第一章 出逢い編
♯1 勇者の要らない世界
「よし、今日は良い獲物が捕れた!」
深い森の中、若い長身の男が野ウサギを手に汗を拭う。
後ろで一つに結んでいた金髪がよく目立つ、端正な顔立ちの男。彼は顔や服を土で汚しながらも、心地良い疲労感に微笑んだ。一見細身ではあるが、各部にしっかりと筋肉のついた体つきは男性らしいものである。
男は捕まえたウサギを見つめながら、申し訳なさそうにつぶやく。
「奥さんや子供が待っているわけではないんだ。俺一人が生きていける分だけ、その命をいただきます」
男はその場で手早くウサギの処理をし、手を合わせてから森を後にしようとする。
そのとき、ボン、ボン、と空に大きな音が響く。
男が見上げれば、青い空に綺麗な光の花が広がっていた。
「――そうか。今日は祭日だったな。……せっかくだ、たまには街をのぞいていこう」
男の足は、ゆっくりと動き出した。
◇◆◇◆◇◆◇
太陽が真上にのぼった頃。
男がやってきたのは、賑やかな声が響く大きな街。至る所で煌びやかな装飾が施され、空には魔術師団による光の花火が次々に打ち上げられている。
いつもよりずいぶんと騒がしい街の景色を眺めながら、男は一人で歩き続ける。外套のフードで、その顔を隠すようにして。
――聖都セントマリア。
街の中心にある小高いシャーレの丘には城がそびえ立ち、そこには神と同位に崇められる『
また、『聖究魔術学院』――通称アカデミーと呼ばれる一流の魔術師を輩出し続ける学園は大陸内でも有名であり、騎士や魔術師になるため多くの人々が集まってくる土地柄でもある。
暖かい季節となり始めたこの日は、ちょうど一年前に勇者が魔王を倒したとされる平和記念日。
街を挙げての祭が執り行われており、聖女が都民の前に姿を見せる数少ない日でもある。
祭り自体は三日ほど続くが、最も盛り上がるのは初日だ。
「相変わらずすごい人だな……」
つぶやく男が道中でふと足を止めたのは、人々で賑わう大広場。そこには世界を救った英雄──『勇者クレス』の像がある。
「──勇者クレス様。今日の平和を感謝いたします」
「──クレス様。貴方の勇姿を忘れません」
あの日から、多くの人々が日々ここで祈りを捧げるようになっていた。
だが、その多くは年老いた信心深い者たちであり、若い者たちの多くにとってこの勇者像は日常の風景に過ぎない。
「……ふっ」
男は穏やかに微笑む。
それは、彼によってありがたく喜ばしいことだった。
そのまま男が行き着いたのは、本日一番盛り上がっていたであろうアカデミーの卒業式を兼ねた魔術式典である。
卒業生と在校生、かつて在籍したOB・OGも含めて、優秀な魔術師たちによる規模の大きい催しには例年大陸中からとてつもない人が押しかけてくる。
特に今年は、アカデミーの歴史上トップの成績を収め異例の早さで卒業する天才美少女魔術師がいることで、その盛り上がりは凄まじいものがあった。
「うおーすげー魔術! 今年の首席卒業生のフィオナは天才だなッ! オレ、やっぱ騎士はやめて魔術師になる! 来年アカデミー入学するぞ!」
「バーカ、お前の頭じゃムリだって。そもそもお前、勇者クレスを目指すんじゃなかったのかよ?」
「クレスは魔王を倒した英雄だしかっこいーけどさぁ、魔王との戦いで力を使い果たして死んじゃったんだろ? オレ、それはやだなーって思って。それにほら、今時は騎士より魔術師の方がいろいろ役立ちそうじゃん!」
「それはまぁ、確かになぁ。平和な世界で魔物もずいぶん減ったし、今時勇者を目指すようなヤツもいないしな。この辺りも魔物なんて一匹もいなくなったし」
「だろ? 平和な世界に勇者なんていらねーんだよ! だからオレはかっけー魔術師になる!」
式典を見学していた二人の幼い少年。
そのやりとりを聞きながら、男はそっとその場を後にした。
「……その通りだ。もう、勇者は要らない世界だからな」
男の表情は、とても穏やかで優しい。
この街に、“彼”を知る人物は誰もいない――。
賑やかな街中を抜けた男が辿り着き、戻ってきたのは、聖都の裏にある森林地帯。
人が訪れることなどほとんどない静かなその場所に、男の暮らす家はあった。男が森の木々を使って作り上げた、小さな一軒のログハウスである。
「ただいま」
誰からも返事はない。
棚に掛けられたかつての相棒──一振りの剣だけが、彼を迎えてくれた。
テーブルの上にウサギの入った袋を置くと、男は狩猟の最中に獲物から噛まれた指や、木々の枝葉で切った箇所を水で洗い、簡易的な治療を施す。
それはちょっとした治癒魔術を使えるレベルの魔術師なら一瞬で癒やせるような傷であり、また健康な成人男性であれば放っておいてもすぐに直る程度のものだったが、今の男はそのどちらでもなかった。
「さて、それじゃあ食事の支度を――うっ!」
椅子から立ち上がったところで、軽いめまいに膝をつく男。
それはすぐに収まったが、男は額に手を当てながら思わず笑い出していた。
「は、ははっ……たったウサギ一匹でこれか。情けないな」
誰に聞かすわけでもない、ただの乾いた独り言。
こうして弱音を吐く自分自身が、男には何より情けなく思えた。
遠く、街の方からは今も活気ある音が響いてくる。
「…………俺は、何をやってるいるんだろう」
戦いの必要がなくなり、独りになり、ふと、考える時間が増えた。
「俺には、なにも残っていない……これから俺は……ずっと、ひとりで…………」
誰にも届かない声は、虚空に消える。
そのとき。
コンコン、と男の家の扉をノックする音が聞こえてきた。
「……ん?」
今まで、男の家に尋ねてきた人物などほとんど存在しない。なによりも今日は特別な日だ。
男は少々不審に思いながらも、来訪者の姿を確認するために扉の前に立つ。
そっと扉を開いた。
――そこに立っていたのは、男よりずいぶんと背丈の低い一人の美しい少女。
目が合う。
少女はその美しい瞳を煌めかせながら、すぅ、と大きく息を吸って。
「す、す、好きですっ! 小さい頃から! ずっと、大好きですっっっ!!」
男は、美少女の来訪者からいきなりの告白を受けた。
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