う。
「きみの覚悟は、もう決まっているの?」
「じゃなきゃ、ここにいないだろう?」
「……でも……」
ーーねぇ、凪、知ってる?
夢渡しが恋をした人間と、
夢渡しに恋をした人間は、
結ばれない。
結ばれてしまったら、
彼らはもう、永遠に夢を見られないということ
彼らがもう、彼らの世界に帰れないということ
二人がもう、どこの世界にも、帰れないということ。
「どれだけ永い時間が、待ってても、君となら大丈夫」
「一瞬で終わりかもしれない」
「でも、君は言っていただろう?」
「いくつかの刻を経て、僕たちは世界を巡る」
二人のやり取りを黙って見ていたけれど、気づいたら、言葉が口から溢れていた。
「……キミ」
「……凪」
「琥珀先輩たちなら、きっと」
大丈夫、という言葉を飲みこんだ僕に、琥珀先輩が小さく息を吸い込む。
ー だから
「先輩。先輩の希望はなんですか?」
「……凪、なにを」
「僕、かなり強くなりました。まだまだ一人前とは、言えないかもしれないけど。大型のディアボロとだって戦える」
琥珀先輩の瞳を見つめながら、言葉を続ける。
「琥珀先輩。琥珀先輩の願いは、なんですか?」
あなたの願いなら、
僕は、なんだって、力を貸す。
声に出さずに、心の中で、そう強く叫ぶ。
そんな僕を見て、琥珀先輩は、一度だけ視線を落としたあと、僕を見る。
「凪。わたしの、最後の我儘を聞いてくれる?」
よく知った声で、
よく知った顔で、
琥珀先輩が、僕に静かに問いかけた。
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