そらへ3

 ――魔王ベルフェゴール。その名は歴史に深く刻まれている。


 最初にその名が知られたのはおよそ四百年前。中部ヨーロッパに異世界からのゲートが現れ、そこから現れた魔族と称する軍勢が突如近隣諸国に対して侵攻を開始、瞬く間に強大な帝国を作り上げた。


 現在魔界として知られるその帝国に君臨していたのが魔王ベルフェゴールである。


 以来三百五十年にわたり、人類は拡張を続ける魔族と常に対立を続けた。六度にわたる魔界大戦の始まりである。


 永遠に続くと思われた戦いの歴史に終止符が打たれたのは1945年の事である。

 竜人族、人間族、エルフ、ドワーフ、獣人からなる多種族混成部隊が一部魔族の手引きを受けて魔界の首都に潜入、見事魔王ベルフェゴールを討ち取ったのである。(なお、このとき陽動に動員された部隊の死者は四万人超。突入部隊の約百五十人はほぼ全滅している)


 戦後、方針を転換した魔界民主派は国境線を確定後、各国と次々平和条約を結び、また各国に対して友好の証として留学生を積極的に派遣するなど、平和国家としての歩みを確実に進めている。


 そこまでが歴史に記されたすべてである。




『くそっ!』

 メリュジーヌが部屋の壁を叩いた。もちろん、その姿は〈念話〉によるアバターなので実際に殴ることはできないのだが、彼女の怒りは痛いほど伝わってくる。


 魔王ベルフェゴールを名乗る人物が消えた部屋には〈竜王部〉のメンバーと瑠璃をはじめとするいやし系白魔法同好会、コボルト達、そして瀕死の重傷の菊池が取り残されていた。


「ずっと敵対していた剣術部やまるで人が変わったみたいな風紀委員長、それに多分秋山さんの様子がおかしかったのも全部副会長が糸を引いてた……そういうことなのか?」


 慎一郎の言葉に徹が首肯した。

「多分な。俺が剣術部に行ってからの記憶もどうも怪しい。夢うつつというか、なんというか……」


『おそらく、剣術部の襲撃もあの魔族の女の差し金であろう。全て操られておったのじゃ。ヴァースキの襲来そのものもそうであろう。今になって思えばスミタニにあの封印を破って巨大なドラゴンを呼び寄せることができるはずもない。いや、そもそも都合良くヴァースキの精神が都合良くこの時代のこの国にいたことすら計画だったのじゃろう』

 メリュジーヌが歯を強く噛んだ。実体のない映像なのに、ここまで歯を噛む音が聞こえてきそうだ。


「本当にそうなのでしょうか? 私はこれまでの一年半、彼女とともに生徒会を運営していましたが、とてもそんなそぶりは……」

『おそらく、奴は自分自身にも精神支配の術を掛けていたのであろう。でなければミズチ、そなたの目をごまかせるとも思えん』


「副会長自身が誰かに操られていたという可能性は?」

 疑問を呈したのは結希奈だ。それに瑠璃が答える。


「それは無いんじゃないかな~。術を掛けた本人が近くで見張っていないと何かあったときに対処できない。北高みたいなクローズドサークルの中では特に。あたしならそうする」


『とにかく、今は一刻も早く奴を追いかけねばならぬ。あろうことか奴はわしの――竜王メリュジーヌの肉体を何の断りもなく己の肉体として使っておる。それは万死に値する行為じゃ!』


「追いかけるって、いったいどこに? あいつ、消えちゃったし……」

 菊池の手当てを瑠璃に変わってもらった結希奈が、精神力を回復させるドリンクを飲みながらメリュジーヌに聞いた。


『〈ネメシス〉じゃろう。このタイミング、そうとしか思えん』


「要するに、当初の目的通りってことですね?」

 メリュジーヌは楓に『うむ』と答えた。


「ならば話は早い。今すぐ〈ネメシス〉への打ち上げを始めましょう。幸い。この部屋は封印の間よりも魔力が濃い」

 瑠璃の肩を借りて立つのがやっとの菊池が言った。その顔はすでに血の気が引いて真っ白だ。


「会長! まだそんなことを――」

「今ならまだ、イブリース君を救えるかもしれない……」

 結希奈が聞き分けのない菊池を止めようとしたが、菊池の呟きに続く言葉を失ってしまった。


『…………そうじゃな。急ごう。皆、準備を』


 目の前で生命エネルギーを吸い尽くされ消滅したイブリースを救えるとは誰も思っていなかった。しかし、今や気力だけで意識を保っている菊池にその事実を伝えることは、彼の生きる意志そのものを奪ってしまいかねなかった。


「げほっ、ごほっ……!」

「菊池会長!」

 咳き込み血を吐いた菊池のもとに慎一郎が駆け寄ろうとするが、菊池はそれを手で制する。


「ちょうどいい……。血には――特に竜人の血には多くの魔力が宿っている。加えてここは竜人にゆかりの深い土地だ。……必ず成功させる」


 菊池は肩を貸していた瑠璃も下がらせると、這いつくばり、先ほど自分が吐いた血で魔法陣を描き始める。

 時折咳き込み血を吐くが、何の躊躇もなくそれも使って魔法陣を描いていく。それはまるで、自分の命を擦りつけるような作業だった。


「魔法陣の中へ……」

 やがて半径三メートルほどの赤い魔法陣ができあがると、その中に慎一郎達をいざなった。菊池の後ろで瑠璃たちやコボルド達が見守っている。


「ここから成層圏まで〈転移〉を行う。その後は〈飛翔〉を行って〈ネメシス〉まで飛ぶ。所要時間はおよそ十二時間。全自動で行われるが、万一の時は浅村くん、君が制御してくれ」


 菊池が慎一郎に指の先くらいの大きさの赤い宝石を渡した。それはまるで、菊池の地を固めたような色をしていた。

「わかりました」


 魔法陣が輝き始めた。菊池が魔力を流し始めたのだ。

 輝く魔法陣から光の奔流が溢れ出す。さながらそれは下から上に登る滝のように激しく上へ上へと上っていく。


 光はさらに激しくなり、光の壁が魔法陣の上に立つ五人――慎一郎、徹、結希奈、こより、楓をぐるりと包み込む。その光に包まれる感覚は〈転移〉の魔法で門をくぐるときの感覚に近い。菊池の言ったとおり、このまま成層圏まで一気に転移するのだろう。

 緊張ゆえか、皆無言だった。それを唐突に破ったのは徹だ。


「悪い。やっぱり俺、行けないわ」

 そう言うと徹は、ひょいと光の壁を通り抜けて向こう側に出てしまった。驚く一同。


「ちょ、ちょっと栗山! あんた何やってるの? 早く戻ってきなさいよ!」

 激しい光の流れに光の向こう側を窺い知ることはできない。徹が結希奈の言葉にどんな表情をしていたのかはわからない。


「ちょっと野暮用を思い出しちまってな。後は任せた」

「おい、徹!」「栗山くん!」

 慎一郎とこよりが徹の名前を呼んだ瞬間、〈転移〉の魔法が発動して徹を除く四人は消えた。


「ど、どういうことっすか……?」

 突然のことに狼狽えるゴンが辺りをキョロキョロ見回す。仲間のコボルト達も同様だ。

 それに見向きもせず徹は今自分たちが入ってきた方――封印の間へ続く入り口の方へと歩いて行く。


「松阪ちゃん」

 徹はいつもの軽い口調で瑠璃の名を呼んだ。しかし瑠璃はそれに応えることなく、真剣な表情で徹を見るだけだ。


「会長と――そいつら全員、今すぐ地上に送り届けてくれ。頼むよ」

「あんたはどうすんのさ?」


 徹は肩をすくめる。

「ま、どうにでもなるでしょ?」

「けど――」

 徹は瑠璃の言葉も聞かず、開いたままの扉をくぐっていく。

「頼んだぜ」




 扉を通って封印の間に戻ってきた徹を一人の人物が待ち構えていた。


「何だ? てめーしかいねえのか? 浅村を出せ! 浅村だ!」

「悪ぃが、慎一郎は野暮用でな。代わりに俺が相手をするぜ?」

「ふん、まあいい。寝起きのウォーミングアップにはちょうどいい。後ろからしか襲えない雑魚なんざ、俺の敵じゃねえ」

 相手が剣を抜くのを見て、徹も腰の“朝霧”を抜いた。剣に炎が宿る。


「ブッ殺してやる」

 男がにやりと笑ったのに対抗して徹も不敵に笑う。

「それはこっちの台詞だよ、炭谷!」

 二人が同時に走り出し、一気に差を詰める。

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