第7夜 名も知らぬ彼と僕らの話 2
気がついたら、ここに立っていて
大きな声を出しても誰もいなくて、
歩いても歩いても見たことのない景色がひろがっているばかり。
歩く分だけ景色は変わっているから、止まっているわけでは、無いらしい。
けれど、
それは本当?
自分の中で、誰かがそう問いかけてくる。
ここは何処?
自分は何者?
そんな途方も無い疑問が、浮かんでは消えた。
そうこうして、取り留めもなくつらつらと考えながら歩いていくうちに、突然、少し前の方に何かを見つけ、駆け寄る。
「……階段?」
何処かに続いているらしい。
けれど、階段の上のほうは霧がかかっていて見えない。
「……とりあえず行ってみるか」
どうせ此処がどこだかすら分からないんだし。
そんな気持ちで歩き始めて、少し経ったあと、大きな扉の前で、少年と少女に出会った。
「それにしても、君たちはなんでここにいるの? というか此処はどこ?」
短いと思っていた階段がまだ終わらない。
もうすぐ着く、もうあと数歩で一番下に着く。
そんな風に思うのに、気がつけば階段はまだ続くらしい。
こんなに長かったか?
ついさっき自分がのぼった時は、もっと短かった気がしたけど。
そんなことを考えながら、二人のあとに続く。
ふと、自分よりも少し先を歩いていた少年が、背負っていたオールを手に持つ。
「君、それさっき」
振り回していたやつだよね?
ていうかそもそも何でオールを持ってるの。
そう言いかけて、言葉が止まる。
オールを持っているどころの話じゃない。
「なんで急にボートが?! いや、ボートじゃないかゴンドラか? いや、っていうか階段は?! なんで消えたの?!」
ダッ、と走り出した自分に、少年が驚いた顔をしてこちらを見ている。
けれど、いまはそれよりも、目の前で起きていることだ。
さっきまで何も無かった。それなのに、突然、目の前でゴンドラがあらわれて、階段が急に消えて。
ゆらゆらと静かに揺れているゴンドラをガシリと掴めば、水面が大きく揺れる。
「……本、物」
わけがわからない。
何もかもが、わけがわからない。
しゃがみ込んでゴンドラを掴んでいた自分の手に、近くに来た少女の手がそっとのせられる。
ゆら、ちゃぽ。
さっきよりも大きく水面が揺れるのと同時に、ゴンドラが少しだけ沈む。
視界の先に映ったのは、ゴンドラに乗り込んだ少年の足と、靴。
『送っていきます』
不思議な音、いや、たぶん彼らの言葉が聞こえ顔をあげれば、少年がこちらへ手を伸ばしている。
「乗れ、ってこと?」
そう問いかけた自分に、少年が頷く。
「でも、っていうかどこに行くんだよ。それに乗るにしたって、絶対に転覆させる自信しかないけど」
両手と顔を同時に横へ振りながら言えば、少年がきょとんとした顔をしたあと、もう一度、手を伸ばしてくる。
『大丈夫』
表情はほとんど変わらなかったけれど、そう言われた気がして。
立ち上がったあと、ゴンドラへと一歩を踏み出した。
「……いろんな場所があるんだね」
少年が操るゴンドラに乗り込んですぐ、気がつけば周りの景色が変わっていることに驚く。
周りを見回しても、ついさっきまであった階段も、大きな扉もいつの間にか見当たらない。
色とりどりの花畑とどこまでも広がる丘の横を通り過ぎたと思ったら、また景色が変わっている。
「……霧……いや、靄……?」
いつの間にか、淡い青と水色、それから時々ピンクや黄色が混ざった靄が、見渡す限り、どこまでも、どこまでも続いている。
「綿あめみたいだ。食べたら甘い味でもしそうだ」
手を伸ばしてみれば、その靄はほんの一瞬だけ手のひらに閉じ込められるものの、すぐに消えてしまう。
つかんだあと、手のひらに残るひんやりした感触が気持ちいい。
妙にその感触が気に入り、何度かそんな仕草を繰り返してふと気がつく。
「って、危なくないか? こんなに視界が悪いのに」
無言でゴンドラを操作している少年にふいに我にかえって思わず問いかければ、少年が瞬きを繰り返したあと、静かに首を振る。
「そう……」
そんなものなのか、と少年を見た時、また景色が変わっていることに気がつく。
どんどんと変わっていく景色に、まるでちっとも怖くないアトラクションにでも乗っているかのような気分にさえなってくる。
「次は何だろ」
周りを囲んでいた靄が少しずつ消えていく。
少しの期待感を抱きながら、消えていく靄の先を見ようと目を凝らせば、景色は見えない代わりに、ちゃぷ、たぷん、と静かな水の音が聞こえてくる。
舟を漕いでいるんだ、当たり前だろう。
そうは思うものの、いま初めてその音をちゃんと聞いた気がしてくる。
それに、一定間隔で聞こえてくるオールと水があたる音に、なんだか喉のあたりにつかえていたモノが溶けていく、そんな気分にすらなってきた
「そもそもつかえてたモノ……って何だ?」
喉を触りながら、そんなことを思っていれば、遠くのほうで、いくつかの、黄色の小さな光がスウーッと動いているのを見つけた。
「電車だ……。ここは電車も走っているのかい?」
動く光を指差しながら言えば、少女が人差し指を自分の唇にあてながら首を傾げる。
「電車……知らない? こう四角くて、たくさんの人が乗れて、目的地へ連れて行ってくれる乗り物で」
身振り手振りを交えながら言うものの、少女は申し訳なさそうな顔をして首を振り、ちらりと少年を見やるものの、どうやら少年も知らないらしい。
「……ここには電車は無い……のか。あ、ほら、今もそこに見えた」
下のほうで見えた光を指差しながら言えば、他にも線路やホームが水面に映っている。
「……水の中に……駅がある……?」
覗き込んだ水面に映ったホームが、ゆらりと揺れたあと、消えていく。
映画の一コマのように、いくつかの場面が、映っては消え、また映っては消えていく。
「君たち、これは一体」
バッ、と顔をあげて二人を見れば、少女はほんの少し困った顔をして、少年は相変わらずあまり変化のない顔をして、お互いを見合わせている。
「そうか……君たちは……知らないんだもんね」
そう呟いた自分に、少女はまた困ったような表情を浮かべて頷く。
そんな少女に、そっか……と短く呟いていれば、『 』と少年の静かな声が耳に届く。
なんだろう。
そう思った時、オレンジ色や青色の光がぼんやりと前のほうに浮かんでいるのが見える。
遠くにあるようで、近くある。
少ないようで、いくつもある。
その場所へ向かっているのだと、理解をした時、トントン、と肩が静かに叩かれる。
「なんだい?」
呼ばれて振り向けば、少年が袋から何かを出して、反対の手の平に何かをのせている。
「……粉?」
キラキラとした、綺麗なもの。
けれど、なぜだか少し、悲しくも見えるもの。
その仕草を、目をそらすことなく、じっと見つめていれば、少年がこっちを見たあと、何かの粉をのせた手を、上へと動かした。
何やら頭の奥のほうがぼんやりとしてきた気がする。
ゆらゆらと揺れる光を、まだ見ていたいのに、目に映る物の輪郭が、掴めない。
彼らの顔は、どんなだったのか。
彼らの声は、どんなだったのか。
覚えていたいと、思ったのに、どんどんと消えていく。
「ああ、そうか」
自分は、君たちを忘れるのか。
そう呟いた自分に
「ええ。此処は」
そういう場所です。
と、落ちていく意識の中、誰かが、そう言った。
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