♯166 未来に花束を
――その巨大な体躯は山と見間違えるほど。頭部には象のように大きな耳、逆立つ黒い体毛、サーベルタイガーのような長く鋭い牙が見え、全身は鋼のようにすら見える屈強な筋肉に覆われている。かつて聖都を襲ったキングオーガよりもなお巨大でありながら、その脚は信じられないような速度を保っていた。
フィオナが怪物を見上げながら言う。
「クレスさん……『ベヘモット』って、し、神話の伝説に出てくる獣ですよね? ほ、本当に存在するんですかっ!?」
「ああ。“神話級”の魔獣はすべて古き大魔王が――メルティルの祖先が生み出した怪物。ひとたび現れれば地上に災厄を振りまくと云われている。そのうちの一体はかつて俺が倒したが、まさか、こんなところで――!」
話ながら腕を伸ばしていたクレス。村に持ち込むのを遠慮していた『聖剣ファーレス』が気球の方から飛んできてクレスの手に収まる。そのままクレスはフィオナを庇うように前に立って剣を構えた。
「ベヘモットは温厚ゆえ人を襲うことはなく、戦闘向けの魔獣としては“失敗作”だとして処分されたと聞いたが……。現在する以上、ともかく今はヤツをなんとかしなければ。このままではフィオナの村が跡形もなくなる。それに、気球を踏みつぶされてしまえば戻るのも難しくなるだろう」
フィオナがハッと気付く。
ベヘモットの進行上――そこには二人が乗ってきた気球と、そして今まさに足を付けている村が存在する。乗り物の気球を壊されてしまうのはもちろん問題だが、静かに朽ちていくはずのこの村を、これ以上魔獣に荒らされてしまうわけにはいかない。
それでも、相手が悪すぎる。
勇者の力を失っているクレスでは歯が立たない。いくらフィオナが天才的な魔術の才を持っていようと、“神話級”の魔獣を止めることは難しいだろう。神話級の魔獣と戦ったことのあるクレスはそう考えていた。
「くっ……俺たち二人では、さすがにヤツを止めることは厳しいか……。だが、このままではフィオナの村が――!」
剣を強く握りしめるクレスの額から、汗が流れる。
ここから二人で逃げることが最善手だということはとうにわかっていた。逃げるのも今ならまだ難しくはない。
それでも――クレスはこの村を離れたくなかった。
既に滅びている村だろうと、もう人がいない場所であろうと、ここを守りたかった。もう二度と、あの時のようにフィオナの大切な場所を汚されたくなかった。なのに自分の力が足りない。守りたいものを守るために強くはったはずなのに、自分はあの頃とそう変わっていない。
そんなとき――剣を握るクレスの手に、フィオナがそっと手を重ねてくれた。
クレスが静かに隣を向く。
「――ありがとうございます。クレスさん」
クレスの手からふっと力が抜ける。
フィオナは、この状況でにっこりと微笑んでいた。
「嬉しいです。わたしの村を守ろうとしてくれて。でも、大丈夫ですよ。心配は要りません」
そしてフィオナは、優しく掴んだクレスの手を自分の胸元に押し当てる。
「……フィ、フィオナ?」
「胸の奥が、すごく熱くて……。以前よりも、ずっとずっと、クレスさんとわたしの魂が、綺麗に、なめらかに溶け合っているのがわかります。わたしたちの魂が、強く燃えている。抑えられていた生命力が溢れてくるみたいです。クレスさんにも、感じられませんか」
「俺たちの……魂、が……?」
「不思議です。今なら……なんだって出来ると思えます!」
とくん、とくん、とくん――。
重なる二人の手が、同じ鼓動を感じ取る。
途端に、フィオナの首に掛けられたイリアのペンダントが強い光を発した。
フィオナが嬉しそうに言う。
「きっとお母さんは、こうなることがわかっていたんです」
「イリアさん……が?」
「『時の魔術』は、未来を見通すことさえ出来ると云われています。きっとお母さんは、クレスさんとわたしがこうなることをわかってた。わたしのために、ずっと待ってくれていた。この日が来ることを。わたしが、本当の自分を取り戻すことが出来るように!」
瞳を潤ませるフィオナの頭部から、クインフォ族の耳がぴょこんと飛び出した。
銀髪は濃い魔力の輝きを帯び、その毛先からキラキラと粒子状の魔力が放出される。これはフィオナの魔力が極限まで高まった証である。
「フィオナ……!」
「大丈夫です、クレスさん。わたしに任せてください。わたしは――最強のお嫁さんになりますっ!」
そこで、目を閉じたフィオナがクレスに口づけをした。
わずかに触れるだけの、優しいキス。
そして、フィオナは“
『
フィオナの魔力がイリアのペンダントへと集まっていき、やがて目映い閃光のように瞬いて世界へと溢れ出した。
あまりのまぶしさに目をつむったクレスが次に目を開けたとき――
「――!? ……フィオ……ナ……っ?」
フィオナは、“ドレスアップ”していた。
艶やかな銀髪を覆う透明なヴェール。その一部からクインフォの耳が飛び出している。
豊かな胸元から流れるように揺れるのは純白のウェディングドレス。腰の部分には大きなリボン、足元には花飾りのついたドレスシューズ。その手に握られる杖はブーケのように花のデコレーションが施され、首元ではイリアのペンダントが、そして左手にはクレスとのダブルリングが輝く。
花嫁だった。
先ほどまでは濡れた服を抱えた半裸姿のはずであったが、二人が聖都の大聖堂で式を挙げたときのような、ウェディングドレス姿の美しいフィオナがそこに立っていた。彼女の身体からは瞬く光の魔力の粒子が放出され続けており、それはかつての魔力量をはるかに上回って、まるで生命力が際限なく湧き出しているようにも見える。
フィオナがそっと目を開く。そして自分の身体を見下ろして微笑んだ。
「……そっか。これが、これが本当の《結魂式》……。二人で幸せになるための、《結魂式》なんだ!」
「フィ、フィオナ? その姿は一体……! それに、その凄まじい魔力は……!」
花嫁衣装のフィオナはクレスを見つめて、安堵させるように微笑む。
「見ていてくださいね、クレスさん。本当の――わたしを全部っ!」
「! フィオナッ!」
純白の魔力を纏うフィオナの背に光の翼が出現する。その翼を一度羽ばたかせるだけでフィオナの身体は上空高くに飛び上がり、あっという間に雲の辺りまで上昇した。
杖が形を変え、宝石の収まる先端部の両サイドからも翼状の装飾が現れる。
『モオオオオオオオオオ――ッ!』
ベヘモットが唸るような激しい声を上げて接近してきている。
フィオナは胸を押さえる。
高揚していた。
これから先の未来を鮮明に想像して、喜びに胸が震えた。自然に顔が綻んだ。
これからも彼の隣にいられることが嬉しかった。
その時間が少しでも長く、永くなりますように。
そのために、もっと努力したい。
もっともっと成長したい。
最強のお嫁さんとして、どこまでも強くなりたい!
「大切なことを教えてくれてありがとう、ママ。アルトメリアの力……使うね!」
フィオナの持つブーケのような杖。その先端の宝石に魔力が結集する。
自然界と、そしてフィオナ自身が練り上げた魔力が合わさり、膨大な力を生む。ポンポンポンポン、と小気味よい音と共にブーケの花が数を増していき、やがて大きな花束のように変わった。
そしてフィオナは――その花束をベヘモットの方へ向けて投げた。
祝福するように。
かつて参列者たちにそうしたように。
感謝の印を、世界へと解き放った。
「――《
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