竜海の巫女2

 結希奈の家は四百年前から続く神社の家系で、その敷地は直径二キロメートルにも及ぶ広大なものだ。

 友達からはよく家が大きくてうらやましいと言われたが、結希奈には全くその自覚はなかった。自宅以外の神社の建物はお手伝いの時しか入れなかったし、その外側にある〈竜海の森〉には絶対に入ってはならないと父から厳しく言われており、そこが自分の家という実感がまるでなかったからだ。


 暗くてうっそうと木々が茂っており、時々鳥か何かの鳴き声が聞こえる〈竜海の森〉を結希奈は不気味に思っており、父に禁止されていなくても入ろうと思ったことは一度もなかった。

 森の反対側にあるらしい高校にももちろん行ったことはない。結希奈と北高の関係といえば、時々北高と間違えて入ってくる人に道を教えてあげるくらいの関係だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 しかし今、結希奈はその忌避していたと言ってもいい〈竜海の森〉の中を全力で走っていた。すでに家だけでなく神社全体が靄に覆われており、それは今も拡大して魔の手を森にまで伸ばしている。


 同じような木が立ち並ぶ森の中を道もわからずただがむしゃらに走り続ける。

 今にも黒くて形の定まっていない腕のような靄に腕を叩かれないかと怯えながら、時々どうしようもなく不安になって後ろを振り返る。


 靄は結希奈に触れるほど近づいてはいないが、確実にその勢力を拡大していて、森の木々が次々飲み込まれていくのが見えた。


「だ、だれか……」

 荒れた息の中から絞り出すように声を出す。

「誰か助けて!」


 しかしもちろん、あたりには誰もいない。普段不気味だと思っていた鳥の声さえも聞こえない。まるで自分以外の生き物は全て死に絶えてしまったのでないかと思えるほどだ。


 森の中を彼女なりの全力で走る。張りだした枝が結希奈の頬や脚に引っかかって傷をつける。肩が木の幹にぶつかって少し跳ね返される。木と木の間に張り巡らされた蜘蛛の巣が顔に当たる。


 結希奈は運動は苦手でもなければ得意でもなかった。体育の成績は三から四を行ったり来たりだ。


 足元は非常に悪い。最近雨が降っていなかったので地面は固かったのだが、足元は根が張りだしていたり岩が飛び出していたりしている。

 そのようなところを走っているからか、体力も徐々に奪われていき、足が上がらなくなったのだろう。地面の上に飛び出した根に足を取られて転んでしまった。


「あっ……!」

 転んだときに枝が目に入ったり頭を木にぶつけなかったのは幸運といえるかもしれないが、今の結希奈にそんなことを考えている余裕はなかった。


 慌てて立ち上がり、ちらと背後を見た。

 先ほどよりも確実に迫ってきている靄を見て恐怖に青ざめる。

 その恐怖を前進の原動力に変えてふらふらと歩き出した。膝や手のひらがじんじんと痛むが、それでも前に進んだ。


 本人は必死に逃げているつもりだったが、靄はそれ以上の勢いで拡大しており、ついに結希奈の身体を捕らえ始めた。


「ひっ……!」

 靄が自分の肩越しに溢れ出してきていることに気がつくと、結希奈の怯えはさらに増大した。


「いや、来ないで……!」

 咄嗟にその場に落ちていた枝を拾って振り回した。

 すると靄はまるで怯んだかのように少し下がったように見えた。その隙に結希奈は駆け出した。


 走っているうちに膝や手のひらの痛みはいつの間にか消えていた。

 それだけではない。肩に掛かるくらい長かった髪は短くなり、背が伸びて手足が長くなって胸はそれ以上に大きくなった。彼女自身は背が伸びないと悩んでいたようだったが、それでも小学生の体型から、しっかりと高校生の体型に成長していた。服も小学校に通う私服から北高の制服にいつの間にか替わっていた。


 そんな異常事態が起こっているにもかかわらず、結希奈はその事実に気がつかない。今も背後から迫ってくる靄から逃れることに必死だったせいもあるが、なんらかの力が作用してそれを疑問と思わなくなっているのかもしれなかった。


「はぁ、はぁ……」

 結希奈の息は相変わらず乱れたままだったが、身体が大きくなったおかげで走るのが少し早くなった。そのため靄との距離が少し稼げたのだが、そのことに当然気づくはずもなかった。


 森の中を走る。いつしか、森の中にできた道を走っていた。そこは左右をロープで隔てられており、人がそこを歩いたためであろうか、足元も比較的平らになっていて走りやすい。

 そこは結希奈や高橋家で暮らしていた女子生徒達が毎日北高に通うために使っていた道だった。結希奈はそのことに何の疑問も持たず知った道を走り続ける。


「そうか、あたし……」

 道の終わり、森の木々が途切れ四階建ての建物が建ち並ぶその境目まで来たところで初めてこの状況の異常さに気がついた。


 背後から靄が迫ってきていることにも構わず、結希奈の足取りは鈍くなり、やがて足を止めた。

 一年近くにも及ぶ期間、毎日通った見慣れた白亜の校舎は、しかし今では人の気配もなくただ不気味にたたずんでいた。


「あたし、〈ネメシス〉に行ったはずなのに、どうして学校に戻ってるの……?」

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