竜海の巫女
竜海の巫女1
聖歴2026年5月17日(木)
『ようこそ。我が主、魔帝ベルフェゴール様の居城へ。我が主からの心ばかりのおもてなしを、どうぞご堪能下さいませ』
その瞬間、結希奈の身体は黒い靄のように包まれ、彼女の意識はそのまま消失した。
「うわわわわわわわわわわっ!」
思わずベッドから飛び起きた。
怖い夢を見た――と思うが、どんな夢かは思い出せない。ただこの時間、まだ身を切るように寒いはずなのに身体が火照って熱いくらいだ。
部屋の外からはすでに朝日が差し込んで来ている。視界の隅にある時計を見ると、起床五分前だ。さすがにこの時間から二度寝というわけにはいかない。
「おはよう」
結希奈は枕元に置いてあるお気に入りのライオンのぬいぐるみの頭に手を当て挨拶すると、ベッドから降りた。
「うわ、汗でびちゃびちゃ……」
結希奈の身体を不快感が襲う。不快なだけではなく、このまま起きると逆に冷えて風邪を引いてしまいそうだ。
「シャワー、浴びてこようかな」
結希奈は自室のタンスへ足を向けてから、ふと立ち止まってベッドへと戻る。そしてぬいぐるみを裏返してからタンスの引き出しの中に入っている下着を取りだして部屋を出た。
小学六年生ともなると、そういうところが少し恥ずかしくなったりもする。六年生になりながらぬいぐるみと一緒に寝ているとことはさておき。
シャワーを浴びて寝間着から学校にも通える私服に着替えると、結希奈はキッチンに立った。
結希奈の家族は竜海神社の宮司である父と長女の結希奈、次女の朋香、そして住み込みで働いている巽の四人だ。
母は結希奈が小学校に行く前に亡くなってしまった。それからしばらくは巽が家の家事をしていたが、いつしか神社の仕事で忙しい巽に代わって結希奈が家事を行うようになっていた。
「さて、今日の朝ご飯は、と……」
冷蔵庫の中身を確認する。卵とハム、それに何種類かの野菜……。ハムエッグと野菜サラダを作ることにした。
妹が起きる時間にはまだ早い、先に巽と父の分を作り、あとから自分と妹の分を作ろうと計画する。
最初は包丁を握るのにもおっかなびっくりな彼女だったが、家事をするようになってから数年も経つとすっかり慣れたもので、家庭科の調理実習ではちょっとした主役扱いをされるほどになっていた。
手慣れた手つきで卵を割って油を引いて温めたフライパンの上に乗せる。
じゅうという音とともにおいしそうな香りがキッチンに溢れてくる。
その間にサラダを作る。レタスを手で千切ってトマトときゅうりを包丁で切り、一人分を小さな皿に盛り付ける。ドレッシングは市販のものを好みでかけるのが高橋家のやり方だ。
さらにお湯を沸かしてインスタントのスープを作る。あらかじめ冷凍させておいたパセリの粉末をぱらぱらとあとから振りかけてひと手間を掛ける。
「お父さん~、ご飯ー!」
台所からすぐ隣の部屋で寝ている父に呼びかける。神社の朝は早いが、朝早くしなければならない仕事は巽がやってくれているので、父は少しだけ朝寝坊ができると笑っていたことを思い出した。小学生ながらも神社の宮司というのは大変な仕事だと思っていた。
そうしている間にハムエッグができあがった。二人分をそれぞれの皿に盛り付けてキッチンのテーブルの上に置く。冷蔵庫から牛乳を取り出して朝食の準備は終わりだ。パンは父が起きだしてから焼けば間に合う。
いつもであればこれくらいのタイミングで起きてくる父であるが、今日は起きる気配がない。
「お父さん、ご飯だってば!」
聞こえなかったのかと、もう一度キッチンから呼びかけるが反応がない。
昨夜も遅かったのだろうと思うが、せっかく作った朝ご飯が冷めてしまう。
「もう~、しょうがないなぁ」
結希奈はエプロンで濡れた手を拭きながら、困り顔でスリッパの足音をぱたぱたさせがらキッチンを出た。
「お父さん? 朝ご飯だよ」
キッチンのすぐ隣にある父の寝室の扉をノックしたが、反応がない。
「開けるね?」
扉を開けると、その中の暗さに思わず怯んでしまいそうになる。
父の部屋は雨戸で閉ざされていたために朝日が差し込んでこないので真っ暗だ。正直、暗い部屋はお化けが出そうでちょっとだけ嫌いだ。結希奈は寝るときにも小さな明かりをつけっぱなしにして寝ている。
「お父さん、もう朝だよ。起きなくていいの? もしかして、風邪でも引いた?」
結希奈は部屋の明かりをつけながら父に話しかけたが、途中で息を呑んだ。
「お父さん……?」
しかし、部屋の真ん中に敷かれている布団にいるはずの父はそこにはいなかった。ただ布団が敷かれているだけで、誰かが使った様子がない。
「お父さん、どこ?」
部屋の中を見渡すが、父の姿は見当たらない。その時、結希奈の視界の片隅で何かが動いたような気がした。
「…………!!」
振り返ってそこを見るが、そこにはただ暗がりがあるだけだ。
いや、違う。
部屋は全体が明かりに照らされているはずなのに、そこだけが不自然に暗いのだ。
「ひっ……!」
結希奈の口から息が漏れた。部屋の隅の暗がりが動いたような気がしたのだ。
気のせいではなかった。
部屋の暗がりのように思われたそれは暗がりではなく真っ暗な靄のような塊で、今もそれは蠢き、少しずつ大きくなっているのがはっきりと見えた。
ばたん。
結希奈は後ずさりし父の部屋から出て、扉を勢いよく閉めた。しかし扉の隙間から靄は染み出すようにその領域を広げてくる。
「いや……」
結希奈は逃げ出した。キッチンを通り過ぎてそのまま玄関から逃げだそうとしたとき、妹がまだ寝ているはずだと気づいた。
急いで階段を上って2階に上がり、自室の隣にある、妹の部屋に向かった。
扉を乱暴に開けて妹の名を呼ぶ。
「朋香! 何かおかしいの! すぐに起き……て……」
結希奈の言葉が最後まで発せられることはなかった。何故なら妹の部屋も父の部屋同様、もぬけの殻だったからだ。
それだけではなかった。この部屋もやはり闇そのものと言ってもいいあの靄に支配されていた。
ぎろり。目もないはずの靄に睨まれたような気がした。靄がまるで結希奈に手を伸ばすかのようにその一部分を伸ばしてきた。結希奈は扉を閉めることも忘れ、その場から逃げ出した。
結希奈は家を出た。もう一人の家族の存在を頼りにしてのことである。巽はこの時間、境内で掃除をしているはずだ。
「巽さん!」
靴を履くのももどかしく思いながら外に出た結希奈は、境内にいるはずの巽を探した。
しかし巽の姿はどこにも見当たらない。本殿にも、社務所にもどこにもいなかった。
そうしている間に背後で大きな音がした。
「…………!?」
思わず振り返ると、二階建ての自宅から黒い靄が噴き出してくるのが見えた。
勢いよく噴き出す靄は周囲の空気を押しのけて突風を巻き起こす。
「きゃっ……!」
風に煽られた結希奈が悲鳴を上げる。その声に反応したのか、自宅を包み込んでいた靄が爆発的に膨張し、その一部分が明らかに結希奈を狙って膨張してきた。
「こないで……!」
結希奈は靄に追われるまま逃げ出した。鳥居の方から神社の外に逃げようとしたが、靄はまるで回り込むようにその行き先を塞ぎ、追い立てられるように結希奈は森の中に入っていった。
〈竜海神社〉は漆黒の靄に包まれてしまい、もはやその姿を見ることはできない。
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