「点Cが目指すもの」 3すらいす

 バックルームから中に入る。


「来ちゃった」

 ちょっとぶりっ子風に言ってみた。


 しかし、そこにいたのは謙のおじさんだった。私は少し慌てる。


「おう、千夏ちゃんいらっしゃい。芋羊羹食べる?」


 おじさんは椅子に座りタバコを吸っている。小さなテーブルの上には、カップ麺の空とお茶のペットボトル。あと、なじみ深いケーキの箱。さっき買っていったシュークリームだろう。


「お邪魔しまーす。羊羹食べまーす」

 私はそっともう一つの椅子に座った。


「謙は店番してる。誰もいねーから、店の方行ってもいいぞ」

 そう言って羊羹をくれた。


「いただきまーす」


 やった。私の一番大好きな『おじさんがくれるシリーズ』芋羊羹! これ、ほんと美味しいんだよなー。


「この時間に来るのは珍しいな? そんなに謙に会いたかったのか? それとも俺か?」


 私は顔に熱が上がってくるのを感じるが、平然を装う。


「いやいや。本借りに来たの!」


 おじさんはすぐに「エロ本か?」と聞いてきたが、スルーしよう。なんで女の私がエロ本借りにくるんだよ。

 しかし、おじさんは続ける。


「残念だったな、あいつはエロ本よりパソコンで見てるらしい。俺の時代にはエロ本だったのにな。いい世の中になったもんだ」


 一体この人は何の話をしているんだ。だから、奥さんに逃げられたんじゃないのか?

 私は無視して店側に向かう。


 謙は受付の椅子に腰かけ、マンガを読んでいる。


「謙! あんたパソコンでエッチなの見てるの?」

 右手の芋羊羹を向け、ちょっとふくれっ面にして私は言った。


「は? なんだよいきなり。……まー、見てるよ」


 認めるんかい! やっぱり胸が大きい子とか見てるのかな……。


「最っ低! ふん。暇ならシャンプーしてよ」

「んだよお前……。まーいいけど。……あ、お前ホントに美容師目指す気ある?」


「うん、あるよ」

 芋羊羹をモグモグしながら返事した。


 謙は立ち上がり、本棚に漫画を戻しバックルームに向かっていった。そしてすぐに出てくる。おじさんも一緒にだ。


「親父、ちょっとモデルやって。千夏にシャンプー教えるから。予約は入ってないしいいだろ?」

「んあ? 何だいきなり。千夏ちゃんに教える? ついに本格的な床屋プレイをしたいわけか。いいぞ。その前に俺の着替え持ってきておいてくれ」


 だからプレイってなんだよ。しかも、いいのかい!


 おじさんはシャンプー台に横になり、謙が説明してくる。もう一つのセット面にはおじさんの着替えも準備されている。


 シャワーヘッドの持ち方、耳に水が入らないようにする手の形。頭の持ち上げ方。襟足を流すときの手の形など。


「まず俺がやって見せるから見てて、まずシャワー出したら自分の手首にあてて温度確認する、確認したら――」

 謙は説明しながら、すいすいと手を動かしていく。


 私は初めて見るその動きに感動した。

 耳に水が入ってこない謎。襟足をシャワーしているのに水が首を伝ってこない謎。後頭部を叩くように『ゴボゴボ』とやっているときどうなっているのかという謎。

 その全てが解決したのだ。


 流している動きにもきちんと法則性があり、額を上として、ジグザグに横移動しながらだんだんと後頭部に下がってく。そして、また上がってくる。


「――と、ここまでが要はすすぎの一連動作。洗うのはまだ難しいから、最初はすすぎからだな。まず、シャワー出さないで耳のところの手の形と、襟足のシャワーの当て方だけやってみよう。ダメそうなら親父がすぐに助言くれるからやってみて」 


 私は謙と場所を交代して、言われた通りにやってみる。

 右耳側は左手でダムを作るようにして、指側に水が行くようにするっと。

 手を当てると、おじさんが顔に掛かっているガーゼを少し下げて、目だけを出す。


「もっと強く当てないと、水が漏れて全部耳に入るぞー」


 私は力を入れる。


「いいぞ、そのまま軽く水出してみろ」


 コックを捻ると、弱々しく水が出てくる。

 私は恐る恐る、シャワーを当てる。

 おじさんは「そのまま10秒な」と言い。私は10秒後シャワーを離して、水を止めて耳を確認する。

 耳には水は入っておらず、成功したようだ。


「次は水圧全開シャワーで同じくやってみろ」

 とおじさんはガーゼ越しに言う。はみ出している口がとてもニヤけているのが気になる。


 私はシャワーヘッドを持ちコックを全開に捻る。


「おわあ!」


 尋常じゃない水圧に驚く。きっと持っている手を離したら蛇のように暴れてしまうだろう。

 謙がやっているのを見ている分には、気にならなかったが、自分で持つとその凄さが伝わる。


 結果は私の左手の惨敗である。おじさんの右耳はシャワーの餌食になったのだ。

 さらに、左耳側は、シャワーを左手に、右手でダムを作るのだが……。

 これも同じく惨敗。左耳も犠牲になったのだ。

 最後は襟足だ。これは、右手でシャワーを持ちながら、その右手で首に当てながらダムを作るという難しさ。

 左手は、頭を持ち上げるのに使っていて、初めて人の頭の重さを体験した。


 結果は、おじさんのTシャツが犠牲となった。全て首を伝って、背中側がビショ濡れである。

 私はおじさんが着替えを準備した理由が分かった。


 おじさんが着替え終わり、笑いながら話しかけてきた。


「初めてにしてはなかなかいいんじゃねーか? 謙のときはな、パンツまで濡れたもんだ。さらに、襟足のとき噴水みたいにシャワーでぶちまけやがってよ、この辺りの床はビショビショってもんだ」


 謙にもそんな失敗があるんだ。それだけ練習して今があるんだな。

 私は携帯のメモに、教えてもらったことを打った。


 謙は、私のメモが終わったのを確認すると「よし、次は千夏がモデルで俺が洗ってやるよ。今自分でやってみて難しかったところを直に体験して覚えるんだ」と言い、私を座らせた。


 自分でやってみたことにより、今どうされているのかが脳内でビジョン化できた。

 耳のところでの力加減、ジグザグのときの手の動き、シャワーの当てられ方、襟足のときの首から伝わる手の動き。その後の頭を下すときの両手の安定感。

 シャンプーをこんなに意識しながらされるのは初めての体験だった。

 シャンプー後、そのまま乾かすのもやってくれるらしく、ドライヤーを出して乾かし始めた。


「ちょいブローやってもいい? 癖毛伸ばす練習したくてさ」

「ブロー? いつもとなんか違うの?」


「手だけでやるのはハンドブローで、今やりたいのはデンマン使ったブロー。癖を伸ばして乾かすんだよ」  

「デンマン?」


「このブラシのこと」

 そう言って、デンマンを見せてくれた。


 よく見たことがある歯ブラシのような形のブラシだ。私は興味があったので了解を出した。


「あのさ、やってるところ見てみたいんだけど方法ある? 横とかは鏡で見れるけど後ろ側見れないじゃん?」


 すると、謙は椅子を回転させて斜め後ろ向きにして、ハンドミラーを手渡してきた。


「その鏡で合わせ鏡にして後ろ見ろ」

「おお、なるほど」


 謙はダッカールで髪を分けながら、根元辺りでデンマンを噛ませるようにして引っ張りながら乾かしている。

 乾かした部分は、まっすぐに伸びているのが分かる。


「なんで、そうやってやるとまっすぐになるの?」

「科学的な説明と、分かりやすい説明どっちがいい?」


「わかりやすい方で」

「洗濯物干したことあるだろ? もしタオルとかをシワが出来ないようにピンと張ったままカラカラに乾かしたら、シワなく乾くよな? 逆に、何にも力かけずにシワシワのまま干したら、シワシワのタオルになるよな? そう言うことだ」


「なるほど! 科学的には?」

「お前に分かるのか? まあ、毛は水に濡れると水素結合が外れるんだ、で、乾かすと結合が復活する。それを利用して、引っ張ったまま乾かして形を維持する。これがブローとかアイロンでストレートになる理由。あとコテで巻いたりできるのもこの原理」


「ほ、ほう。もしかして、湿気多い日に髪が膨らむのはそのせい?」

「ご名答! 千夏にしてはなかなかやるじゃん。この水素結合は、水で元に戻っちゃうから、ずっと維持することが出来ない。頭洗ったり、雨に打たれたら終わり」


「じゃーさ、パーマは? 縮毛矯正とか! あれは、洗っても残ってるから、水素結合ではないんだよね?」

「うん。もっと難しい話になるけど聞く?」


「もち」

「パーマとかは、シスチン結合っていう別の結合を薬でいじって固定する。美容室でよく匂ってる、鼻を刺すような臭い匂いあるだろ? あれが、シスチン結合を外す薬の匂い。その後に、固定する薬でシスチン結合をまたくっ付けるって感じかな。酸化と還元を使って化学反応で形を固定するわけよ」


「うん。私には限界だ。シスチン結合は、薬使うでいいかな?」

「今はそれでいいと思う。きっと、現役の美容師でもきちんと説明できる人はそんなにいないかもな。親父とかね」


「聞こえてるぞ。俺は感覚派なんだ、ほっとけ」

 離れて見ていたおじさんがつぶやいた。


 ブローが終わった。

 私は小春のように、ストレートのおかっぱボブ風になった。毛先は少し丸くブローされている。


 意外とストレートも可愛いな。たまにはアイロンで伸ばしていくのもありかも。自分でブラシでやるのは難しそうだし。特に後ろが。



 私が鏡に色々なポーズを決めているとおじさんが謙と話を始めた。


「謙。お前ずいぶんと人頭じんとうのブロー手馴れてるな、千夏ちゃんの頭結構やってやってるのか?」


 私は二人の様子を覗う。


「う、ウィッグでやってるんだよ。だから、手馴れて見えたんじゃね?」

「ほお、そうか。もみあげとネープの生え癖の処理が上手かったから人頭でやってるのかと思ったわ」


「……千夏に貸す本取ってくる」

 謙は、バックルーム側から外に出て行った。


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