いのちの水をもとめて2

 部室に招き入れられ、室内の椅子に腰掛ける純白の服に乱れ放題の黒髪の女性――〈竜王部〉顧問であり現在北高で唯一の教員、養護教諭の辻綾子つじあやこはうつろな目で正面の机の上の何もないところをじっと見ている。あるいは、何も見ていないのかもしれない。


「それで、どうしたんだよ、綾子ちゃん」

 相手が顧問だと知って冷静さを取り戻した徹がいつものように気安く綾子に聞く。ちなみに、結希奈、こより、楓の三人は先ほどの騒動でこよりが派手に暴れた際に落下したあれやこれやを片付けている。姫子は逃げるように鍛冶部の部室へと走って行ってしまった。


「もう……日……でない……」

「え? なんだって?」


 髪はボサボサ、目の下にはクマがくっきりと残っている綾子は、いつもの張りのある声からは到底想像できない乾いた声で何かを訴えている。何が起こっているにせよ、ただ事ではないと思われる。


「もう……四日も……何も……飲んでない……」

 ようやくそれだけを絞り出すと、すべての力を出し切ったかのように辻綾子は部室の机の上に突っ伏してしまった。その目はうつろで肌は干からびている。


「た、大変……! すぐ用意しますね!」

 結希奈が慌てて部室から出て行き、すぐに戻ってきた。その手には水差しをしっかりと持っている。


「さあ、先生。これを飲んで」

 突っ伏している綾子の上半身を起こし、その背に手を当てて結希奈は綾子の口に水差しから中身を移し替えたグラスを近づける。


「…………!!」

 すると綾子はそのグラスをひったくるように奪い取り、もう一秒も待てないかのように勢いよくグラスの中身を口の中にぶちまける。


「げほっ、げほっ……!」

「先生、慌てないで……!」

 結希奈が養護教諭の背をさするが、綾子はそんなことお構いなしとばかりにグラスを勢いよく机の上に置いた。


「水じゃないか――――――――!!」




「あれは四日前のことだった……」

 少し経って落ち着きを取り戻した綾子がことの顛末をぽつり、ぽつりと話し始めた。


「あの日は花火大会だった。花火を見ながら飲むのは最高でな。つい飲み過ぎてしまったんだ。そして気がついたら……ああっ!」

 綾子は取り乱したように頭を抱える。しかし、そんな綾子をなだめようとする生徒は誰もいない。


「な、なくなってしまったんだ! 全部だ。わかるか、栗山? 全部だぞ! もう、一滴だって残ってないんだ……。わ、私はこれからどうすれば……ああああ……!」


「それでさ、綾子ちゃん。その、何を? 花火の日に何を飲み過ぎて、何がなくなったんだ?」

 そんなこと、聞かなくてもわかってると部室にいる皆の目が語っていたが、また同時に聞かなければこの面倒くさい人との時間が終わらないことも十分承知していたから、皆は代表でその役割を買って出てくれた徹に感謝した。


「お、おさけ……?」


 生徒達の雰囲気を察したのか、おどけるような綾子であったが、部員達には「やっぱりな」という感想しか浮かんでこなかった。


「解散、解散だ! まったく、人騒がせな……。まあ、だいたいそんなことじゃないかと思ってたがな」

「も、森! 仮にも教員に向かってその言い方はないだろう? もうちょっと傷心の先生に何か、こう……」


「教員なら教員らしくしてくれよ、ったく……」

 斉彬が呆れたように頭をかいた。

「ほんとだ……ここにいっぱいあったはずなのに、いつの間にかなくなってる!」

 部室の棚の中を覗いていたこよりが驚きの声を上げた。確か春先に置き場所に困ると言って大量のお酒を綾子が持ち込んでいたが、そこに入っている酒瓶は一本も残らず空になっている。


「昼間、この部室には誰もいないから、つい、な。わかるだろ、森?」

「わかるかよ。オレも未成年だってこと、忘れてません?」

 綾子の話に律儀に付き合っている斉彬のため息はますます深くなっていく。 


「なあなあ。この羊毛、片付けようぜ。結希奈、これどうすればいいんだ?」

「演劇部に持っていくんだけど、少し洗った方がいいかもね。みんな、手伝ってくれる?」

「まかせとけ!」

「ありがと、栗山、みんな」

 部員達は結希奈の音頭のもと、先ほどのヒツジとの戦いで入手した羊毛をバッグに入れている。もう誰も綾子のことは気にしない。


「おいこら! 少しは私のことも心配しろ! このまま酒が入手できないと私は、私は……!」


「あっ、今井さん。その大きなかたまりはこっちの鞄の方がいいかも」

「そうですね。ありがとうございます」

 顧問である綾子そっちのけで羊毛の片付けをする部員達。


「お前ら、いい加減にしろ! 私にさけ……を……!!」

 そこまで言って、綾子は突然、勢いよく立ち上がった。あまりの勢いの良さにそれまで彼女が座っていた椅子が勢いよく後方に弾き飛ばされ、部室の壁に当たって大きな音を立てた。そのまま部屋の外に向かって歩き出す。


「先生……?」

 綾子の異変に気づいたのは彼女の最も近くで作業をしていた慎一郎だった。


「ちょっと、慎一郎! どこ行くのよ!」

「え……? だって……」

 振り返ると羊毛と格闘している結希奈がこちらを咎めるように見ている。

 そうしている間にも綾子はふらふらと部室から出て行ってしまった、どうにも危なっかしい。


「おれ、辻先生の様子を見てくる。今の先生、放っておけないから」

「あ、ちょっと……!」

 結希奈が止める間もなく、慎一郎は綾子のあとを追って部室から出て行ってしまった。


「わ、私も行きます……!」

 その後をすかさず追いかけたのは楓だ。


「え……!? 今井さんまで? じゃ、じゃあ……私も慎一郎に……」

 慌てて結希奈も立ち上がろうとするが――


「おい、高橋、これはどうするんだ?」

 その手を掴んだのは斉彬だ。足元に大量に積まれている羊毛の入った袋を指さしている。


「そうだぞ結希奈。話をつけたのはお前なんだから、お前がいなきゃ話にならないじゃないか」

 徹も同意した。


「わ、わかったわよーっ! やればいいんでしょ、やれば!」

 観念したのか、結希奈は羊毛の詰まった鞄のひとつを持ち、他の鞄を抱えている男子勢を引き連れて演劇部へと向かっていった。


「こよりちゃんは留守番お願いね!」

 結希奈の複雑な気持ちがわからないでもないこよりは、困ったような笑顔で結希奈を見送るのであった。

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