いのちの水をもとめて3

「くんくん。こっちだ。こっちからお酒の匂いがする」

 鼻を動かして辻綾子が校内を徘徊する。その姿は残念の一言で、せっかくの美人が台無しだ。いや、乱れ放題の髪と荒れ放題の肌からしてすでに残念――それを言うなら普段の生活態度からして残念なのだが。


「先生、どこへ行くんですか?」

 旧校舎の三階から二階へと降りるあたりで慎一郎が綾子に追いついた。程なくして楓も追いついてきた。


「決まってるだろう、酒のありかだ!」

 綾子は振り返りもせずにそう答えた。余りの自信満々なその態度に、楓などは、

「校内にお酒造っているところがあるんですか?」

 などと、綾子の言葉をすっかり信じてしまったようだ。


「まさか。おれ達全員未成年だよ?」

「そ、そうですね……。だったら……」

 辻先生はどこに行こうとしているんだろうと、楓は思った。慎一郎も同じ事を思っているに違いないと考えると少し嬉しくなった。


(はっ……!)

 旧校舎から新校舎へと移動し、さらに外へと出て行く綾子を追いかけている途中、楓はあることに気がついた。


(これは……お散歩デートというものではないでしょうか……!?)

 今井家の一人娘として両親に大切に育てられた楓は、これまでもちろん、男女交際などという経験をしたことはない。しかし恋愛に興味がないわけではまったくなく、むしろ人並み以上に興味津々であると言えた。


 そんな楓の中学時代からのバイブルと言えたのがお小遣いで少しずつ買いそろえてきた少女漫画の数々である。

 楓にとって少女漫画とは、将来あり得べき恋愛像で、高校生になったら自分もこんな胸を焦がすような体験をするのだと胸を弾ませていたのだ。


 その中のひとつに、知り合って間もない男女が初めてのデートとして近所の公園を歩く、“お散歩デート”が描かれたことを思い出したのだ。

 よくよく思い返してみれば、あの漫画の主人公はどことなく慎一郎に似ているのではなかっただろうか……。もう四ヶ月も読んでいないから、細かいことはよく思い出せないのだけれども。


(たしか、あの漫画では……)

 顔が赤くなる。耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。


 でも、二人きりのこのタイミングで一歩を踏み出さなければ結希奈さんに勝つことはできない。

 楓はそう決意をかためて少し前を歩く慎一郎に手を伸ばした。


「…………!?」

 慎一郎がびっくりしたようにこちらを見た。しかし、楓は慎一郎にしがみつくのが精一杯で、そこまで気が回らない。自分の鼓動が慎一郎に伝わっているのがわかる。


(ん……? 鼓動……?)

 そこではたと気がついた。


 漫画のシチュエーション――主人公と彼が手を繋いでいた――を再現するだけのつもりだったのに、気がついたら慎一郎に抱きついて、事もあろうか自分の(結希奈やこよりと比べてあまり豊かとはいえない)胸を押しつけていたではないか!


 瞬時に頭が沸騰する。目の前がクラクラして何も考えられない。

 もう一瞬たりともこの恥ずかしい姿勢を維持することはできない。驚くような速さで慎一郎から離れたが、勢いがつきすぎて足がもつれてしまった。


「あっ……」

 と思ったときはもう遅い。目の前に地面が迫っていた。思わず目をつぶった。


 ――が、その後に想像していた転倒による痛みは感じられない。代わりに腕をつかまれる温かくも力強い感触。


「大丈夫?」

 慎一郎が心配そうに楓を見つめていた。


 そのたくましく大きな手が楓の細い腕を掴んでいる。「よっ」と少し力を入れると、バランスを崩していた楓の身体はいとも簡単に立ち上がった。


「あ、ありがとうございます……」

 赤面が止まらない。この人はどうしてこう私を赤面させるのか。


(それが、“好き”ってことなのかなぁ……)

 〈竜王部〉に入ってからというもの、初めての経験の連続だ。


「あの、浅村くん……」

 楓は少し前を歩く慎一郎に声を掛けた。


「私、思ったよりも一歩前に出てしまうところがあって……。それで、この前のウマの時も変なこと言っちゃったり、さっきも、だ、抱きついちゃったり……」

 顔が上げられない。彼女の目にはゆっくりと楓のペースにあわせて歩く慎一郎の足元だけが見える。


「変な子だって思うかもしれないですけど、でも……その、わ、私、浅村くんのこと……」

 最後の方はもう、消えそうなほどにか細い声だった。不安が楓を押しつぶしそうになる。嫌われたらどうしようと。


「今井さん!」

「は、はい……!」

 名を呼ばれて顔を上げた。慎一郎は楓の少し前を歩いているのは変わらなかったが、こちらを振り向き、彼女の顔を見ている。


「急ごう。先生が、ほら!」

 慎一郎の指さす方を見ると、相変わらず鼻をひくつかせている綾子が昇降口から外に出て、園芸部が育てている青々と茂る畑の中に入ろうとしていた。


「はい、浅村さん!」

 慎一郎に続いて駆けていく楓の顔は、先ほどとはうってかわって晴れやかな笑顔だった。

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