File11:ヴェロニカの受難

 ロングビーチ市の海水浴場。


 『ディープ・ワン』事件によって客足は遠のき観光収入面で大撃を受けたロングビーチ市だが、どんな苦く不味い料理も喉元を過ぎてしまえば皆忘れてしまう物。


 事件の収束と共に徐々に活気が戻り始め、事件から1年近く経過した現在では、ほぼ完全に元の賑わいを取り戻していた。



 ヴェロニカもビーチに活気が戻るに従って、一時期休業していたライフカードの仕事を再開する事となった。彼女は人気の高いライフガードで、ビーチ側から復帰を要請されたのであった。


 ヴェロニカとしてもまだ在学中の身であり何かとお金は入用だったので、実入りの良いこのアルバイトに復帰できる事は、財政面でもありがたかった。



 また給料の事だけでなく、ヴェロニカはこの仕事自体が好きだった。


 焼けつくような日差しと熱波、種々の人々が入り乱れた混沌とした活気。海から吹き付ける潮の匂い。砂浜を打つ波の音……


 これらに居心地が良いと感じる辺り、自分は根っからのラテン系の血が流れているんだなと実感する。



 ライフガード用の赤いワンピース水着に身を包み、監視塔の上でそうした夏のビーチの賑わいを堪能していると、そんな彼女の元に近付いてくる1人の男性が視界の隅に映った。


 ヴェロニカは溜息を吐いた。彼女目的でビーチに繰り出してくる若者がそれなりにいるらしく、こうして粉を掛けられるのも一度や二度ではない。


 そういう手合いをあしらうのも、何度も続けばウンザリしてくるだけだ。


(ナンパ目的もいいけど、このビーチには他にも際どい水着姿の女性達が大勢いるんだから、そっちに行ってくれないかしら……)


 ついそう思ってしまうヴェロニカであった。だが……



「やあ、ヴェロニカ。久しぶりだね。相変わらずキレイだ」

「……!?」



 まるで既知のように話しかけてくる態度。彼女は実際にその声に聞き覚えがある事に気付いて、驚いて声の方を振り向いた。


 近付いてきた男性。それはヴェロニカと同じメキシコ系の若い男性であった。その顔にも当然見覚えがあった。


「……カルロス?」


「そうだよ。……何だ。たった3年で俺の顔も忘れたのかい?」


「……!」



 それは間違いなく彼女が高校時代に付き合っていた元カレ・・・の、カルロス・エスカランテであった。



「……今更何の用? お互い納得尽くで別れたはずでしょ?」


 カルロスはラテン系の容姿に優れ、明るい性格でユーモアがあり、勉強もスポーツもそつなくこなし、おまけに裕福な実家の次男、と女性にモテる要素をいくつも兼ね備えた優良物件・・・・であり、当時愚かな小娘だったヴェロニカは、カルロスに口説かれた事で有頂天になって彼と交際関係になったのであった。


 しかしその関係は結局1年経たずに破局した。


 カルロスはかなり享楽的な性格のプレイボーイであり、ヴェロニカと付き合い始めてからも、ちょっと好みの女性がいるとすぐに目移りして、彼女に隠れて口説く……要するに浮気・・を繰り返していたのだ。


 他の女性を自室のベッドに連れ込んでしっぽり・・・・やっていた現場に直に遭遇してしまい、完全に破局。ドラッグに手を出し始めたのもこの頃であった。そこでダリオと出会い、それ以降は同年代の男性に幻滅してしまい、誰とも付き合う事無く今に至るという訳だ。


 カルロスが肩を竦めた。


「そう言わないでくれよ。あれから俺も反省したんだ。今は他の女との関係も全部切って、誰とも付き合っていない状態さ。……どうしても君が忘れ難くてね」


「…………」


 極上の笑みを浮かべてそう言うカルロスの姿に、しかしヴェロニカは動揺する事は無かった。


 高校の時の愚かな自分のままだったらきっとほだされてしまっていただろうが、あれから自分も色々な意味で成長した。


 何となくだがカルロスの笑みに信用できないものを感じ取ったのだ。彼は嘘を吐いている。恐らく他の女とも関係を切ってなどいないのだろう。ただ単に昔別れたヴェロニカの事を思い出し、甘い言葉で篭絡して都合よくりを戻そうとしているだけに違いない。


 そう結論付けたヴェロニカは、殊更に冷たい表情と声音を作った。


「……おあいにく様。都合の良いセックスフレンドが欲しいだけなら他を当たって頂戴。あなたなら別に不自由しないでしょう?」


 するとカルロスの表情が一気に強張った。


「人聞きの悪い事言わないでくれよ。あの時の事は本当に謝るからさ。君とやり直したいんだ。もう一度チャンスをくれたっていいだろう!?」


 どうやらちょっと下手に出てご機嫌を取れば、すぐに元鞘に収まれると思い込んでいたらしい。随分甘く見られたものだ。ヴェロニカは冷淡に鼻を鳴らした。


「話がそれだけなら、さっさと帰ってもらえるかしら? 仕事の邪魔よ。あなたにお似合いの尻軽女でも見つけるのね。きっとその辺にいくらでもうろついてるわよ?」


「……ッ!」


 ヴェロニカの態度に交渉・・の余地がない事を悟ったのだろう。カルロスの顔がサッと青ざめる。


 そのまま激情に任せて喚き散らすか、負け惜しみの捨て台詞を吐いて退散するかのいずれかだと思っていたのだが、ここでカルロスはちょっとヴェロニカの予想から外れた態度を取った。



 俯いたと思うと小刻みに肩を震わせ……笑ったのだ。



「ふ……ふふふ……なるほど。なびいてくれればだったんだが、まあいい……。やる事は変わらん・・・・・・・・


「な、何ですって……?」


 急に豹変したカルロスの態度にヴェロニカは思わず目を瞠る。


「……近い内・・・にまた会う事になる。抗っても無駄だ。これは……運命なんだ」


「……!」


 少し普通でない様子のカルロスに、ヴェロニカは若干気圧されてしまう。運命などという言葉を使う男ではなかった。何か怪しげな宗教にでも嵌っているのだろうか。


 カルロスは不気味に笑ったまま立ち去っていった。ヴェロニカはその後ろ姿を見送りながら、何か得体の知れない悪寒のようなものを覚えるのであった……




****




 夕方になってその日の監視業務を終えたヴェロニカは、シャワー室で汗や潮を流した後更衣室に入った。そしてそこで初めて違和感に気付いた。


(誰も……いない?)


 女性のライフガードは他にもいるし、この業務終了の時間帯に更衣室に誰も居ないというのはおかしい。ましてやヴェロニカは片付けなどをしていて、業務を終えたのは一番最後に近かったはずだ。


 そういえばシャワー室でも誰にも会わなかった。その時は特に疑問を抱かなかったが、よく考えるとそれもおかしい。


 何となく嫌な予感を覚えたヴェロニカは、さっさと着替えて帰ろうと思いロッカーに近付いた。その時……



「ああ……とてもキレイだ、ヴェロニカ。だからこそ……惜しい・・・

「……ッ!?」



 この場で聞こえるはずのない……男の声・・・が聞こえ、ヴェロニカはギョッとして身を強張らせる。しかも今の声は、つい先程日中にも聞いた……


 反射的に振り返ったヴェロニカの視線の先……更衣室の隅の陰に、いつの間にか1人の男が立っていた。甘いマスクのメキシコ系の若者……カルロス・エスカランテだ。


 最初から室内にいたようだが、ヴェロニカはその気配に全く気付かなかった。


「な……あ、あなた……!?」


「言っただろう? 近い内にまた会うと……」


 スゥ……と、まるで体重を感じさせないような歩き方で近付いてくるカルロス。ヴェロニカは本能的に後ずさる。


「な、何……何なの! 大声出すわよ!?」


「好きなだけ出すといい。どうせ誰にも聞こえない」


「な……何をしたの……?」


 他に人気がないのは気のせいではなかったのだ。ヴェロニカはゾッとして血の気が引く。


「『マスター』の力をお借りして、この建物にいた人間を排除しただけさ。今頃は全員、急性の脱水症状で昏倒しているだろうな」


「……!?」

(マ、マスター……!? 一体何の話!? いや、今はとにかく……!)


 とりあえずこの場を脱する事が先決だ。ここを脱出して通りまで出てしまえば彼女の勝ちだ。着替える暇が無かったのでライフガードの赤いハイレグ姿のままだが、そんな事を気にしている場合ではない。


 そう決めると、急いできびすを返して更衣室の出入り口に向かって走り出す。……いや、走り出そうとした。


「どこへ行くんだ、ヴェロニカ?」

「……ッ!?」


 いつの間にか目の前……進行方向にカルロスがいた。一瞬前まで確かに彼女の後ろにいたはずなのに……!


 思わず足を止めたヴェロニカは……決断・・した。


「……どいてぇっ!!」

「……!」


 カルロスに向けて『衝撃』を放つ。


 直接的な自衛以外の目的で、人間・・相手に能動的に『力』を使う事に躊躇いはあったが、ヴェロニカの本能・・が今は緊急時・・・だと判断していた。



 『衝撃』によって大気が震動する。『衝撃』をまともに喰らったカルロスは弾き飛ばされて壁に激突した。殆ど全力に近い威力だったが死んでさえいなければそれでいい。


 カルロスを昏倒させたなら急いで逃げる必要はなくなったが、とりあえず警察に通報しなければならない。ヴェロニカは携帯を取り出す為に再びロッカーに走り寄ったが……


「……なるほど。これが『マスター』が仰っていた、妙な力・・・とやらか」


「……ッ!?」


 いつの間にかゾッとする程の至近距離にカルロスが佇んでいた。ヴェロニカは飛び跳ねるように距離を取る。


「そ、そんな……何で……!?」


 確実に『衝撃』が当たったはずだ。その手応えがあった。だがカルロスは相変わらず薄ら笑いを浮かべたまま何事も無かったように立っている。


「何で……は、俺が聞きたい所だけどな。君、俺と付き合ってた時もこんな力を隠し持ってたのか?」


「く……!」


 カルロスの軽口に構わず、再度の『衝撃』を放つ。だが今度はヴェロニカは自分の目を疑う事となる。


 まるで瞬間移動の如き速さで、カルロスが『衝撃』を躱した・・・のだ。


「ああ、でも溜めや予備動作が大き過ぎて、初見の相手以外にはちょっと厳しいかな? それが人間以外・・・・の相手なら尚更ね」


「な……!?」


 軽々と『衝撃』を躱した上に、そんなアドバイス紛いの教授までしてくる余裕だ。そして彼は再び体重を感じさせないような移動で走り寄ってきた。


 ヴェロニカは咄嗟に『障壁』を張り巡らせる。カルロスが左手を掲げると、その掌から何か・・がまるで散弾のように射出された。


「……っ! う……!」

(これは……!?)


 散弾を防いだ『障壁』越しに感じたのは、「大量の砂を叩きつけられたような感触」であった。


「へぇ……勿論死んでしまわないように手加減はしてたけど、それでもアレを弾くなんて中々やるな。じゃあ……『コレ』はどうかな?」


「……!!」


 カルロスの両手の先から大量の砂が湧き出る。その砂は一塊りになって一個の物体を作り上げる。長い柄の先に四角形に近い塊が据え付けられたようなそのシルエットは……


(……ハンマー・・・・?)


 カルロスは砂を固めて、即席のハンマーを作り出したのであった。それも建物の解体現場などで大男の大工達が振るうような巨大なハンマーである。


「あ、あなた……あなたは一体……?」


 もうカルロスが尋常な人間でない事は疑いの余地がなかった。ヴェロニカのような一種の超能力者なのだろうか? いや、先程カルロスが見せた身体能力は明らかに人間離れしていた。


 ヴェロニカというよりもむしろ……



ミラーカさん・・・・・・に近い……!?)



 超常の力と人間離れした身体能力を振るうその姿は、知り合いである吸血鬼のミラーカのそれに近い物を感じさせた。


 幸いにしてそのような機会は無かったが、もしヴェロニカがミラーカと戦えば、何をどうしてもヴェロニカに勝ち目はないだろう。今カルロスから感じるプレッシャーは、そのミラーカとほぼ等しい物だった。


 だが彼が振るっている力は、明らかに吸血鬼の物ではない。



「俺は……今の俺は、『マスター』の忠実なる従者サーヴァントだよ」

「……!?」



 カルロスの言葉に哀愁のような響きを感じ取ったのも束の間……。



 その意味を考える暇もなく、振りかぶったカルロスのハンマーがヴェロニカの『障壁』に直撃した!



「――っぁああっ!!」



 その威力はまるで巨大なトラックが衝突したかと思える程で、一溜まりもなく『障壁』を破壊されたヴェロニカはその勢いのまま吹き飛ばされ、並んだロッカーに背中を強打して崩れ落ちた。激突の衝撃を物語るようにいくつものロッカーが原型を留めない程にひしゃげていた。


 床に崩れ落ちたヴェロニカはそのまま意識を失って側臥位に倒れ込む。



「……許してくれ、ヴェロニカ」


 そんな彼女を見下ろすカルロスの目はどことなく悲しい色をたたえていたが、勿論気絶しているヴェロニカがそれを認識する事は無かった……

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