♯383 約束の丘
◇◆◇◆◇◆◇
フィオナは一人、夜空を見上げていた。
ゆっくりと舞うように雪が降り、白い吐息が空へと昇る。
――シャーレの丘。
聖城の建つ聖域。約束の地。この街で最も天に近い場所。いつもは月と星々が美しく輝く空も、しかし今は、雲に覆われてしまっていた。
先ほどまで多くの人で賑わっていたその場所に、もう、他に人影はない。
静謐な白い世界で、フィオナはじっとベンチに腰掛けたままだった。
その両手に包まれているのは、クレスの耳飾り。
かつて、自分が贈ったもの。
けれど今、ここに贈るべき相手はいない。
フィオナは、不思議と寂しくはなかった。
一人になり、独りになって、たくさんのことを思い出せた。
そのすべてに、彼がいた。
フィオナは覚えている。
今までの大切な時間を。
忘れたくない想いを。
「……ふふっ」
だから、笑うことが出来た。
こんなにも幸せな気持ちをたくさん貰って、泣くことなど出来るはずがない。
悲しい記憶で蓋をしたくない。
どんなことがあろうとも。
どんなことになろうとも。
この胸の繋がりが消えてしまっても。
誓いは消えない。
想いは永遠に変わらない。
フィオナは胸に手を当てる。
「きっと、これが正しい未来だから……」
そう思う。
――彼の命を勝手に自分の命と繋いでしまったのは、わたし。
――彼の未来を勝手に奪ってしまったのは、わたし。
もしかしたら、好きな人だっていたのかもしれない。
思い描いた未来があったのではないだろうか。
世界を救った英雄には、いくらだって幸せな時間が贈られたはずだ。
――それを自分が歪めた。
彼の幸せを勝手に決めつけてしまった。
だから、これでいいんだ。
禁忌を犯して、不自然に作られた未来はもう終わり。
真っ白な日記の一ページ目を開くように。
これからが本当の時間。
彼が、ちゃんと自分の意志で未来を選び、作っていける、本当の世界。
彼が生きていてくれるなら。
本当の幸せを見つけてくれるなら。
たとえ、その隣に自分がいられなくても構わない。
フィオナは願う。
「……どうか」
耳飾りを包むように手を組み、まぶたを閉じて。
「クレスさんが、いつまでも、幸せでありますように――」
それは祈りではなく、ただ、純粋な願い。
この想いが雪のようにこの世界に溶け込み、馴染んで、いつか、彼の元へ届くように。
もしも。
もしも、もう二度と彼に会えなくても。
この想いがあれば、どんなことにも負けない。
最強、なのだ。
「……そうだよね? フィオナ」
そっと、目を開く。
かつて初代聖女ミレーニアが見たときよりもずっと大きく、広く、煌びやかであろう聖都の街は、とても美しく、幸せな光に満ちている。
『フィオナ。俺と――』
何度も、思い出してしまった。
『俺は、君を――』
何度も何度も、この場所で、あのときの言葉を思い出してばかりいる。
とても嬉しかった。
きっとこの先に、あのときより嬉しい言葉を聞くことはないのではないだろうか。
今度は、両手を胸に当てる。
とても温かかった。
いつだって彼が生きる希望をくれた。
どんなことだって乗り越えてこられた。
大切な人を想う気持ちが、自分を前に進ませてくれた。
「……お願い、フィオナ」
声が震え始める。
だめ。
違うの。
これ以上欲張ってしまっては、本当にシャーレ様に叱られてしまうから。
もういいんだよ。
幸せだから。
わたしは幸せだから。
嘘じゃない。
だから――
「…………お願い、だから………………泣かないで…………」
どんなに笑えていても。
どうしようもなく涙がこみ上げてくる。
自然に顔が下を向いてしまう。目をつむってしまう。
泣きたくない。
泣きたくない。泣きたくない……!
涙で終わらせたくない。
それでも止まらない。
「……いや…………嫌、です……」
溢れる涙が、とうとうこぼれ落ちてしまった。
「……忘れられても、いいから…………思い出せなくても、いいから…………」
一度決壊してしまえば、もう止めることはできない。
「ずっと、そばにいたい…………いつも一緒に、笑っていたい…………!」
わがままでいい。
呆れられていい。
誰に何を言われても、どう思われてもいい!
彼の描く本当の未来で――彼の隣にいたい!
「わたしがあの人を幸せにしたい……! もっともっと、二人で、幸せになりたい!」
堰を切ったように抱えた想いが溢れ出し、フィオナの魂は叫んだ。
「クレスさんと……ずっと、一緒にいたいよ………!」
そのとき。
雲の切れ目から――月の光が降り注いだ。
「――フィオナ!!」
ハッと、フィオナは目を開けた。
ゆっくりと顔を上げる。
自分の声ではなかった。
横を向く。
離れた場所で、彼が立っている。
息を切らし、汗を拭い、額からは血を滲ませ、頬を腫らして立っていた。
彼が近づいてくる。
フィオナは涙を拭った。
間違いなく、クレスは、フィオナの前にいた。
「……ク、クレス、さん……? どうして、ここが……。そ、それに、ひどい怪我を……!」
困惑しながらも立ち上がり、そっとクレスの頬に片手を伸ばすフィオナ。
「すまなかった」
クレスは、頬に当てられた彼女の手を包み込むように握った。とても温かく、大きな手だった。
「大切な話が、伝えたいことがあるんだ。君に。聞いてほしい」
フィオナは、ただ呆然とうなずいた。
「ありがとう」と小さく微笑み、クレスは話す。
「今までずっと、そばにいてくれてありがとう。俺のためになんでも尽くしてくれて、本当にありがとう。けど……それでも記憶は取り戻せなかった。その挙げ句に、あんな情けないところを見せてしまった。本当に、すまなかった」
フィオナは、ふるふると首を横に振った。
「俺は、ずっと考えていたんだ。もしも俺がずっとこのままで、かつての“俺”に戻れなかったら、きっと君は悲しむだろうと。君の笑顔を曇らせたくなかった。俺は、それが嫌だった。君を苦しめたくなかった」
フィオナはまだ、首を振り続けた。
「君と様々な経験を積んで、いろいろな人と出逢って、師匠には殴られて。悩んだ末に、決めていたんだ。この日までに、光祭の日までに君との記憶が取り戻せなかったら、君と、離れるべきだと。その方が、お互いのためになるのではと。君はとても綺麗で気立ての良い女性だから、引く手あまただろう。今よりもっと裕福な暮らしも出来るはずだ。……だから、だから」
言葉に詰まり、逡巡するクレスの手は震え始めていた。
「…………だから、俺と――」
そのとき、今度はフィオナが彼の手を両手で包み込んだ。
クレスは驚いたようにフィオナの顔を見る。
フィオナは、優しく微笑みかけた。
すべてを、受け入れるかのように――。
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