♯260 迷える子羊の大司教代理(前編)
時間が少し戻り、ショコラがクレスたちを森の家に送っていた頃。
聖女の居城――『聖エスティフォルツァ城』最上階の『聖女の間』では、二人の人物がなにやら話し合いをしていた。
そのうちの一人が、突然大きな声を上げる。
「――ハァ!? 大司教を辞めるだってぇ!?」
他に誰もいない広間で、女性のしわがれた声が反響するように広がる。これに法衣の男は慌てて周囲に目を配った。
「シスターサラ。こ、声が大きいぞ」
「そりゃ大きくもなろうってもんだろ! まったくアンタは昔っから肝っ玉が小さいね。そんなんでよく大司教サマになれたもんだよ。ねぇレミウス坊っちゃん」
「坊っちゃんはよせ……それと今は代理だ……」
動揺する男――大司教代理レミウスの前で「ハァ~~~」と大げさなくらいのため息をつきながら肩をすくめ、腰に手を当てる
ヴェールから零れるブロンドヘアは少し赤みがかっており、年相応に皺の入った顔つきをしているが、険しくも凜々しい目つき、老齢にしてはピンと伸びた背筋、レミウスより一回りも大きな上背、少々ふくよかな体つき、尊大気味な態度からは大きな活力を感じさせる。この城で、聖女に次ぐ最高位である『大司教』に対してこんな言動を取れるのは、おそらく聖女ソフィア以外には彼女くらいのものである。
サラは自分より背の低い男を見下しながら言う。
「で? 本当に辞めるつもりなのかい?」
その問いに、レミウスは手元の書簡を無言でサラへと手渡す。サラは荒い鼻息と共に受け取った。
「ソフィア様には?」
「いや……」
「そうかい。ま、最初にアタシに話したことは褒めてやるよ」
サラが目を通す間に、レミウスは静かに目を閉じ、白髭を揺らしながら返答した。
「……本当は、話すつもりもなかった。しかし、長年シスターたちを束ねてきた君には迷惑を掛けるやもしれん。ゆえに話しておくべきかと思ったのだ……」
「はんっ。いきなり辞められる時点で十分迷惑なんだよ。というわけで却下だ却下!」
「な、何?」
なんと、その場でびりびりと書簡を破ってしまったサラ。これに思わず目を見張るレミウス。
サラはまとめたゴミをレミウスへ強引に押しつけると、足を広げて仁王立ちし、とてもシスターとは思えない高圧的な立ち振る舞いで話す。
「いつまでゴーレム騒動のこと引きずってんだい! しみったれた顔して迷える子羊かっての! アンタは自分が嫌われてると思ってるかもしれないがね、本当に嫌われてんならとっくに街のモンが暴動起こしてるよ! アンタを嫌ってるのはアタシやシスターたち、いびられてるアコライトの坊やたちくらいなモンさね!」
「ぬ…………え? 嫌われ……いや……そういうことでは……」
「ああ、あとソフィア様だね! アンタ前もソフィア様の寝顔覗きに行ったろ? 年寄りは遠慮がないって相談されたもんさ。父親でもあるまいし、年頃の乙女の心情ってモンを考えな! 昔っからしつこいし頑固だし過ぎたことをいつまでもグチグチと! これだから嫌われるんだよアンタってヤツは! やれやれさね!」
「…………そこまで、嫌われて……いたのか…………?」
ズバズバ言いまくるサラの怒濤の勢いにもう押し黙るしかないレミウス。ちょっぴり沈鬱な顔をしていた。
サラは一度呼吸を整え、少し声のトーンを落として言う。
「アンタの気持ちはわかるよ。ハナッタレの頃から馬鹿真面目だったからね。けどね、先代のミネット様から司教の
「…………」
「引きずる男が忘れちゃいないだろ。アンタは死ぬまでシャーレ様と聖女様に尽くすんだよ。それが聖職者としての使命ってもんさね」
「…………使命……か」
「そもそもね、アンタはアタシをここに引き入れた責任がある。アンタに辞める権利なんてありゃしないんだよ! わかったかいハナタレのレミウス坊っちゃん!」
「ぬおっ!」
サラがレミウスの背中を思いきり叩き、パーンッと激しい音が鳴る。あまりの衝撃にレミウスは前のめりに倒れかけ、なんとかバランスを取って堪えた。老体に鞭打つような真似をしたシスター・サラは「アハハハハッ!」と豪快に笑う。
「……君は変わらぬな」
「美女ってことだろう? 褒め言葉だと思っといてやるよ。ま、アタシよりアンタの方が変わらないね」
そこでサラは胸を張り、一拍を置いてこう言った。
「ミネット様に約束したろう。ソフィア様を一生涯守ると」
「…………!」
「我らが女神シャーレ様は嘘つきに厳しいよ。じゃあね。星々の輝きあらんことを」
サラは適当に祝詞を告げると、一度も振り返ることなどなくさっさと歩き去っていった。
「…………ふぅ」
レミウスは散らばっていた紙くずを一つずつ拾い、深く長い息を吐くと、聖女の寝所へ向かって歩き始めた。たまに、背中をさすりながら。
重厚な扉の前に、もう専属のメイドは立っていなかった。彼女がいないということは、そういうことである。
――コンコン、と二度ほどノックしてしばらく反応を待つ。
やはり反応はない。そのことを確認したレミウスは扉に手を掛ける。ギィ、と軋むような音を立てて重たい扉が開いた。
「……失礼致します」
もちろん返事はない。
彼の予想通り、聖女ソフィアはベッドの上で横になっていた。レースの天蓋で顔こそ見えないが、今日は公務も多かったため、時間的にもおそらくもう眠っているだろう。それはわかっていた。わかっていて訪れたのだ。
そのとき、天蓋がそよそよと揺れた。
レミウスはすぐに理由を察する。
ベッド近くの窓がわずかに開いていたのだ。
静かにそちらへと歩み寄ったレミウスは、窓の取っ手を掴んでつぶやく。
「――夜風に当たりすぎては聖女様のお身体に障る。すまないが、また来てもらえるか」
そう声を掛けて、窓を閉じた。窓の向こうで黒い尻尾のようなものが揺れたが、もうレミウスは意識をそちらへ向けてはいない。
天蓋をそっと横に引くと、眠る聖女の顔がよく見えた。
当代聖女――ソフィア・ステファニー・ル・ヴィオラ=アレイシア。
先代の聖女ミネットの愛娘であり、レミウスが忠誠を誓うまだ幼き少女。そして、世界で最も尊き役目を授かった者。
レミウスはすぐに膝をつく。神子を見下ろすようなことはあってはならない。
「…………」
彼は、しばらく静かに聖女ソフィアを見つめていた。
まだまだ幼い子供だと思っていた。しかし、日々を重ねるたびにソフィアは母ミネットへと近づいていく。特に、多くの人々と出会い、交流を重ねたこのほどの成長は著しく、その心までも立派な聖女へと昇華しようとしていた。この事実はレミウスにとって何より嬉しく、同時に息の詰まるような心苦しさも感じさせる。
――“聖女”に近づくことは、“人”から離れることである。
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