黒猫のアラシと二度の嵐

黒猫のアラシと二度の嵐1

                       聖歴2026年7月20日(月)


 七月二〇日は海の日。今日から晴れて夏休みとなる。もっとも、学校から一歩も出ることのできない北校生徒達は、夏休み返上で活動しなければならない。父母の庇護下でぬくぬくと育っていた学生生活はここにはなく、あるのはサバイバルの日々だ。


 その日の迷宮探索を終え、部室に戻ってきたとき、すでに雲行きは怪しかった。

 雲は激しい速度で天空そらを駆け巡り、その厚さは刻々と厚くなっていく。まだ日の入り前なのにずいぶん暗いのは雲が厚く垂れ込めているせいだろう。


 風も強い。上空で雲を動かしている風は地上に降りてきてもその勢いを減じることなく校舎にたたきつけている。

 空気が湿り気を帯びてきた。気のせいか、気温も下がっているように思える。


『嵐じゃな』

 メリュジーヌがぽつりと言った。


 ここは外との情報を遮断されている。ゆえに、いつもは何気ない存在だった天気予報を見ることもできない。

 おそらく、今年最初の台風が上陸しようとしているのだろう。しかし、いつ来るのか、どれくらいの規模なのかを知る術はない。


「あたし、家の様子を見てくる。また明日ね!」

 部室の奥にカーテンで仕切られたスペースで休日にはおなじみの巫女服から制服に着替えた結希奈は探索終了後のデブリーフィングもそこそこに部室を後にした。


「あ、待って結希奈ちゃん!」

 少し遅れて着替え終わったこよりが結希奈のあとを追って部室を後にした。


 こよりが結希奈に追いついたのは、学校と神社をむすぶ〈竜海の森〉にさしかかったあたりだった。

 普段おっとりしているように見えるこの上級生は、意外と体力もあるし足も速い。迷宮の中では腕に錬金術で成形した岩をまとわりつかせて肉弾戦をすることもあるのだ。


「台風が来るなら花壇に風よけを取り付けないとね」

 そんなことをこよりと話している間にいよいよ雨が降り出してきた。

「ひゃっ、つめたっ!」

「結希奈ちゃん、急ごう!」

「うん……!」

 森の中を制服姿の女子生徒が二人、駆けていく。




 二人が〈竜海神社〉にたどり着いたときは細かい雨が槍のように降ってきていた。

 弁当箱などを入れた鞄――武器や探索に必要なアイテム類は部室に置いてきてある――を頭に掲げて濡れないようにしたが、強くなる一方の雨の前では全くの無意味で髪から制服から水滴が滴り落ちてくる。


「わたし、こっちだから!」

 こよりが庭の奥の方を指さした。その方角には物置があり、こよりの管理している花壇の道具類もそこに置いてある。先ほど言っていた風よけを取り付けに向かうのだ。


 庭を突っ切ろうと駆け出したこよりに結希奈は声をかけた。

「傘、持っていかなくて大丈夫?」


 こよりは立ち止まり、少しだけ何か考えた後でこちらを振り向き、首を振った。

「どうせもうびっしょりだし、このまま行くよ」


 確かに、こよりも結希奈と同じく全身ずぶ濡れだ。いつもは適度にウェーブがかかってふわふわ柔らかそうな髪も雨に濡れてまっすぐ垂れ下がっている。

 そのままこよりは駆け出していった。

 結希奈も玄関口へと急ぐ。


「ふう……。やっとついた……」

 屋根のあるところに入ってようやく人心地つけた。外では更に雨風が強くなってきており、風の鳴る音と雨が屋根をたたきつける音が激しさを増している。


 ぽた、ぽたという音が聞こえた。結希奈の髪やスカートから雫が玄関に滴り落ちる音だ。

 スカートの裾を絞るとぼたぼたと水が垂れてくる。

「うわー、びっしょびしょ。あーあ、下着まで濡れちゃってるよ……」

 制服のブラウスから染み出した雨は下着にまで染み込んで気持ち悪い。もちろん、外からは透けてバッチリそのラインを披露してしまっている。


 男子連中――特に慎一郎――に見られなくて良かったとギリギリのタイミングの良さに安心する。もう少し降り始めが早かったら部室から傘を持っていったことなど少しも思い浮かばなかった。


「おっと、こんなことしてる場合じゃなかった……!」

 結希奈はそう言って今入ってきた玄関口――激しくなる一方の風雨の中へと飛び出していく。


 高橋家は〈竜海神社〉の社殿と一体になっている木造建築だ。〈竜海神社〉自体は建立から四百年立っているが、さすがに社殿は何度か建て替えているのでそこまで古くはない。

 とはいえ、何度か遊びに行ったことがある小中学校時代の友達の家と比べると圧倒的に古い。

 結希奈が生まれた頃にはもう古かったので、築五十年はくだらないだろう。


 だから、最近の住宅とは異なり、“雨戸”がついている。


 周囲を森で囲われている〈竜海神社〉はそこまで風が強くなることも、何かが強風で飛ばされて飛んでくることもないが、それでも用心のために台風のときは雨戸を閉めることになっていた。

 いつもは彼女の父親がその役割だったのだが、その父は封印の外だ。父の力を借りることはできない。


 雨に打たれながら玄関から本殿の方へと向かっていくと、そこには巽がいて、びしょ濡れになりながら雨戸を閉める作業を行っていた。


「巽さん、手伝います!」

 風雨はますます強くなっており、張り上げるように巽に声をかけた。

 その甲斐あって巽はすぐに結希奈に気がついてこちらを向いた。


「ありがとうございます。結希奈さんは母屋の方を」

「わかりました……!」

 巽の指示に従って今し方やってきた道を引き返す。


 庭とは反対側に回り、居間の方へと向かった。

 とにかく古い家なので、部屋の中から濡れずに雨戸を閉められない。そういう風に作られていないのだ。

 毎度台風が来るたびに父が雨合羽を着てびしょ濡れになりながら雨戸を閉めていたのを思い出して、懐かしい気分になった。


「よいしょ! うぅぅぅぅぅ……ん!」

 力一杯雨戸を引く。立て付けが悪いのか、ただ単に古いのか、雨戸は非常に重かったが、すこし雨戸を上に持ち上げながら引くことで少しずつ雨戸は動いていった。


 途中、外で雨戸を閉めている結希奈に気づいた女子生徒達が手伝いを申し出てくれたが、濡れるのは自分だけでいいと断り、そのかわりにお風呂の準備をしてもらった。

 冷えた身体に染み渡るお湯の温かさを想像して、残りの雨戸を頑張って閉めた。




「うぅ、寒い寒い……」

 十分ほどですべての雨戸を閉め終わったが、ますます強くなる風雨のためにびしょ濡れだ。気温もだいぶ下がっており、今朝の蒸し暑さが信じられないほどに寒い。


 早くお風呂に入ってあったまりたい。そろそろ沸く頃だろうか……。

 そんなことを考えながら玄関に入って靴を脱ごうとした、その時だった。

「…………?」

 視界の隅で何かが動いたように見えた。


 そこは、下駄箱の下で、靴の箱やら何やらが多く置かれている場所。今まで気にしたこともないところだ。

 鼠か何かだったら嫌だなぁ。と思いながらも、結希奈はそこにしゃがみ込んで下駄箱の下をのぞき込む。


 古い家の宿命か、結希奈の家も鼠には困らされていた。正直言って鼠は好きではない。

 地下迷宮に出現するネズミのモンスターは、あれは地下迷宮に出没するモンスターだと最近ようやく割り切れるようになってきた。しかし、自分の家に出没するとなると話は別だ。


 意を決して下駄箱の下を見る。何も見えない。

 そこに置かれている箱をひとつひとつどかしてみる。

 それらをすべてどかしたとき――闇の中で金色に光る一対の瞳を見た。


「……………………わぁ!」


 暗闇の中に浮かび上がるのは小さくて黒い毛玉。まだ生後数ヶ月といったところだろうか、小さな子猫だ。

 子猫は下駄箱の下の小さなスペースの一番奥で、さらに身を小さくして少しでも奥にその身を下げようとしている。


「おいで、おいで~」

 結希奈が下駄箱の下に右手を入れて、指をちょいちょいと曲げる。濡れた制服にほこりが付くが、猫に気を取られている結希奈は全く意に介さない。


 子猫は突然目の前に出された指にビクッとなり、更に奥へと行こうとするが、それ以降奥へ行くことができない。


「ち、ち、ち、ち……」

 さらに指を細かく動かすと、猫の瞳がそれにあわせてそれに動くのがわかった。目の前で動く指が気になっているのだろう。


「おいで、ねこちゃん」

 未知の恐怖に好奇心が勝ったのか、黒猫は目の前で揺れる指に飛びつき、結希奈の指をガジガジ甘噛みして、ペロペロとなめ始めた。


「あはははは……! くすぐったいよ……!」

 玄関の中で床に這いつくばりながら悶える女子高校生。


「結希奈ちゃん、なに、やってるの……?」

「……え?」

 花壇の世話を終えて戻ってきたこよりが呆れたような、困ったような顔で結希奈を見つけていた。

 指先には黒猫がじゃれついているくすぐったい感触がまだ続いている。

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