改稿(ver.5.0)

 時は嘉永六年、西暦で言いますと一八五三年のお話であります。

 江戸湾の端っこ、浦賀に米国めりけんの真っ黒い船がやってきて、江戸の市井は上を下への大騒ぎになりました。

 後年、ペリーの黒船来航って呼ばれる奴ですな。


 江戸っ子が、黒船見たさにわんさと浦賀にまで足を運んだって記録があるくらいですから、そりゃぁ江戸と浦賀の往来はひっきりなしで、浦賀に近い宿場は黒船景気っていわれるほど儲かったそうで。


 流石に浦賀より遠く離れた品川宿じゃぁ、そのおこぼれにゃ与れぬ。とは言え、日本橋の隣なのは伊達じゃない。そんなあぶく景気に頼らずとも、客はちゃーんと付いておりました。

 幾つもの旅籠ひしめく品川宿。中でも評判なのは「庭紅梅にわこうばい」で有名な和蘭おらんだ亭であります。この「庭紅梅」には語り尽くせぬほどの蘊蓄うんちくがあるんではございますが、これからするのは「庭紅梅」の奥手にあります古びた倉の中から始まる話でありまする。


               ◇


 てな訳で、薄暗い倉の中。ご多分に漏れず、黴臭いのは止むを得ません。中にいる輩もこれには閉口したんでしょうな、扉という扉が全部開いておりました。

 倉の中には書物という書物が山のように積まさって、よく分からないものがそこいら中に散らばっております。

 その中で、二束三文のがらくたの合間をせわしなく動いている姿が一つあるんですが、手に抱えきれないほどのものを持ちましてね、あっちへこっちへ動いてるんです。その姿がまた細々こまごましていて、おまけに身体も小さいもんですから、高麗鼠こまねずみに見えちまいます。


 本の山がそんな高麗鼠に声を掛けたんですな。

「——げん?」

 それはどう聞いても若い男のもんでありまして、よくよく聞きますと、本の山々から上がってるじゃありませんか。

 途端に、げんと呼ばれた高麗鼠は一瞬ぴくりとしたんですが、無視を決め込んで止まりゃあしません。

 そこにもう一声、

「おい、げんってばよ!」

 名を呼ばれても知らんぷりの高麗鼠はがらくたや書物を抱えて、右往左往を続けます。しかし、その動きが先に比べて幾分苛ついて見えます。

「……おれの声が聞こえんのか、げん!」

 一度のみならず、二度呼んでも返らぬ答えに、荒ぶり声の主が山の間から起き上がりました。

 ばささ——

 声の怒気に当てられた訳ではないんでしょうが、積まれていた本の山が一つ崩れます。一つが崩れればもう一つ——将棋倒しのように次から次へと周りの山が崩れて、埃までもうもうと舞う始末。


「……んぎゅ」

 崩れた本の中から聞こえてきたのは潰れたような声。埋もれている所為か、声が幾分くぐもっております。

 男の方はこれ見よがしに破顔して、くぐもり声の出処に呆れ声を掛けました。

「何をしてんだか。……おーいげん、生きてるか? 生きてるんなら、返事しろ」

 本とがらくたの海の中からぷはっとばかりに顔が出る。途端に鼻がくすぐられて、「くちゅん!」とくしゃみが飛び出した。顔のところどころが煤けているのは、本とがらくたの下敷きとなったからですかね。

 膨れっ面と煤けがなければ愛嬌のある顔立ちの娘でありました。

「わはは。己の声掛けに答えなかったから、ばちが当たったのだ!」

 腹を抱えて笑い出す男。

 これには、煤けた娘の膨れっ面が、尚も一層膨らみます。

 流石に娘も我慢出来なくなったんでしょうな、散らばる書物とがらくたを掻き分けて、男に詰め寄ります。

 ぶんむくれ娘の煤け具合が、先よりも酷いことになっております。

「よくそんな口がきけるわね、信三郎! 手伝ってくれるったから、倉に入るのを許したんだからね! なのにあんたったら、そこで寝てるだけじゃない! それに、か弱き乙女が書物の下敷きになっているのを助けぬとは、武士の風上にも置けぬ奴!」

「あのなぁげん……己は手伝うとは言うたがな、何探すかは聞いてない。だから、手伝いようがない。それにだ、己は武士とはいえ、三男坊だ。そんな己には家督なんざぁ回っては来ぬよ」

 欠伸混じりで話すこの男は、蜷川にながわ信三郎。

 自ら名乗った通り、武家の三男坊ではありますが、勉学に勤しむこともなく日がな一日惰眠をむさぼるぐうたらであります。そのくせ、剣の腕は立ち、北辰一刀流の免許皆伝を持っているそうで。


「あんたに期待したあたしが馬鹿だった。手伝わないんなら出てけ。ここは和蘭亭の大切な場所なんだ」

 口を尖らせ捨て台詞を残した娘は、信三郎にくるりと背を向けて倉の奥へと歩き出しました。

「はん、この古ぼけた黴臭い倉の何処が大切な場所なんだ? ……まぁ、それはいい。なぁげん、ここを己の昼寝場所に使ってもいいか? ちと黴臭いが、それ以上に寝心地がいい塩梅だ」

 小馬鹿にしたような信三郎の言葉に、娘の足がぴたりと止まる。俯き加減でわなわなと震えるその足下に、小振りの木箱が転がっているのが目に入ったのが運の尽き。

「この、穀潰し!」

 思わず娘はその木箱を拾って、振り向きざまにぶん投げた。

 木箱は真っ直ぐ信三郎の顔目掛けて飛んでいく。

 刹那に流れるは銀線。

 からんからん——

げん、北辰一刀流舐めるなよ?」

 口角上擦った信三郎の手には抜き身の大刀が握られ、足下に真っ二つに斬り分けられた木箱と茶碗が転がっておりました。

「あーっ!」

 娘が素っ頓狂な声を上げ、信三郎に駆け寄ったかと思うと、足下に転がっている木箱——ではなく、茶碗を拾い上げたんでございます。


「……お父様が大事にしていた楽焼茶碗! こんなところにあったんだぁ! ……じゃないっ! 信三郎、あんた、よくもよくも、よくもーっ!」

「な、何を言う! それを投げたのは御主ではないか! げん、それを己の所為にするってのか!」

「ええ、そうよ! 元はと言えば信三郎、あんたの所為なんだからねっ! それから、あたしをげんと呼ぶなっ! あたしの名前はみなもだ! 何度言ったら分かるのよ! 馬鹿にしてるの? してるよね? よーく分かった。分からない奴には、よーく分かるように教えなくっちゃね」

 げんあらため、みなもが両手を振りますと、袖から何やら金属らしい棒が顔を出した。

「あ、いや、ちょっと……みなもさん? ……ぎゃっ!」

 みなもの両手の棒が信三郎に触れた途端に、彼の御仁は短く叫んで突っ伏したのでございます。

「ふん! 平賀みなも舐めんな! ひいじいちゃんの名前とエレキテル、直々に継いでんだからね、あたしは!」


               ◇


 黒船来航の約百年前——江戸時代の狂科学者マッド・サイエンティストと呼ばれた天才がおりました。その名は平賀源内。

 これは和蘭亭の一人娘であり、平賀源内の曾孫でもあるみなもと、武家のぐうたら三男坊である蜷川信三郎の織り成す物語。

 はてさて、どうなりますやら——

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