夜食を食べる話をしよう
渡来みずね
第1話 チキンラーメンのこと
昨夜のことだ。深夜二時になって空腹を覚えた。
夕食は夜の18時。およそ八時間。昼間に換算すれば朝食から昼食に移行するのに妥当な時間だ、と考えて自分に夜食を食べる許可を出した。
書斎の隅に作った巣から出て、階段を降りる。皆寝静まっているようで家中は静かだ。家電製品の音がぶうんとどこかから鳴っている。
ぺたしぺたしと素足で廊下を歩く。隙間の多い和風建築の廊下はこの季節でもまだ肌寒い。足の裏が一歩ごとに廊下にきゅっとはりつくようだ。足跡の形の白い体温曇りが私のうしろにスタンプされてずっと続いているのをなんとなくイメージした。
台所は真っ暗だ。さもありなん。流しの上の小さな灯りだけが頼りなくついている。
さてどうしよう、と考える。米は炊飯器に仕掛けてある。冷蔵庫には確かパンの残りが冷えていたはずだ。うどんもあったな。
うーん、そうだラーメン。ラーメンがいい。熱いやつをずるずるずるっとやるのだ。ずるずるずる、素晴らしい。そうと決まればどれにするか。私はいそいそと台所の隅の備蓄箱を開ける。
鍋を使うのはなんだか面倒くさい。かといってカップ麺の気分ではない。
やつらはなんだか味が濃くない?意味もなく虚空に同意を求めながら箱を上から下までかき回して悩んだ挙げ句、箱の底で澄ましているヒヨコのロゴと目があった。チキンラーメン! これだ。これしかない。戦利品を頭上に掲げ、いい年の大人が一人で何をやっているのか流石にちょっと恥ずかしくなったのでやめる。コホン。
流しの上から30年選手のやかんを引っ張り出す。水道の栓をひねり、少し考えてからこころもちの時短のためにお湯に変える。
やかんに半分ほどお湯を張る。
ガスレンジにやかんをガタンと載せて、火をつける。さてここからしばらくは待ち時間だ。日々の食事の支度とは違い、夜食は待ち時間も楽しい。レジャーである。
私は台所の隅からスツールとも踏み台ともつかない木の台……曾祖母の時代からあるというよくわからないものを引きずって、ガス台の前に据える。料理本の並ぶ本棚……これまた曾祖母の時代からあるという……の隅に入っている単行本を一冊抜き取る。今日読むのはショージくんのまるかじりシリーズにした。
ガスの火と流しの上の灯りのおかげで、なんとか活字は追える程度になっている。薄ら暗いオレンジの光。ガスの火でなくかまどの火ならもっといい具合だったろうにと思う。かまどはもう何年も使っていない。贅沢は言えない。なによりそれだけのために薪を出して火をつけるのは面倒くさい。真冬になって気が向いたらやろう。
夜の中に自分だけがいるような気分に浸りつつ、踏み台に腰掛けてエピソードを4つほど読む間に、やかんがシュンシュンと言い出した。ショージくんはいい。生ハムでご飯を巻いて食べる行為は今度ぜひやろう、と心に決めながら食器棚から適当な器を出す。
適当というのはちょっと嘘をついた。蛸唐草の丸鉢にしたのだ。フチはぽってり丸く、片口がついている。普段は絶対ラーメン、しかもチキンラーメンを食べるのには使わない器である。背徳の喜びだ。
器にまず湯を注いで十数える。側面を持つとあつくてやれないぐらいになったところでお湯を捨てて、チキンラーメンの袋をバリっとやる。
今日のチキンラーメンは周りがバリバリに欠けている。本体を器にイン。袋にたっぷり残った残りを卵ポケットにザラザラとあけてしまう。二三本摘んで口に放り込む。
うふふしょっぱーい。
カリカリカリカリと噛み潰しつつ、冷蔵庫から卵を一個。卵ポケットの砕けた麺をちょいちょいと寄せて、そこに卵を割って落とす。黄身が逃げてもそれはそれで気にしないのだが、たまごのやつ、今回は丸い麺の上でおとなしくしている気になったらしい。
やかんを両手で構える。グラグラに湧いたお湯を、黄身の上は避けながら、白身のゆるい部分に掛かるように狙いすましてそそいでいく。チリチリと細かい糸のような形で固まった白身がふんわり浮き出す。チキンラーメンからじわりと琥珀色が染み出してくる。うふふ。
湧いたお湯の残りをポットに移す。
蓋をかぶせて、その間にザーサイとネギを刻む。ハムは悩んだが無しにした。丸いハムをチキンラーメンに載せるのはビジュアル的にとてもいいとは思うが、こう食感が不一致なのではないかと思っている。
ちなみに、声を大にして言うが、蒸し鶏を割いたやつに片栗粉をまぶしてまたちょっと加熱したやつはラーメンに入れると食感も合ってとてもいいと思う。……きょうはやらないけど。めんどくさいから。
チキンラーメン特有の香りがしだしてくる。三分ほど経ったところで蓋をのけて、ザーサイとネギをどさっとやる。たまごは固まりきっていないがこれはこれでいい。あとの楽しみがある。
割り箸を出して――洗い物を減らすせめてもの努力――たまごを潰さないように一応気をつけながら、ラーメンの形を崩して天地を返す。麺を洗う気持ちでしっかりスープを落とすのが肝心だ。ネギとザーサイも分布差が出る程度に混ぜる。分布に偏りが出るのはとても重要なことだ。おぼえておいてほしい。
書斎に持っていこうかこの場で食べるべきか少し悩み、この場で食べることに決めた。数年前、ラーメンどんぶりを持って階段を上がる途中に猫様のアタックを受け、階段にスープ滝が形成されたことを私は忘れてはいない。
再度踏み台に腰掛ける。
ずぞぞぞぞぞぞ。もふ。
一口目は当然具のないところを啜り込む。平たく縮れたラーメンとは別物と呼んでもいい麺が一気に口に入ってくる。ぽそぽそというかモフモフというか、特徴的な食感が口いっぱいに広がり、尖ったチキンスープの香りが鼻に抜ける。
美味しそうな描写ではないと思われるだろうが、そこがいいのだ。
ばつばつと麺を短くするイメージで数回噛む。お、硬いとこがある。ここお湯から出てたなー。ごりゅもふ。
ごくん。
まだ原型がのこっているやつを飲み込む。やつらは喉に引っかかりつつ胃の腑に下がっていき、いい具合にそこで落ち着いた。
うむ、絶対に人には見せられないな。頷きつつ二口目に行く。
二口目はザーサイの多めのところを、黄身を破ってとろんと溢れたやつをたっぷり絡めていただく。きゃー贅沢、きゃー。
冷静に考えればなんの贅沢でもないのだが、こういうのは気分だ。うふふ、うふふふ。ぜいたく。
まろやかでうまい。頼りない食感で構成されているチキンラーメンに混ざってザーサイの千切りがこりこりとアクセントになっている。たまごが足されたことで優しさ一辺倒になりがちな中、ザーサイの鮮烈なしょっぱさがたまに発動するのが舌に気持ちいい。ああ高血圧じゃなくてよかった!
三口目はたまごをしっかりとスープに混ぜてスープを一口。
四口目はなんと七味をかけてしまう。
そうやって楽しみつつ食べ終わり、器にはスープが半分ほど。ややお湯を多く薄めに作ったので、麺がだいぶスープを吸ってもこれだけスープが残る。
さて。最後のお楽しみの時間がやってきました。
電子レンジに器を入れる。時間はお任せでスイッチ・オン。
ぐるぐる廻るやつを眺めて数分、正確には二分ぐらい。
取り出した器の中は麺のかけらとかネギとか七味とかザーサイとかが卵液で固まってごくゆるい茶碗蒸しめいた状態になっている。
雑に崩してほとんど水分の部分をぞるぞる啜る。とるんとるんの部分を舌で潰す。あちあち。底の方にしっかり固まった白身が円盤状になって入っているやつを箸休めに齧る。これまたこうなってみるとこいつが無味で美味しいんだよなあ。ぶりんぶりんした歯ごたえもいい。
器を干す。
深夜でなければこんなに食べつくすということもしないのだが、深夜は特別だ。いわばデブの魔法。普段はそれほど即席ラーメン、特にチキンラーメンは食べはしないのだが、空腹でたまらない深夜二時に薄暗い台所で食べるのにはこれほどにふさわしい。
器を洗い、証拠隠滅、原状復帰。最後に冷蔵庫を開けて黒烏龍茶を紙コップに一杯。一気に煽って、空き袋と割り箸を紙コップに入れて潰す。ゴミ箱のそこにシュート。
やかんを定位置に戻して、台所を睥睨する。静まり返る深夜の台所は、真面目で、清潔で、整然として、冷たくて静かだ。
まるで何事もなかったかのような顔をしおって……と、無駄に台所を擬人化してほくそ笑み、私は台所をあとにする。はらわたが暖かくて重い。原初の獣のよろこびだ。ねずみを自称している身であるがゆえに享受したところでなんの問題もない。自己正当化する。夜食無罪。
階段を上がり、書斎のドアを開けながら一回下を振り返る。灯りの消し忘れのチェック。
向こうに見えた台所はやっぱり真面目そうで、何も知らないような顔をしていた。
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