妹は猫やってます。

雪竹葵

第1章 プロローグ

1. 妹は

 長期休暇。学生にとっては気晴らしとなる素晴らしい期間だ。

 長期休暇は文字通り、長い休みのことである。ぱっと思い浮かぶのは春休み、夏休み、冬休みの三つ。秋休みという二学期制における前期と後期を分ける休暇も一応あるが、「長い」という部分に疑問が残る。昨年度の秋休みは四日間しかなかったし。しかもそのうち二日は土曜日と日曜日だった。最早もはやただの四連休である。

 夏休みはたいてい二十と数日間である。本州より短いのは、「どうせ北海道の夏なんてたいして暑くないから、夏休みなんて短くて良いだろ、グヘヘ」とか誰かが言ったんだろう。でも道産子にとっては気温二十五度以上は暑いんですけど。

 一方、冬休みは本州よりも長いらしい。それでも日数を数えると夏休みとそんなに差は無い。

 夏休みや冬休みは春休みと比べても長い休暇である。気晴らしに動物園や水族館、遊園地、映画館に足を運んだり、家の中でゲームやマンガに浸って過ごしたりできる最高の休暇と言えよう。

 加えて俺は部活に所属していないため、休暇中にお呼ばれしない限り学校に行く必要が無い。朝早く起きなくても良いので、寝たいだけ寝られる休暇である。まじ最高。

 だが、最大の問題は夏休みや冬休みには強敵がいるのだ。それは、「宿題」。教師が成績評価に使うからと出してくる大量のプリントのことだ。

 この宿題のせいで完全に開放された気分にはならず、気晴らしの映画とかも十分に楽しむことができない。だからといって当然のことながら宿題に取り組む気力も起きるはずも無い。

 そんな日々を過ごしていると気付けば「あと数日で休み終わるじゃん!」という状況におちいる。そして焦って宿題を終わらせるのが毎回恒例行事だ。「休み」なんだから勉強くらい休ませてくれよ。

 しかし、この宿題さえも存在しない長期休暇が存在する。それが、「春休み」だ。

 春休みは夏休みや冬休みと比べると十日間程度短いのだが、宿題という学生にとって最強の敵がいないため、勉強のプレッシャーから一番離れられる休暇である。

 日数の少なさから満足のいくまで遊びまくるということは不可能だが、勉強から解放されたことで、心と体を休めるには最も適している休暇と言えるだろう。

 そしてゆっくり休んでいると春休みが明け、試験で赤点のオンパレードを繰り広げていなければ、無事進級することができる。

 春休みが明ければ本格的に春が始まる。この季節は、入学したばかりの新入生がこれから始まる学校生活に期待をして心躍らせている時期である。

 新しい友達を作ったり、クラスメイト達と一緒に遊んだり。そういう学生の間にのみ許された青春を謳歌おうかする権利を無駄にしまいとつい張り切ってしまう人が数多く現れる。

 しかし、それは新入生に限った話だ。

 高校二年生ともなると、「あれ?思っていたよりも学校生活楽しくないぞ?」ということに気付いた者達で溢れ、ごく一部の人間だけが青春を謳歌する。

 付き合っているカップルが居れば「俺もあんな風に可愛い彼女が欲しいぜ」とか言いつつ自分の現状をなげく男子や、先程までグループになって一緒に話していた一人が外れれば「あいつ何か性格悪くない?」とか言って自分の友達像との差に苛立ちを覚える女子が発生するのは、学校生活に対する期待が裏切られたからこそ生じる現象に他ならない。

 つまり簡単に言ってしまえば現実は思い通りにはならない、ということだ。

 俺はまだ働いたことがないので分からないが、おそらく社会に出ると学生よりも思い通りに行かない場面が増えることだろう。

 「思い通りになるんなら、世の中苦労しねーよ」というのはよく言われることだが、この言葉には思い通りに行かないことは自分にとって苦痛でしかないということがよく表れている。

 学校生活においても期待通りにならない、すなわち思い通りにならないということが苦痛であるのは明らかだろう。そうでなければ「リア充爆発しろ」なんて言葉は生まれない。本当にリア充が爆発したら一種の自爆テロのような気もするが。

 春休みという楽園から、勉強しなければならないという現実を突きつけられた今、俺は現実が残酷だということを身に染みて実感していた。

 無駄に長く語ってしまったような気もするが、春休みが明けてからまだ数日しか経過していない俺の気持ちを何となく理解して頂けただろうか。

 学校生活への期待なんてものはとうに崩れ去り、ただ勉強しなければならないというプレッシャーに潰されそうになる。加えて何も背負っていなかった春休みが明けた直後のため、そのプレッシャーがやけに重く感じられる。

 簡単に言おう。勉強したくない。

 そして、この教室内には俺と同じような考えを持っている人が多いのだろうか、周囲を見渡してみると授業を真面目に聞いている生徒がほとんどいないように思える。

 俺の席は教室の窓側の列の一番後ろ。この教室はほとんどの日本の学校の教室と同じく、黒板に対して左側が窓、右側がドアとなっている。なお、ドアは前方と後方の二カ所にある。

 したがって、俺の席では右側から正面へと目線を移すだけで、他の生徒の様子をうかがうことができる。ほとんど首を動かさなくても良いので、教師によそ見を注意されるリスクも少ない。

 ざっとながめてみると、机に突っ伏しているのが十人程度、手を動かしていないのがこれまた十人程度おり、その他が授業に真剣にのぞんでいる生徒なのだろう。この位置からはほとんどの生徒の表情を見ることができないため、もしかするともっと授業を聞いていない人がいるのかもしれない。

 私語こそしている生徒はいないものの、この状況はあまりにもひどい。勉強をするべき教室に相応ふさわしいものだとは到底思えない。俺もその一端を担っている訳だが。

 今は担任の朝山あさやま先生が化学の授業をしているのだが、朝山先生は特にそういった生徒を注意することなく授業を進めている。

 昨年度も俺は朝山先生が担任のクラスだったが、その時から朝山先生が授業中に生徒を注意する場面を見たことが無い。注意するのが面倒なのか、それとも授業に真剣に臨むかどうかを生徒自身にゆだねているのか、真実は分からない。

 教室の空気が死んだまま授業は進んでいく。朝山先生は非常に授業が分かりやすいと評判の先生なので理解できないということはない。しかし、俺は勉強に対する意欲がかないため、授業内容が頭に入っているどうかははなはだ疑問だった。

 朝山先生が説明を終えた部分の板書を消し、新しく文字を書き始める。その時だった。

「失礼しま~す」

 教室前方のドアを開けて俺のよく知っている一人の美少女が入ってきた。頭の上には普通の人間には付いているはずのない猫耳が付いている。

 いきなり現れた美少女に驚いたのか、生徒全員の目線がそちらに向いた。

「お兄ちゃん、どこ~?」

 頭にアメリカンショートヘア柄の猫耳を付けた美少女は、そう言いながら目の上に手を添えつつ教室全体を見渡す。

 美少女が入って来た直後は状況が理解できなかった生徒達も、数秒経てば理解できるのか、小声で話をしている姿があちらこちらに見受けられた。俺の耳にも「え?あの可愛い子誰?」とか「あの子のお兄ちゃんって誰なんだろ」とかいう声が届く。

 しかし、俺は平常心でいられるはずが無かった。何故ならば、その美少女は俺が最もよく知る女の子だったからだ。

 だから、俺は思わず美少女の方から目を逸らした。そして、つい心の中で他の生徒に謝罪をしてしまう。

 すいません、俺の妹が授業妨害して本当にすいません。

 俺の妹、西沢にしざわあやはこの学校に入学試験の成績トップで入学、現在は理系選抜クラスに属している。要するにエリートというやつだ。

 俺と一学年しか違わないのに、俺に全く似ておらず美少女で、頭が良い。これだけなら、俺にとっても自慢の妹だということだけで済む。

 だが、彩には致命的な欠陥が存在する。それは、今のように時々意味不明な行動に出ることがあるのだ。お兄ちゃん、そんな子に育てた覚えは無いんだがな…。

 彩の方から目を逸らした俺は、窓から見えるグラウンドを眺め、一切興味が無いかのようによそおう。グラウンドでは体育の授業が行われており、トラックを走っている生徒が数人見受けられた。

 が、それがあだとなったのか、

「あ、お兄ちゃん見つけた!」

 と言う声が教室に響く。最悪だ。

 彩は小走りで俺の方に近寄り、軽く屈んで俺に笑顔を向ける。授業を妨害しているのに何でこんなに笑顔なんだよ。訳が分からないよ。

 ここで、俺の耳に届いた生徒の声の一部を紹介しましょう。

 まず最初はこちら。

「まじかよ、あいつがあの美少女の兄かよ」

 まじです、俺があの美少女の兄です。そう思うと自然とめ息が出てくるな。

 次の声はこちら。

「兄妹なのに似てないよね~」

 俺だって血が繋がっていないんじゃないかと疑ってしまうほどに似ていないとは思っているが、他人に言われると意外と腹が立つものだな。

 ちなみに、本当に兄妹なのかどうかを確かめるために住民票を確認したことがあるが、そこには確かに俺たちが血の繋がった兄妹であるということが示されていた。

 次で最後にしよう。最後はこちら。

「あの妹、頭大丈夫か?」

 激しく同意。たぶん大丈夫じゃない。

 いくら勉強ができて成績優秀だとしても、授業中に乱入してくる奴がまともな思考回路な訳がない。

 授業中の教室にいきなり入って来たというだけで勝手にその人のことを決めつけるのは良くないとは思うが、別に彩が意味不明な行動に出るのは今日に限った話ではないのだ。いずれ話す機会があるだろうから、ここでは具体的なことは言わないでおこう。

「お兄ちゃん、無視しないでよ~」

 折角、聞こえてきた声に心の中で反応して軽く現実逃避していたというのに、我が妹はそんな兄のことは露知らず、声を掛けることで俺を現実に引き戻す。何て思いやりのない妹だ。

「…何だ」

 面倒ごとは避けたいので、一応返答をする。

 すると、彩は顔をぱっと明るくし、

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 と何度も呼んできた。わかった、わかったからそんなに大きな声で俺を呼ぶな。ただでさえ注目を集めているというのに、俺の居心地が尚更悪くなるだろ。

 ほら、廊下側の列の前から二番目に座っている黒縁メガネくんとかものすごいオーラを放ちながらこっちを見てるだろ。たぶんあいつ童貞オタクだぞ。

「わかったから、静かにしてくれ」

 どうにかお兄ちゃん連呼マシーンと化している彩を止めようと試みる。

「だって学校でお兄ちゃんに会えたんだよ?これはもう運命としか言いようがないよ!」

 お前から俺を探しに教室に来たんだから、運命ではなく必然の間違いだろう。

 というか、毎日家で会っているというのに学校でも会う必要性を一切感じないんだが。

「ということで、彩にゃんはお兄ちゃんとの時間を楽しむのであります!ゴロゴロ~」

 机の上に頭を乗せ、こちらの方に少しだけ顎を上げて猫のように振る舞う彩。

 猫のようにゴロゴロと喉を鳴らすことはできないので、さすがにそれは発音しているが。

 とにかく、俺の目の前には猫となった彩がいた。頭に猫耳を付けているだけならまだ許せる。いや、許してはいけないのかもしれないが、俺にとっては些細な問題だ。

 それよりも問題なのは、彩が猫に変化することだ。別に彩が猫っぽいとかそういうことでは無い。

 彩は自ら猫を演じるのだ。今のように。

「はぁ~」

 大きな溜め息が漏れる。何も知らない人なら可愛いから良いじゃないか、とか言いそうだが、実際に何度も似たようなシチュエーションを経験している俺にとっては、ただ相手をするのが面倒だとしか思わなくなっていた。

「ん?」

 彩は机から頭を起こして下から俺の様子を覗っているようだ。

「何かお兄ちゃん元気ないね」

 心配そうに彩は俺を見つめているが、俺は彩の将来が一番心配だ…。

 このまま成長したらメイド喫茶くらいしか就職先がなくなる気がする。オムライスに向かって「美味しくな~れ、にゃんにゃん」とかやることになりそう。意外と需要がありそうだな。

「なあ、彩」

「何、お兄ちゃん!」

 俺が彩を呼んだだけなのに何でそんなに嬉しそうなんだよ。

「今は授業中だぞ。静かにしてくれ」

 彩が乱入してきてから生徒たちの目線がずっと俺たち二人から離れていない。この教室の中では、俺たち二人が完全に異物と化していた。

 学校においては異なることは自分たちとは敵であると見なされる。同じであることが重視され、違えばさげすむ対象となり得る。

 だから当然、教室内の生徒たちが俺たちを見る目は良いと言えるものでは無く、より一層居心地を悪くする。

 教室の空気は最悪だった。

「西沢君の妹さん、教室から出て行きなさい」

 今頃になってようやく状況が把握できたのだろうか、朝山先生が遅めの注意をする。俺が知る限りでは、初めて朝山先生が生徒を叱った気がする。

「は~い」

 意外にも、彩は素直に返事をして立ち上がる。そして俺の横を通ったとき、

「ちょっ」

 いきなり右手首を掴まれた。

「離せって!」

 彩は俺の言葉を聞かず、そのまま教室後方のドアに向かって歩いて行く。俺は椅子から床に落ち、そのまま引きずられていく。

 床と擦れている部分が痛い。そして摩擦で発生した熱で熱い。制服の擦れた場所に穴が空いたらどうするんだよ。

 そして俺がドアの外の廊下まで引きずられたとき、彩は

「それでは、失礼しました~」

 と言って、何事も無かったかのようにガラガラと教室のドアを閉めた。

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