Shrieking ~不死者の慟哭(後編)

 そしてメネスは近衛に体調が悪いので部屋で休む、しばらく誰も通すなと厳命し、念の為寝台に自らの頭髪を模したかつらと詰め物を置いて、その上からシーツを被せておいた。これで遠目には寝台でシーツにくるまって寝ているように見えるはずだ。多少の時間稼ぎにはなるだろう。


 その後近衛の目を盗んで部屋を抜け出し、後は変装用のフードを被って、待っていたシェシと合流。シェシの付き人の振りをして何食わぬ顔で王宮の外に出る事に成功した。


「あはは! やりましたね、王様!」


「うむ、まさかこうも簡単に行くとはな。まあそう何度も使える手ではなかろうが」


 神権の代行者たるファラオがよもや王宮から単独で勝手に抜け出すなど前代未聞だ。人は前代未聞の出来事に対しては対処が甘くなる。


 しかし一度『前例』を作ってしまうと、その後は格段にやりづらくなるのは間違いない。


「でも王様だってたまには息抜きが必要ですよ! そうだ! カバを見に行く前に少し街で寄り道していきましょうよ! 絶対バレませんって! 王様がまさかこんな所にいるなんて誰も思いませんし」


「ふむ……余が建設した新都。異なる視点で見てみるのも悪くはないな」



 そしてメネスは、シェシに引っ張られるように街を散策して回った。基本的に彼が街へ降りる時は、誰もが全ての作業を中断して集まり一斉に平伏する。それが当たり前であったメネスにとっては、様々な意味で新鮮な体験であった。


 露店の店先に並ぶ品物をメネスが勝手に取ってしまいトラブルになり掛けたり(しかも勝手に食べた挙句どれだけまずかったかを列挙した)、人込みに苛立っていきなり平伏して道を開けるように大声を張り上げようとしたり……その度にシェシが取り成す羽目になった。



「あははは! 王様って面白ーい!」


 しかし苦労を掛けた割りに彼女は屈託なく笑っていた。


「むぅ……」

 面白い事をしたつもりはないメネスとしては、ぶすっと押し黙る他ない。



 2人は既に街を抜け出してナイル川のほとりまで来ていた。広大な川は向こう側が水平線となって見えない程だ。長さに至っては最早どれだけあるのか測りきれない。


 都からは少し離れた上流の位置だ。この辺りはまた開発が進んでおらず、周囲に人の気配が無かった。今ここには自分達の2人きりだ。


「……静かだな」


 これほど静かにナイル川のせせらぎを聴いたのはいつ以来であろうか。メネスは不思議と心が落ち着くのを感じた。まるで時間が止まったかのようだ。


「…………」


 メネスは隣で佇むシェシの横顔を見やる。何とも言えない幸せな気持ちとなった。これこそが自分の求めていたものではなかったか。


(そうだ……。永遠の時など必要ない。限りある生を愛しき者と共に歩む事が出来れば……それが何よりの幸福ではないか)


 そう思い始めていた。あのような歪な形で不老不死を得たとして、そこに何の幸福があろう? ましてや愛しいシェシにもあれを強いるなどとんでもない話だ。


(よし。我が墳墓にあるあの仕掛けや供物・・の類いは全て取り除こう。シェシに話をする前に決断出来て良かった)


 全ては一時の気の迷いだったのだ。メネスは晴れやかな気持ちとなって目の前の風景に視線を戻した。



「……ふむ。本当にこの辺りにまでカバが来たのか? 見当たらぬが」


「確かにそうですね。この辺だって聞いたんですけど……。私少し見てきますので、王様はここにいて下さい!」


「構わんが余り遠くまで行くなよ? それとカバは案外獰猛で危険な野獣だ。もし見掛けても1人で近付こうと考えるな」


「解ってますよ! ありがとうございます、王様!」


 シェシは笑ってパタパタと駆け去っていく。メネスも苦笑しながらそれを見送る。


(帰ったらやる事が山積みだな。シェシの為にもこのエジプトをより良い国にしていかねば……)


 そんな事を考えながらぼんやりとナイル川の流れを見やっていたメネスは、シェシが中々戻ってこない事に気付いた。


(はて? そんなに遠くまで行くなと言っておいたはずだが……。よもや何かあったのではあるまいな?)


 不安になったメネスは彼女が走り去った方に自分も向かおうとして……



 ――ドスッ!



「……あ?」

 背中に何かが刺さった・・・・ような感触。一瞬なにが起きたのか解らず呆けた声を上げるメネス。しかし一呼吸おいて激烈な痛みが襲い、そこでようやく事態を把握した。


(こ、これは……矢か!? 何者かが余を……射た?)

「がはっ!」


 血を吐きながらその場に膝を着いて崩れ落ちるメネス。あり得ない事が起きた。神の代行者たるファラオである自分に矢を射かける者など……



「おや? 運よく急所を外れたようですね? いや、運悪くか? 苦しみが長引くだけなのだから」


「……!?」

 メネスの良く知っている声が背後から聞こえた。信じられない思いで首を巡らせると……


「ナ、ナルメル……?」


 それは紛れもなくメネスが重用していた側近ナルメルの姿であった。その手には弓を構え、腰には剣も佩いている。


「ええ、その通りですよ、王。いや……もう、王ではなくなる・・・・・・・か……」


「き、貴様……裏切ったか……!」


「エジプトを統一するにあたっての悪名・・は全てあなたが被ってくれましたからね。もう用済み・・・なんですよ。後の事は全て私にお任せください。この私が至高のファラオとしてこのエジプトをより強大な国家にしてみせますよ」


「……!」

 メネスは重用するナルメルの提案に従って捕虜を残酷に処刑したり、従わない民を弾圧してきた。それが全てナルメルのはかりごとだったとするなら、この男は最初からメネスに成り代わる事を計画していたという事になる。


(抜かったわ……!)


 上エジプトには過去にも側近に裏切られて死んだ王が何人もいた。それを知っていながら有能なナルメルを便利に使うばかりで謀反の可能性を考慮していなかった。


 いや、常であれば必ず近衛がメネスの周りを固めている。彼がこのように1人になり、むざむざ暗殺される事自体が本来ありえないのだ。


(まずい……シェシがまだ近くに……!)


 ナルメルが常日頃からこのような機会を窺っていたのだとすれば、確かに今が絶好の機会。ならば王暗殺の目撃者、証言者ともなる彼女をナルメルが生かしておくとは思えない。


「シェ、シェシ……」


 つい彼女の名が口から漏れる。自身が暗殺の危機に直面しながら彼が咄嗟に案じたのは、愛しい愛妾の身であった。


 するとそれを耳聡く聞いたナルメルが残忍にその口の端を吊り上げる。それを認めたメネスは、まさか彼の見ている前でシェシを殺そうとしているのかと怖れた。



 ……しかし現実・・はそれより遥かに残酷であった。



「くく……滑稽だな」


「……何?」


「哀れな道化。真実・・を抱いて冥府の底へ旅立つがいい。……シェシ・・・、もういいぞ」


 メネスは一瞬目の前の男が何を言っているのか理解できなかった。しかしナルメルの立っている後ろにある岩の陰から出てきた人物を見て全てを理解した。……いや、理解せざるを得なかった。


「シェ、シェシ……?」


 それはあってはならない事だった。その人物――シェシはナルメルを怖れるどころか、自分から彼に近付いてその肩にしなだれかかる。


「うふふ、ごめんなさいねぇ、王様? 私、ずっと前からこの人の愛人だったの」


「…………え?」


 ――顔が変わっていた。メネスが愛した純朴で爛漫なシェシはどこにもおらず、情欲に潤んだ目でナルメルを見上げた。そして一転してメネスに向ける目は嘲笑と侮蔑と……そして嫌悪に満ちたものだった。


「な……何を……何を言っている? シェシ……冗談が過ぎるぞ。今なら……」


「ぷっ! あはははは! まだあんな事いってるわよ、あいつ。ま、それだけ私が上手くやったって事だけど」


 悪意に満ちた嘲笑。メネスは目の前が真っ暗になり、自分の足元が全て崩れ去るような衝撃を味わった。


「ふふ、全くだ。そしてこやつを私の指示通り1人にしてくれた。よくやったぞ」


「うふ、それじゃあなたがファラオになったらご褒美をくれるんでしょう?」


「ああ、使い切れん程の金をやる。お前には私の治世の為に、今後も邪魔な奴を篭絡するのに役立ってもらわねばならんからな」


 死に瀕しているメネスの前で、見知らぬ2人の人間が醜く絡み合って口づけを交わしていた。



(何だ……? 余は何を見ている? あれは……誰だ? 誰だ? 知らぬ! 余はあのような女は知らぬ!)



 全ての思い出が色褪せていく。いつしかメネスの眦から涙が流れ落ちていた。



「ぷぷっ! あいつ泣いてるよ? あはは、いい気味! ホントは近寄るのも嫌だったのよ。ねえ、目障りだからさっさと殺しちゃってよ。カバに襲われて死んだって証言するから」


「ふむ、それはいい考えだな。よし、絶望した顔はもう充分堪能したから、さっさと殺すか。ではな、間抜けな王よ。後世にお前の名は伝えん。この俺こそがエジプト最初の統一王として語り継がれるだろう」


 ナルメルは再び弓を番えると、何の躊躇いもなく矢を射た。だがここでも何の運命のいたずらか、突如吹いた突風によって僅かに矢が心臓から逸れて突き刺さった。


「……!!」

 衝撃によって仰向けに倒れ込むメネス。矢が心臓から逸れた事にナルメル達は気付いていなかった。血を噴いて倒れるメネスは、傍目には完全に死んでいるように見えた。


「……よし、川に投げ込むぞ。後は母なるナイルが始末してくれるだろう」


 ナイル川には、ワニや肉食の魚も多く棲息している。人間の死体など一日と経たずに骨だけになっている。ナルメルはシェシにも手伝わせてメネスの死体を川に投げ込む。


「あはは、馬鹿で可哀想な王様。じゃあねーーー」


 川に流され沈んでいくメネスの身体に、最後まで侮蔑の視線と声を投げかけながら手を振るシェシ。それがメネスが正気・・の内に見た最後の光景であった。






(……死ねぬ! 余は……このままでは死ねぬ! あの女……『女』に、思い知らせるのだ! 余の……偉大さを!)


 恐ろしい執念によってナイル川から這い上がったメネス。しかし自分がこのままでは死ぬという事も解っていた。


 それだけは絶対にさせない。全てに復讐してやる……。その執念だけが彼を突き動かした。


 川から這い出た地点が、彼自身が作らせた墳墓から比較的近い位置にあったのはこれまた運命のいたずらか。


 墳墓まで辿り着いた彼は躊躇いもなく内部に入り込み扉を閉める。どの道生きて・・・再びこの門を潜る事は無い。


 最奥部にある『王の間』。扉には彼自身を封印・・する方法が記されている。やむを得ない事だった。代償・・が無ければ不老不死を得る事は出来ない。


 『王の間』に踏み込むと部屋の中央に棺が直立していた。この部屋の地下にはメネスが不老不死を得る為の準備として生贄・・に捧げた、大量の下エジプト人どもの死体が埋まっている。


 既にいつ死んでもおかしくない状態で、執念だけによって動いていたメネスは、やはり躊躇う事無く棺の中に入った。そして蓋を閉めると、仕掛け・・・を作動させた。


 ゴゴゴゴッ……という動作音と共に、棺が地下に潜っていく感覚。そして……



 ――ジャキンッ!



「……っ!」

 棺に中にいるメネスの身体を、棺の内側・・・・に仕掛けられた大量の針が貫く。


 ビクンッ! ビクンッ! と痙攣する身体。身体から大量の血が流れだして、棺の下部に開けられた穴から地底に染み込んでいく。今度こそ遠くなっていく己の意識……


(見ているがいい……。余は必ずや復活するぞ。不老不死の力を得て、今度こそ何者にも妨げられん栄光を掴むのだ。そして余を陥れた、全ての物に、復讐、してやる。特に……あの、『女』に、は……)


 そこでメネスの意識は完全に途切れた。何も見えず、何も感じなくなった。死の世界に入ったようだ。


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