第6話 人形勇者と神のいない世界/光の王女と初めてのお忍び
カイは第三書庫を訪れていた。
日のあまり差し込まない、小さな窓。身の丈よりも腕一つ程高い本棚。紙と糊独特の匂いは、収蔵されたとりどりの本たちの来歴を偲ばせる。
人気のない書庫の一角、絵本コーナーに行く。
収まった本から目的の本を取りだす。
所々修復された古い本だ。奥付を見ると数百年ほど前の写本らしい。
カイが分厚い表紙を開くと、城でも、旅の間でもよく見かけた白と黒の絡まった二本の木が描かれていた。
双樹教という、この世界特有の信仰のシンボルだ。カイは必要が無かったので教義は知らない。聖書の簡易版だろうと当たりをつけて、軽い気持ちでページを繰る。
『かみさまは だんだん かみさまにちかづくひとを いとうようになりました』
『しょうきが ひとをおそうように なったのです』
割とありきたりな出だしだ。
『ぼくたちは かみさまのいないせかいを かちとりました』
『ひとのまま ひとはかみさまに うちかったのです』
『めでたし めでたし』
しかし、最後の場面で、カイは絶句していた。視界が一瞬、鈍くなった。
「神が、いない、だと……!?」
本が手をすりぬけた。慌てて拾いあげ、傷が無いか確認する。
カイは無宗教だが、不信神ではない。
カイの記憶にある限り、地球のどんな宗派も人間を卓越するなにものかを規定しないことは無かった。
何より、神がいないことに対して愕然とした自分に狼狽えていた。
人間が神を追い出した。
紛れもない事実だと、この世界の人間は受け入れている。それは昨晩確認している。
カイは唸った。
「俺は、確かに異物じゃないか……」
宗教がないわけではない、と言えるが。
酷くのろのろとした動作で古びた本をもとの位置に戻した。
同列に置かれていた絵本を数冊読む。神が自発的に出た、捨てたなどと多少の違いはあるが、神のいないこの世界で人が神に抗い神は思い通りにならぬ創造物を捨てたという内容はほぼ同じ。
「人、人、人……。人ねえ……」
人形として生みだされ、異世界の精神をもつ自分は、果たしてこの世界の人間なのだろうか。
無性にユーラリアの笑顔を見たくなった。
「午後、リアさんをデートに誘ってみよう……。都合はつくだろうか」
目を一度瞑ってから、カイは冒険者として稼いでいたヘソクリの額を確認した。
◇
ユーラリアは楽しげに、全身の映る姿見の前に立っていた。
目立つ髪は結い上げてつば広の帽子に隠し、秋らしい胡桃色のシンプルなワンピースを身につける。真珠のペンダントを首に掛ければ、豪商の娘くらいに見えるだろう。
これらはアンナに無理を言って貸してもらったのだ。クローゼットの中身は高位貴族の身につける上等なドレスばかりで、商家の娘風のワンピースなど持っていなかった。
それにしても、と思考が鏡の中で光った銀の指輪に流れる。
結婚指輪は普通、相手が生きている間は体温よりやや高い――ぬくいと聞いたことがあるが、ユーラリアが嵌めているものはユーラリアの体温と変わらないように感じる。ただ、些細な疑問は浮かれたユーラリアには重要でなかった。
そしてすぐにカイとお忍びのデートに思いを馳せる。
「お忍び」も「デート」も、深窓の、とは言いきれないが、姫という立場のユーラリアにとってはときめかないはずがない単語だ。身分を偽って活動するなど、お伽話のよう。
使用人の通用門から堂々と出るユーラリア。あまりにも自然で、休日の使用人のようだった。
ユーラリアは知らないが、アンナが溜息をつきつつ裏門の門番や近衛隊に話を通していたため、ユーラリアが呼びとめられることはなかった。
「待ち合わせ」、これまたユーラリアの心を弾ませる響きだ。大抵の場合、ユーラリアが出向くことはなく、相手が城に訪ねてくる。
時計台を兼ねた中央広場の噴水前は、ユーラリアと同じように誰かと待ち合わせをする人々でざわめいていた。現在、約束の五分前。
程なくして若い商人の格好をしたカイが、辺りを落ち着かない様子で視線を彷徨わせながら現れた。
「ごめん、待った?」
「ええ! ですが、待つとは存外楽しいことですのね」
実質、彼女が待っていた時間は数分である。ユーラリアの声は羽のように軽やかだ。
雰囲気から彼女が大して気にしていないことがわかったのか、カイは苦笑した。
「行こうか、
「はい」
さりげなく差し出されたカイの左手に、笑顔のユーラリアはごく自然に右手を重ねた。今は姫として妻としてではなく、カイの恋人未満のリアなのだ。
ユーラリアは健脚であり、体力も王族の務め上、貴族女性にしてはかなりある。そのためカイが馬車を用意しなかったミスは問題にならなかった。
一般的な貴族令嬢なら、歩くなどと言ったら卒倒しないまでも呆れて帰ってしまうだろう。それを考えれば、カイの相手ができるのは自分だけなのかもしれないのではないかと、ユーラリアの心が浮き立った。
突発的なデートだったからだろう、予約が必要な場所には行かないらしい。つまり王道的に人気の劇場を楽しむとか、高級なレストランに行くとか。
そういったことならば、ユーラリアにしてみれば、実際にやりはしないものの、権力を振りかざせばどこの予約だとて取れる。そのために、予定もなくぶらりと庶民向けの雑貨屋を覗くことは、ずっと魅力あることだった。
「まあ、平民の平均所得で何が買えるのかしら、と思っていましたけれど、意外ときちんとしたものが売られていますのね」
「分相応のものが手に入るよ。それにお金を使わなきゃ経済は回らないから。貴族さまには高いもので散財してもらわないとね」
どことなく皮肉気な口調や表情は、自分だけに対してのものではない。
そう思うのに、ユーラリアはその表情に息が詰まった。自分の体調管理に対して少し自信がなくなってきた。何故こうも彼の一挙手一投足が自分の体調に影響するのか。
どうにも気恥ずかしくて顔が熱いが、目の前にあったこげ茶の簡素なリボンを手に取る。
「無駄遣いは良くないですけど……、そうね、ここで散財して下さる?」
「喜んで」
カイのもともと垂れ目気味の目じりが更に優しくなった。
誤魔化すように茶目っ気たっぷりに見えるようねだってみたのだが、返り討ちにあってしまった。顔の温度は上昇したまま、下がる気配がない。動機さえする。
ユーラリアは自分でも不自然だと自覚しながら顔を背けてしまった。
おかしい、自分はもっと演技が上手いはずだ。社交界で様々な人物それぞれに見せる顔を使い分けている。しっかりしなければ。
「騎士の巡回も、確かに治安維持に役立っていますね。部署を分けようかしら」
「治療院の行列はとても長いですわ。人と場所を増やすべきかしら?」
結果、完全に視察と化していた。
紙面や口頭の報告が肉をもってユーラリアに迫っていた。
カイも故郷の社会を参考に、多少は使えそうな案を出して話は
二人は治安の良い地域を見てまわり、木々と芝が程よくある公園に着いた。ときおり、寂しげに色の抜けた葉が高く青い空に揺れる。
近所の子供たちだろうか、小銭を握りしめ、何を買おうか楽しげに悩みながら小さな出店に並んでいた。
「ああ、クレープだ」
「クレープ?」
屋台の店主が子供に差し出したものを見てカイが何の店か判じた。ユーラリアは聞き覚えのない言葉に首を傾げた。
「城で見たことはないな。手に持って食べる甘味だよ。食べる?」
「丁度よくオヤツどきですもの、頂きましょう」
甘味、と聞いてユーラリアはときめいた。彼女も人並みに甘いものが好きだ。
二人は揃って最後尾に並ぶ。
「クレープはすごく薄いケーキにクリームや果物、あるいは野菜や肉を巻いたもので、庶民の間では軽食にもなるかな」
ユーラリアはカイの簡潔な説明を聞きながら、平民にも甘味が手に入ることを誇らしく思った。
一方で他の客同様に豊富なメニューにぐらついていた。自分で中身を選べるなど、経験したことがない。
シンプルにメイプルバターにしようか、甘くベリーカスタードにしようか、どちらも確実に美味しいとわかるだけに悩んでいた。
悩んでいる彼女を見兼ねたのか、カイが一つ提案した。
「俺はメイプルバターにするよ。リアはベリーカスタードで。分ければ良いだろう?」
「まあ、はしたなくありませんか?」
自分が真剣に悩んでいた内容が把握されていてとても恥ずかしいような、嬉しいような気持ちで、落ち着いていた心拍がまた上がりはじめる。
「リア、今は王女様じゃないだろう?」
耳に寄せて呟かれた言葉に、ユーラリアは身を震わせた。耳から熱が広がる。
身分を明かせないから耳元に囁かれたのだと理性は訴えるが、脳は勢いよく空回っていた。
思考が停止しているユーラリアをよそにカイは慣れたようにクレープを購入し、彼女を空いているベンチに座らせた。その隣に彼も腰を下ろす。
機械のように無言で食べるユーラリアに不安を覚えたのか、カイはおそるおそる尋ねた。
「もしかして、口に合わなかったか?」
「えっ? あっ!? お、美味しいです……」
混乱したまま食べていたために、味は分かっていない。すでに手の中のクレープは半分を過ぎそうだ。ユーラリアはそれをもったいなく思った。もう一口食べる。
ベリーの酸味と卵のまったりとした甘さが鼻を抜けていく。
「美味しい……」
今度料理長に作らせようと決心し、交換するべく自分のクレープを差し出した。
カイは、差し出されたユーラリアの手を取ってそのまま食べた。思わず息を呑む。受け取られるだろうと予想していただけに、内心混乱の嵐である。
カイも自身のクレープをユーラリアに倣って口元に持ってきた。
ユーラリアは三秒ほど固まり、自棄になって啄む。カイが見ていると思うと、羞恥で死にそうだ。
そっと盗み見たカイはニコニコと涼しい顔をしている。早く食べてしまいたかったが、身に染みついた作法がそれを許さない。口惜しいが、クレープはとてもとても甘かった。
妙に弛緩した雰囲気の二人は手元のクレープを平らげ、ごく不自然に手を繋いで城へ帰った。
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