♯286 雪のかなた



 ◇◆◇◆◇◆◇



「お母さん、それじゃあね。お父さんにも伝えてちょうだい。それからこれも、ありがとう」


 玄関ドアを開けたまま、青い髪の彼女は柔らかな表情で話す。その腕の中には、フルーツや手作りのケーキが入った紙袋があった。


「――ええ、私は平気。また近くに来たら帰るから。……それは、良い相手が出来たらね。うん。お母さんも、あまり身体を冷やさないようにね。え? いいわよ、ここで。外は冷えるもの。ええ、またね」


 いくつかの言葉を交わし、彼女は静かにドアを閉める。吐く息は白い。

 外に出れば、木と石で造られたこの堅牢な家がどれだけ温もりを閉じ込めていたのかがよくわかる。歳寒にはまだ遠いはずだが、やはりこの国は冷える。しかしここで生まれた彼女にとっては、この肌を刺すような寒さこそ心地よかった。帰ってきたのだと、そう思える。


「……少し、早いかしら」


 懐中時計を確認した彼女は、それを胸ポケットにしまって木の階段を降りる。真新しい雪がさくさくと音を立てた。

 空を見上げる。

 厚い雲に覆われた空から、今日も止まない雪が降る。夜が近づいていた。


『――おねえ、また雪ウサギつくろ! カワイイ方がアイス1個ね!』


 青い髪の乙女――エステルは、微量な魔力を込めた指をスッと軽やかに振る。

 階段の手すりに積もっていた雪が集まり、カタチを変え、丸っこい動物――『スノウラビ』、通称雪ウサギの姿になった。

 指で軽くタッチする。


「“姉さん”、でしょ」


 微笑して、エステルは歩き出した。

 


 雪が降る。

 エルンストンの街は、今も変わらない。

 真っ白で、冷たく、静謐で、穏やかで、煌びやかな光が彩る。

 エステルは一人で、そんな故郷の街をのんびり歩いた。懐かしさから声を掛けてくれる者も多くいる。当時の大人からは綺麗になったとよく言われ、同年代の者からは旅の話を訊かれ、少し、こそばゆい。


 ――広場にたどり着いた。

 しばらくそこで、足を止める。楽器のケースを脇に抱えて難しい顔で新聞を読むお爺さん以外に人気はない。

 ベンチの雪を払い、腰掛けて、スカートの下に残る冷たさを感じながら目を閉じる。

 ここに来ると、いつでも思い出すことが出来た。

 あの日に聴いた、思い出の曲。

 あの歌には不思議な“魔法”がかけられていた。現実的な“魔術”ではなく、おとぎ話のような“魔法”。あれほど感動し、心に残った記憶なのに、二人の名前や顔が思い出せない。あの歌のことしか覚えていない。我ながら失礼なものだとエステルは思い、だからこそ“魔法”みたいだと思った。


 自然と、口から歌声が漏れていた。誰に聴かせるわけでもない、小さな、歌声。


「とても素敵なお歌声」


 エステルは驚きと同時に目を開けた。

 ベンチの隣に、いつの間にか見知った人物が立っていた。


「ル、ルルロッテ様……」


 目をつむっていた亡国の王女ルルロッテが、柔らかに微笑む。


「お隣、よろしいでしょうか」

「あ……え、ええ。どうぞ」

「失礼いたします。あ、お気遣いなく。すみません」


 ベンチの雪を払ったエステルにお礼を言ってから、ルルロッテも並んで腰掛ける。ロングスカートの中で足は揃え、手袋をした手は膝の上に置く。白い息は空に溶けた。

 ルルロッテが切り出す。


「ご挨拶は、もうよろしかったのですか?」

「はい。両親も元気そうでしたから」

「それは何よりです。この国は、わたくしにとっても特別な国。この美しい国で時間を過ごせたこと、心より感謝しております。エステル様にお世話になっている身として、わたくしもご挨拶出来ればよかったのですが……」

「ヴェインスの王女様となれば、両親が慌ててしまいますから」

「申し訳ないです」


 しゅんとなるルルロッテに、エステルが苦笑する。


 それからエステルは少々気になることを尋ねた。


「ところで……あの男は?」

「あ、ヴァーン様でしたら少々お酒を買いに」

「あの男……お姫様を一人にしてそんな……」

「ふふ、良いのです。それだけ平和な国という証ですから」

「……甘すぎます。せめてあれくらいはしてやっていいんですよ」


 二人の視線の先。まだまだ元気な子供たちが、広場で雪玉の投げ合いを始めていた。

 ルルロッテはおかしそうに笑って、それから話を戻す。


「『――悠久の月雪詠ティエラ』。愛溢れるまさに聖曲。わたくしも、とても好きな歌なんです。エステル様の透明感あるお歌声がよく合っておりました」

「え……あ、ありがとうございます……」


 子供たちの方を見つめながら、自身の胸元に手を当てるルルロッテ。


「母様がよく仰っていました。歌にはその者の本質が表れる。だからこそ魔力が宿るのだと」

「……本質……ですか」

「はい。聖都セントマリアでお聴きしたときから感じておりました。エステル様の涼やかなお歌声には、胸焦がす愛おしさと心震わせる切なさが内在している。それこそは、エステル様の心の美しさ。他の誰にも出せない輝き。それは、誇るべきものだとわたくしは思います」


 そこでルルロッテが右手の白い手袋を外し、エステルの白い素手を掴んだ。エステルがきょとんとする。


「ご一緒に、歌いませんか?」

「……え?」

「『悠久の月雪詠』は、星月夜の向こう……遥か彼方にいる大切な者へ贈られた約束の愛の言葉。ならば、エステル様の想いもまた、妹様に届きましょう」

「……あの子、に……」

「聖都でのあの夜は、素晴らしいものでした。多くの歌が愛に溢れていた。そしてきっと、あのときフィオナ様はエステル様のお気持ちをわかっておられた。だから、あなた様の手を取った。今の、わたくしのように」


 ルルロッテは、エステルの手を掴んだまま立ち上がる。驚きと戸惑いで呆然とするエステル前の前で、途端にルルロッテの表情かおが別人へと変わった。


「――グズグズしていたら届くものも届かないわ。好きなんでしょ? 愛しているんでしょう? ならその想いを伝えなさいよ。そのおキレーな声は飾りなわけ? あーあ、これだから臆病者のダサ女ってイヤっ!」


 呆れたように肩をすくめてみせる彼女に、エステルはぴくりと反応してからわかりやすくため息をついた。


 そして荷物を置き、立ち上がる。


「外面だけの美人に言われたくないわね。私は中身も美しいわ」

「あらそう? じゃあ見せてもらおうかしら」


 二人はそれぞれ口元を緩め、かつて小さなステージが建っていた場所まで移動する。そして、同時に歌い始めた。


 いつの間にか、新聞を読んでいたあのお爺さんがヴァイオリンを奏でてくれていた。お爺さんが二人に向けてニヒルなウィンクをする。エステルにはすぐにわかった。かつて演奏会に参加してくれた奏者だった。

 遊んでいた子供たちがこちらに駆け寄り、周囲から徐々に人が集まる。その光景に、エステルの中であの純白の日の光景が蘇っていった。


 ――ヴェインスの歌姫たちの、街中に響き渡るような美しい声。


 今は自分たちが立っているこの場所に、歌姫たちはいた。自分たちは、今の子供たちのように目の前で目を輝かせながら聴いていた。


 ステージの前で、あの日の妹があの日の自分の袖を掴んでいる。



『すごいね、すごいね! 歌ってすごいね! あたしたちも、ゼッタイ歌姫になろうね! いっしょにヴェインスに行ってさ、なるんだよ! 約束だからねっ、“ねえさん”!』

  


 約束は、守れなかった。


 そのことが、ずっと胸の奥でわだかまっていた。

 喧嘩別れしたままもう会えなくなったあの子に、何も掛けられる言葉はなかった。

 ゆえに、あまりこの街に帰ってきたくはなかった。

 大切なことを、すべて思い出すから。


 だから。


 これはきっとただの夢か、幻想か、魔法みたいなものなのだ。


 大人になった自分のこの手を、ヴェインス歌劇団のドレスを着たあの日の妹が握っていた。



『ありがと、姉さん。でも、もういいよ』



 ――何がいいの?



『そうやってあたしに遠慮するところっ! それでケンカしたの忘れたの? 姉さんのお情けで歌姫になったって、あたしはちっとも嬉しくなんてない。姉さんはいつもそう。勝手に一人で決めちゃうんだから」



 ――……ごめんなさい



『……でもね、あたし姉さんの歌が好きだもん。また聴けたから、それでいいんだぁ。それにね、いつでもまた会えるでしょ?』



 ――会える?



『そう! 姉さんがずっと歌を続けてくれたら、あたしも一緒に歌えるからさっ。ハイ、じゃあこれからはもっと自分に素直になってよ。約束ね、おねえ!』



 最後のフレーズを紡ぐとき、妹の歌声も一緒に聞こえた気がした。

 エステルが握り返したはずの手は、ただ空を掴む。


 終奏の最中に、エステルは空を見上げながらつぶやく。


 いつも、いつも、大切な人に言いそびれて消えてしまう。雪のような、純白の言葉。



「……“ありがとう”」



 隣のルルロッテが、穏やかな顔で微笑む。

 観客たちの拍手と共に、子供たちが空を指さした。



 そんな人々の後方――先ほどまでエステルたちが座っていたベンチに、今は赤毛の男が足を組んで座っていた。ベンチの背後には槍が立て掛けられている。

 彼は紙袋の中から勝手に取り出した一つのシフォンケーキを大口を開けて頬張り、よく味わってから飲み込む。それから手に持っていた酒瓶に口をつけ、ベンチに両手を掛けて頭を後方に倒すと、空を見上げて「へっ」と笑った。


「悪くねぇ」

 

 雲に覆われていた空から、美しい月と星が街を照らしていた。



 ◇◆◇◆◇◆◇


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