改稿(ver.3.1)
時は嘉永六年(一八五三年)、ペリーの黒船来航に江戸は上を下への大騒ぎとなっていた。
黒船の停泊した浦賀や、それ見たさの旅人が足を休めた神奈川や程ヶ谷の宿場は便乗商法で大繁盛。そんな黒船景気とは無縁だったのが浦賀より遠く離れた宿場町だが、東海道五十三次江戸側起点の日本橋、その隣の品川宿ともなれば、そんなものには頼らずとも客は付く。
いくつもの旅籠ひしめく品川宿。中でも評判なのは「庭紅梅」で有名な長崎亭であった。この「庭紅梅」には語り尽くせぬほどの蘊蓄があるのだが、これからするのは「庭紅梅」の奥手にある古びた倉の中から始まる話である。
◇
倉の中は薄暗く黴臭かった。その所為なのか、普段は閉じられている倉の扉が全て開け放たれている。
書物が
あちらへこちらへ本をまとめて移動させたり、がらくたの山を掘り起こす様は、身体が小さい所為もあるだろうが、さながら鼠のようだ。
本の山が名前らしき言葉を、鼠の後姿に投げ掛けた。
「——
それは若い男の声であり、よくよく聞けば、声は本の山々の谷間から上がっている。
呼ばれた
「おい、
「……
一度のみならず、二度呼んでも返ってこない答えに、名を呼ぶ声には怒気が含まれ、声の主といえる男が山の間から起き上がった。
ばささ——
今の怒声が引き金になった訳ではあるまいが、積まれていた書物の山が一つ崩れる。一つが崩れればもう一つ——将棋倒しのように次から次へと周りの山が崩れていく。さらに降り積もった埃がもうもうと舞った。
「……んぎゅ」
書物雪崩の犠牲者が声を上げた。埋もれている所為か、声が幾分くぐもって聞こえる。
男は破顔して、くぐもり声の出処に呆れ声を掛けた。
「何をしてんだか。……おい、
本とがらくたの海の中からぷはっとばかりに顔が出た。途端に鼻がくすぐられて、「くちゅん!」とくしゃみが飛び出した。顔のところどころが煤けているのは、本とがらくたの下敷きとなった証か。煤けと膨れっ面でなければ愛嬌のある顔立ちの娘だ。
「わはは。己の声掛けに答えなかったから、
腹を抱えて笑い出す男。
煤けた娘の膨れっ面が、尚も一層酷くなる。
「よくそんな口がきけるわね、信三郎! 手伝ってくれるったから、倉に入るのを許したんだからね! なのにあんたったら、そこで寝てるだけじゃない! それに、か弱き乙女が書物の下敷きになっているを助けないなんて、武士の風上にも置けないわよ!」
「あのなぁ、
この男は
自ら名乗った通り、武家の三男坊であるが、勉学に勤しむこともなく日がな一日惰眠をむさぼるぐうたらである。そのくせ、剣の腕は立ち、北辰一刀流の免許皆伝を持っているという噂だ。
俯き加減でわなわなと震える
「この、屁理屈こきの穀潰し!」
思わず
木箱は真っ直ぐ信三郎の顔目掛けて飛んでいく。
刹那、銀線が流れた。
からんからん——
「
口角上擦った信三郎の手には抜き身の大刀。今度は信三郎の足下に木箱が転がる——ただし、見事なほどに真っ二つに斬り分けられた木箱と茶碗が。
「あーっ!」
「……お父様が大事にしていた楽焼茶碗! ……信三郎、あんた、よくもよくも、よくもーっ!」
「な、何を言う! それを投げたのは御主ではないか!
「ええ、そうよ! 元はと言えば信三郎、あんたの所為なんだからねっ! それから、あたしを
「あ、いや、ちょっと……みなもさん? ……ぎゃっ!」
「ふん! 平賀
◇
黒船来航の約百年前——江戸時代の
これは長崎亭の一人娘であり、平賀源内の曾孫でもある
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