第6話 真っ赤なインク

 いつもなら走らないように、と二人に注意する側なのだが、ニルスのところからダダダッと全力で室内を走り、目的の人のところへと向かえば、その人は前方からゆっくりと歩いてこちらへ向かっている。


「師匠! 扉は閉めましたよ?」


 てっきり、扉を閉めにきたのかと思い声をかければ、「有難うございます」と師匠はにこりと笑う。


「もしかして、何かありましたか?! あ、具合が悪いとかっ」


 心なしか頬が出発前よりも痩けている気がする。

 まさか何かトラブルがあったのでは、と焦った僕を見て、師匠は「大丈夫」と優しく微笑む。


「私にも、外にも何も起きていないです」

「……良かった」


 はあ、と安堵の息をつくものの、それならなぜ、疲れているはずの師匠が扉の部屋に向かって歩いていたのだろう。そう考え首をかしげた僕に、師匠が「まったく君は」と言ってほんの少し小さく息をはく。


「私の心配ばかりして。閉錠も魔力を必要とします。外に出てきたばかりで、そう君も疲れたでしょうに」


 何やら僕を心配そうに見る師匠こそ、僕が本の中に入る前に比べて、だいぶ辛そうに見える。


「僕なんか全然、それよりも師匠、少し頬が」


 そう言いながら、ああ、もっと早く戻るべきだった、と師匠の姿を見てグ、と静かに拳を握りしめる。


「湊君」

「は、い」


 師匠が僕の名を呼び、笑顔を浮かべながらちょいちょいと手招きをする。

 何かあったのだろうか、と近づいた僕の頭に、師匠がぽん、と手をのせる。


「え……?」

「頑張りましたね。湊君」


 師匠の手が、ゆっくりと動く。


「し、しょう、なんで、頭撫でて……」

「頑張った子には、ご褒美が必要でしょう?」


 ニコニコと微笑んだまま、僕の頭を撫でる手を止めない師匠に、僕は嬉しいやら照れくさいやらで、耳まで熱くなっている。


「今回、湊君はいつもよりも多く魔法を使っていますからね」


 ふふ、と優しく笑う師匠に、「……やっぱり気づいてましたか」と小さく呟けば、「私は君の先生ですから」と師匠は嬉しそうに笑う。


「まだまだ、手間のかかる子でいて欲しいものです」


 くすくすと笑う師匠に「でも、それだと師匠の身体が」と言い募れば、「湊君」と師匠が改めて僕の名を呼ぶ。


「私は、今までも、これからも、君たちとは違う時の流れを生きている。鍵の魔法使いの弟子となった君もまた、人よりもとても長い年月を過ごすことになる。だからこそ、弟子が早くに独り立ちするのは、嬉しくもあり、寂しくもある」


 ぽんぽん、頭を撫でる師匠の瞳は、初めて此処に来た時と、変わっていない。


「私のために、もう少し、手のかかる子でいてください。湊君」


 泣き出したくなるほど、優しい眼差しで覗き込んでくる師匠に、言葉が上手く出てこず、「……はい」と短く頷けば、師匠がまた、くすくす、と嬉しそうに笑う。


「でわ、湊君、最後の仕上げをしに参りましょうか」


 にこり、と微笑む師匠の言葉に、僕は「はい!」と大きく頷き答えた。



「あ、やっと来た!」

「先生、湊、どこ行ってたのさ」

「ちょっと、ね」


 扉の部屋に置いておいた予備の杖を師匠に手渡し、ゆっくりと杖をついて歩く師匠に合わせて、原盤の待つ部屋へと入れば、最後の修復作業の準備をしていたニルスとケビンが僕たちに気がついて駆け寄ってくる。


「ああ、そうだ。ニルス、ケビン。僕と師匠の作業中に一つお願いがあるのだけど、いいかな」

「なに?」


 この部屋にくる途中、廊下に置かれていた羊皮紙の切れ端を二人に見せながら声をかける。


「あ! それコボルトからだろ!」


 そう声をあげたのは、ニルスの一歩後ろから見ていたケビンで、「それ、確か…」と羊皮紙に書かれた少し変わった記号を見ながらケビンが腕を組む。

 そこに書かれているものは、僕たちとは違う国の言葉で、僕と師匠は慣れているものの、二人は読み取るのにまだ少し時間がかかる。


「確か、これは、『コレが、欲しい』だったよな」

「え、じゃあこれは?」

「なんだっけ。えっと」


 羊皮紙を覗き込みながら言い合う二人を見て、師匠は楽しそうに微笑む。

「始めましょうか」と僕を見て言う師匠に、「はい」と答え、師匠の背を支えながら中央に置かれた古く存在感のある机へと向かう。


 そこに置かれているのは分厚い本の形をし、本来であれば真ん中にぽっかりと空洞がある修復型なのだが、今、この修復型の中には、さっきまで僕とケビンが入っていた「白雪姫」の本の【原盤】が開き置かれていて、そのページは「リンゴ」が登場するシーンだ。

 こちら側での実際の本の修復は、ニルスが本の精霊たちの力を借りてもう既に済ませてある。

 あとは、この【原盤】に、師匠が封印を施すのみ。


 修復型と原盤に近づいた師匠の魔力に反応するかのように、机に置かれた2つが少しずつ光を帯び始める。


 水の精霊は、山の雪解けの水4杯に微笑みを。

 風の精霊は、真白な白鳥の羽の一つへ微笑みを。

 花の精霊は、ベニバナの花束へと微笑みを。


 そして、木の精霊は、数あるリンゴの中から、たった一つだけ、真っ赤な艶めかしいリンゴの実の一つに微笑みを注ぐ。


 リンゴと白鳥の羽、それにベニバナの花束は師匠のいる中央の机へ置き、雪解けの綺麗な真水は、床に置かれた4つの盃へ均等に入れ、師匠から離れる。

 背を向けているはずにも関わらず、僕が盃よりも壁際へと立った瞬間、ふわっ、と師匠の服の裾が風に踊りだし、師匠を中心に、床に大きな魔法陣が浮かび上がる。



「書きし作りし愛しきキミ

 我は愛しの番人よ

 我は愛しを直すもの

 けよひらけよ道の鍵

 キミの愛しをキミに返そう」



 まるで唄を歌うかのように、封印の詠唱をする師匠の背をじっ、と見つめる。

 何度見ても綺麗で、何度見ても、心が惹かれる。

 強くもあり、儚くもある師匠の声に、精霊たちは応え、修復型がより一層、光の層を重ねていく。


 水の精霊の微笑みを受けた4つの盃の水は、床の上をくるくると回りながら一つになり、花の精霊の微笑みを受けたベニバナの花束が、そこへ舞い降りる。

 2つが溶けて混ざり、朱色を纏ったソレに、風の精霊の微笑みを受けた白鳥の羽が、そっ、と羽先をつける。

 みるみる内に、真っ白だった羽は、色を帯び、右へ左へと自由に宙を泳いでいく。



「店長の魔法は、いつ見てもすごいよね」

「うん。でも、俺、先生の魔法を見てるといっつも、胸のあたりがキューッってなる」

「……ケビン?」


 ぎゅ、と胸のあたりの服を握りしめながら言うケビンの視線が、師匠ではなく、僕へと突き刺さる。


 幼い頃、魔法に適正があると知り、真冬の雪の降る日に、僕を手放した両親から、師匠は僕を拾い上げてくれた。

 僕たちがいるこの国と、僕が生まれた国は、はるか遠く離れているけれど、師匠は僕を迷うことなく、この家へと連れてきてくれた。


 ー 「人攫い、と言われれば、それまでなんですが。君には、魔法の才能がある。学ぶというのならば、私が全て、用意しましょう。君は、帰りたいですか?」


 暖かな暖炉と、温かいミルク、それに、抱きしめてくれる温もりに、僕が出した答えは、たった一つだった。


 ー 「ねぇ、湊。いつか、教えてくれる? 君が、悲しい顔をする理由を」


 いつだったか、ケビンにそう問われた時と同じように、僕はただ、困ったような静かに笑みを返す。


「……湊、あのさ」


『ベニバナの花のインクだね!』

『真っ赤な真っ赤なインクだね!』

『赤いリンゴのお話だ!』

『リンゴの姫のお話だ!』


 ふふふ! きゃはは! と楽しげな声が、部屋いっぱいに広がる。

 きらきらと降ってくる光の粒は、頬に、手に、触れると同時に姿を消す。


『愛しの番人ユーグ』

『我らの愛しユーグ』

『鍵はいつもキミのもの』

『鍵はいつもキミのもの』


 姿を表した光を纏う精霊たちは、歌うように語るようにしながら、師匠の周りをくるくると廻る。


 そうして、パアッッ、とより一層、光が強くなった瞬間、師匠の身体が大きく後ろへとグラつく。


「師匠っ!」


 どれだけ手を伸ばしても、走っても間に合わない。

 そう分かっていながらも、走り出した僕のすぐ脇を、少し甘い匂いが、ブワッ、と通り過ぎたと同時に、師匠の身体が、ふわり、と浮かび、ゆっくりと地面へと降ろされる。


 ダッ、と師匠に走り寄った僕を見て、ふふふ、と笑って両手のひらを口元にあてた彼女が、ふわり、と浮かびながら笑う。


「風の精霊、ありがとう」


 安堵の息とともに、風の精霊へと感謝を伝えれば、彼女は、ふふ、と楽しそうに笑い、師匠の額に軽い口づけをして、するり、と消えた。











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