「底辺CY」 3せくしょん

 家に帰った私がまずやることは……。


 ベッドに倒れ込むことだ。 


 制服に上着のままひんやりとした布団に顔を埋める。


 外にいる間は何ともなかったが、家に入った途端疲れがどっと出た。

 面接で神経をかなり使っていたみたいだ。面接官のイケメン先生はフランクで緊張こそしなかったが、合格がかかっている面接。


 さらには謙がとった帰り際の謎の行動。夏の間に色々あった事。お母さんの元に行きたいということは分かったが、最後の見送りの件。何故嫌がったのだろう。


 ストッキング越しに伝わる布団の冷たさを感じながら仰向けになる。


 ここから二時間位か。小樽? いや小樽なら一時間位。富良野? 昔家族でラベンダーを見に行ったことがある。その時は高速道路を使って二時間位だったような。

 もし富良野だったら皆で行くの楽しみだな。夏休みとか使って行くなら花火大会とかあるかも。


 私はふと美容学校を探していた時の事を思い出した。都市部以外の美容学校は殆どなかった。確か函館、北見、釧路、旭川くらいだったはず。

 函館、北見、釧路は遠すぎる。車で四時間は掛かるだろう。となると旭川が一番有力候補となる。時間も二時間位だ。


 旭川ならやっぱり動物園に行きたいな。

 って遊ぶ事ばっかり考えてたらダメだ。謙はお母さんのために行くんだから……。


 冷え切った部屋に布団。上着を着ているとはいえさすがに寒い。灯油ストーブを付けたいが、そこまでの数歩が面倒臭い。

 そんな中、下の階から居間の扉が開く音が耳に入る。


「お姉ちゃん! ちょっと小春の前髪切ってあげて!」

 お母さんの声が聞こえた。


「はーい」


 私はベッドから起き上がり部屋着に着替え、気怠いながらも下に向かった。



 居間に入ると、小春は準備万端で正座していた。ちょこんと座布団に座りゴミ箱を膝上で抱えながらテレビを見ている。

 お母さんは夕食の支度。そして、珍しくもお父さんがダイニングテーブルに座っていた。


 まだ夕方の六時。店はどうしたのだろう? 普段はこの時間掃除や仕込みをしているはず。それになんとなく雰囲気がいつもと違うような……。

 気になるが、私は小春の前に座り前髪に取り掛かる。

 前髪は目が隠れる位伸びている。


「はい目ーつぶって」

「んー」

 小春は力強く皺を作ってつぶる。


 私は前髪の真ん中辺りを少し切る。これは長さの目安を作るため。

 切られた髪の毛はゴミ箱のビニール袋にぱらりと吸い込まれ、細やかな音を立てる。


「あ」 


 私は声を上げた。と同時に小春が目を開く。さらに台所から聞こえていたリズミカルなまな板を叩く音も止まる。


「おねえちゃん? もしかして切りすぎた?」

 小春は不安と悲しげに包まれた眼差しで私を見てくる。


「違う違う。ちょっとさ、いつものぱっつんじゃないぱっつんにしてみてもいい?」

「んー? どんなの?」

 小春は首を傾げている。


 私はコームを自分の前髪に当て「いつもは真っ直ぐなんだけど、こうちょっとカーブするように丸くぱっつんにするの」

 額に当てたコームを軽く曲げながら説明した。


「それって可愛いの?」

 小春はイメージが湧かないのか首を傾げたまま。


 私は携帯で『前髪 ラウンド』と検索し、分かりやすい画像を見せる。


「ほら見て? 可愛いよー、よくテレビに出てる子とかもやってるし。小春ぱっつん似合うからこれもきっと似合うよ」


 画像を見た小春は気に入ったのか笑顔になった。


「うん! これにする!」


 台所からまたリズミカルな音が再開した。



 前髪を切り終わり、はしゃぐ小春を余所に私は洗面台で手に付いた毛を流す。


 私なりにかなり上出来。上手くラウンドで切れた。小春も喜んでくれた。


 蛇口を閉め、洗面台の鏡で自分の顔を見る。

 何とも気持ち悪い顔だ。口角が中途半端に上がり、口も半開き。目もスケベったらしい。


 この高揚感は無くなる時が来るんだろうか? もし美容師になったら毎回お客さんの前でこの顔を晒すのだろうか?

 今からこの高揚感を顔に出さない練習をしておかないとまずいかも……。せめて普通の笑顔に……。


 私は鏡の前で笑顔を作る。自然な笑顔。


「よし」


 私はそれを維持したまま居間に戻る。

 小春はソファーの上で手鏡を持ち、足をぶらぶらさせながら鼻歌を歌っている。


 よっぽど気に入ったのだろう。お年玉をもらった時もこんな感じだった。


 私はダイニングテーブルに座った。お父さんの向かい側。


 お父さんは大根片手に口を開く。


「千夏どうした? 顔が気持ち悪いぞ」

「げっ!」


 もう顔崩れてる? 私は両手で頬を触る。


「この子いつもそうなんですよ。小春の髪切ってあげるたびに顔に出ちゃうんです。誰かさんにそっくり」

 お母さんはから揚げの盛られた器を運び、笑いながら言った。


「ははは、そうか。お母さんも昔よく顔に出てたな」

 お父さんは大根を摺りはじめる。


「なに言ってるんですか。あなたにそっくりなんですよ。お母さんは昔からクールビューティーなんですー」

「お、俺か? 俺は顔に出ないだろう。何を言ってるんだか」


 なんだか面白い展開になってきた。私はしばらくこれを見届けよう。とりあえず私のこれは親譲りということは分かった。


「あら? ならあなたが私に初めて菓子を作ってきた時の話でもしましょうか? 娘たちの前で」


 心なしかお母さんの目が悪意に満ちている気がする。


「ちょっと待て。それとこれは関係ないだろ」

 お父さんは大根をお母さんに向け抗議する。


「いいえありますー! 私が一口食べて美味しいと言った後のあなたの――」

「おいおいおいおいおい。なら千夏が中学の大会で三位だった時のお母さんの顔がだ――」


「あれは母親として当然です! 娘が良い結果を出したら喜ぶに決まっているでしょ? 何を言っているんだか。論点がずれてます。あなたが初めてのお客さんにケーキを買ってもらった時の――」

「ちょちょちょちょちょ、ちょっと待て。千夏。大根を頼む。お父さんは決戦に向わなければならない」


 私は無言で大根とおろし器を受け取り摺りはじめる。


 これが父の負け戦になるのは知っている。この光景は何度も見てきた。最後に手をついて謝るのはお父さん。

 今回の内容もお母さんが的確に的を射ている。


 そうか。私のこれはお父さん譲りだったか。お父さんも初めてケーキ喜んでもらえた時こんな顔になってたのかな。普段は固っ苦しい表情のお父さんだけど。


 

「……参りました」


 十数分の戦いの末。お父さんは戦に敗れた。


 そんな事より私は早くから揚げが食べたいのだ。大好物の一つ。おろしポン酢で食べるから揚げ。おろしには大量の小ネギが入っている。もうよだれが止まらない。

 何事もなかったように土下座を解除したお父さんは席に着く。


 全員でいただきますをし夕食は始まる。

 四人での夕食は久しぶりな気がする。


「お父さん、店は? 今日早くない?」

 私は大根おろしの入った器にポン酢を注ぐ。


「今日は色々・・あってな。まあ、髪も切りたかったし午前中で切り上げたんだよ」

 そう言いながらポン酢の瓶を早くよこせと言わんばかりに手をこちらに向けてくる。


 なるほど。雰囲気の違いは髪のせいか。月一で切ってるから気付きにくいんだよな。


「ふーん」

 私はさほど気にもせずから揚げに手を伸ばす。


「ところで千夏。謙君の事はもう聞いているのか?」


 私はから揚げをぽちゃりと大根おろしの上に落してしまった。


 謙の事……。

 お父さんは謙のおじさんと仲がいい。昔からの友人、親友というやつ。私の家と謙の家がフランクな付き合いなのはそのため。今日のカットだっておじさんの所でやっているはずだ。

 そこで謙の事を聞いたのだろう。


 私はから揚げを掴み直すが、そのまま箸が止まる。


「うん。今日き――」

「あなた。夕食は楽しく頂きましょうね」

 私が言い切る前にお母さんが遮るように口を開いた。口調は少し怖い。


 お父さんば少しばつの悪そうな顔をしたがすぐに続ける。


「そうだな。じゃあ面接はどうだった?」


 お母さんが何故この会話を遮ったのかは分からない。でも怖いので素直に面接の話をすることにした。


「先生が格好良かった。あと算数やらされたくらいかな」


 これに食いついたのはお母さんの方だった。


「イケメン先生がいるなんてお姉ちゃんツイてるわね。お母さんも通おうかしら」


 この発言でお父さんがから揚げを転がしていたが見なかったことにしよう。

 そう言えば先生名前言ってなかったな。名札もしてなかったし。


「お父さんは先生なんか・・・・・の話より面接の内容を聞きたいんだけどなー」

「面接っていっても一方的に先生が話してたかな。なんか縄文時代からなんたらかんたらって……。あ、その後ちょっとだけ授業風景見学させてもらったの。国家試験前で皆怖い顔して練習してた」


 この後、お父さんは美容の歴史に興味が出たのか、私は先生から聞いた歴史を話すことになった。


 その間小春はずっと暇そうに小ネギを別皿に除ける作業をしていた。

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