第三章、その三

「いやいや、これはミステリィ小説においてはよくあるパターンの一つで、別に珍しくも何ともないのです。あまり大切でないポイントをいかにも重要であるかのように見せかけることによって、読者や主人公の混乱を誘っているわけなのですよ。いわゆる軍事用語的には『陽動』と呼ばれ、一般的には『ブラフ』と呼ばれるのがこれに当たります」


「……はあ、そうですか」


 大広間からあてがわれている客間へと帰る道すがら、珍しく鞠緒まりおがついてこないと思っていたら、渡り廊下の途中で自称『ミステリィ業界人随一の論客中の論客』にして他称『壊れたスピーカー』である、評論家の許斐このみ漱恋すすごい氏につかまってしまい、わざわざ中庭まで引きずり下ろされて、またもやオタク蘊蓄の生け贄とされてしまったのであった。


「番人を置いたりして、いかにも厳重に守られている食糧庫。ならばそこには潤沢なる食材の山が確保されていると思ってしまうのが、世の常人の常。かくして真の食糧事情は、始終管理者の側ばかりに秘匿されてしまうわけなのです」

「では許斐さんは、この里の食糧事情は、最初から逼迫していたとでも?」

「左様」

「それはおかしいではないですか。少なくとも今日の夕餉までは、むしろ食べきれないほどの分量が提供されていたんですよ。以前から食糧事情の悪化の兆候があったのなら、むやみな大盤振る舞いなぞはせずに、多少は節減の方向で対策が練られていたはずでは?」

「もちろん不可解な行動をとっているのは、そこに何らかの意思が働いているからなのです。そしてその謎を合理的に解き明かしていくのが、ミステリィの醍醐味なのではありませんか」

 だからむりやり複雑に考えて、何でもかんでもミステリィに結びつけるのはやめろと言っているんだよ!

「おや、何か御不審な点でも? だったら、別の理由に心当たりでもございますか?」

「やはり何か、突発的な事故が発生したとかでは。たとえば倉庫の保存状況に問題があって、大部分の食材がだめになっていたことが、今日わかったとか……」

「たとえば夏場だから、肉や野菜が腐ってしまったとか? だったら異臭とかがして、もっと早くに気がついていたでしょう。それともこれまで食べていた料理に、何か変わった点でもございましたかな?」

「僕自身は別に。特に肉料理は、ずっと絶品だったし……あっ、そうだ。あれですよ、『宴の最中の突然死』。あの人たちはたまたま腐った肉に当たって、食中毒を起こしただけなんじゃないですか。だからさっき女中さんたちも、自分たちの管理責任にかかわってくると困るから、在庫切れの理由を言い渋っていたんですよ」

 おお、これですべての事件が一挙に解決した。めでたしめでたし。

「いや、その件については私にも思い当たる節がありますので、あとでお話ししましょう。とにかく今は食糧問題を単独で吟味すべきです」

 おいおいおい。だから何で話を、むりやり複雑にしようとするんだよ。いいじゃないか、『食中毒』で。どこにもミステリィの出番なんて無いんだよ。

「私はね、むしろ食糧庫の中身は最初から、ほとんど在庫切れの状態であったとすら、にらんでいるんですよ」

 はああ?

「何言っているんですか。今日まで朝昼晩と、あんなにたっぷりと──」

「あの肉」

「え?」


「毎晩のようにメイン・ディッシュとして出されていた、あの大量の肉塊。あれって何の肉か、おわかりになられますか?」


 ……そういえば……。

「え、ええ。牛でもないし、豚でもないし、普通の鶏でもなさそうだし。たぶん当地名産の高山動物か鳥類か、あるいは普段僕なんかが食べることのない、山羊や羊の類いではないかと」


「おかしいとは、思われませんでした?」

 そのとき夜空の月が雲に隠れ、許斐氏の顔に不気味な影がかぶった。


「何が、ですか」

 何だか妙に胸騒ぎがする。


「この里に何週間もおられて、一食分の肉が摂れるほどの大型の動物や鳥を、一度でもご覧になったことがありましたか?」

 頭の片隅で、警告音が鳴っている。


「いえ。でも、どこかよそから仕入れてきて、保存してあったとか」

 耳を塞げと。


「この夏場にですか?」

 これ以上聞いては、いけないと。


「だったら何だと言うんです? 最近はやりの成分表示をごまかした合成肉だったとか? たとえそうでも、別にいいではないですか。味や品質に問題は無いようだったし」


「──あなたは気がつきませんでした? だんだんとこの館の女性の数が減っていたのを」


 ナンデ、ソンナコトヲ、イキナリココデ、イウノダ?「私は想像するのです」


 ヤメロ、モウナニモキキタクハナイ。「あの肉は牛でも豚でも鳥でも魚でもなく、」


 モウ、イヤダ。「何か珍しい高山動物でも鳥類でもなく、」


 オネガイダ、ヤメテクレ。「──この館の女中さんたちの肉であると」


「ばかばかしいたわ言は、いい加減にしてください!」


 気がつけば、僕は許斐氏の胸元をつかみあげ、庭木の幹へと押しつけていた。

 体を駆け巡る血液が、沸騰しているのがわかる。心臓の鼓動は指先までをも侵食し、食いしばる唇からは血の味がした。

 ──あと数秒彼の言葉が遅かったら、僕はその激しい暴虐の衝動に支配されていただろう。


「勘違いなさらないでください。私は何も人間の肉を食べさせられていたなどと、申しておるわけではないのですよ」


 再び顔を出した月明かりに照らされた、その変わらぬ穏やかな表情を見て、僕はいくぶん落ち着きを取り戻すことができた。

「だって、あなた、女中さんの肉だって……」

「だからって、人間の肉とは限らないでしょう」

「はあ?」


「忘れたのですか、この里に伝わる『伝説』のことを。彼女たちこそはるかいにしえに人魚の肉を食べた巫女姫の末裔なのであり、つまりは今や彼女たち自身が人魚の肉そのものとも言えるのです」


 はあああああああ?

「ちょっと待ってください、あの方たちのどこが人魚だと?」

 下半身も間違いなく人間だったぞ。いや、もちろん裸を見たわけではないが。

「人魚ではありません、あくまでも『人魚の肉』なのです」

 どう違うんだよ。

「つまりですね、人魚の肉を食べたからって、人魚になれるわけではないんですよ。一言で言えば、『体質が変わる』だけなんです」

「体質が変わるって?」

「すなわちそれこそが、『不老不死の体』になるということなんですよ。そしておそらくそれは完全なる不老や不死ではなく、摂取する側の体質によってその変化の度合いもまちまちで、たとえばきわめて長寿になったり、一定年数のみ若返ったりする程度だろうと思われるのです」

 それって全然、『不老不死』ではないのでは?

「まあ、『不老不死』などという生命の根幹を揺るがすことは、そう簡単には実現しないということなんでしょう。それでも人魚の肉の効能を無視することはできず、これまで多くの者たちから欲望を向けられ、そして数限りない悲劇を生んできたのです」

「『悲劇』って」

「人魚の肉を食べて体質の変わった者の肉体にも不完全とはいえ、人魚の肉同様に、不老不死の効能が宿ることがわかったのです」

「え? それって……」

 何だか話が複雑になってきたぞ。

「要するに人魚の肉を手に入れてそれを食した者は、その瞬間から今度は自分が『狩られる者』となってしまうんです。そしてそれを狩って食した者もまた、他の誰かに狩られてしまう運命が待っているわけなのです。人間の健康や長寿──ひいては不老不死への飽くなき欲望が尽き果てるまで、この悲劇の食物連鎖は永遠に続いていくことになるのですよ」

「馬鹿げている。たとえ人魚の肉を食べようが、元は人間同士ではないか。何のために人間に理性があると思っているんだ」

「極限状態において人間の理性なんて、何の役にも立ちませんよ。たとえば外界とは隔絶された人里離れた山奥の隠れ里の中で、長きにわたって暮らしていたりする場合とかね」

「あなた、結局何が言いたいんですか?」

「これはいけない、少々道草がすぎましたかね。つまりは初めから、私たちは選ばれていたのですよ。『狩る者』として、そして同時に『狩られる者』としてね。だからこそ私たちはこの里に来て最初の日からずっと、宴の席にて『人魚の肉』ばかりを振る舞われてきたわけなのですよ。そして晴れて私たちは認められたのです、『本物の人魚の肉』を食する資格のある者として」

 おいおい今度は何なんだ。人魚の肉に本物とか偽物とかまであるのか?

「おそらくは最初のほうで提供されていたのは、一族の中でも人魚の血の薄い方の肉だったのでしょう。それが徐々に効能の強い肉へとランクアップしていったのです。要するに私たちは時間をかけて人魚の肉に慣らされていたのですよ。そうでないと『拒絶反応』なんかを起こしてしまいかねませんからね」

「拒絶反応?」

「ええ、これでやっと先ほどの『食中毒』の話につながっていくんですけどね。つまり『人魚』自身はもちろんのこと、『人魚の肉』を食して体質の変わった人たちも、基本的には普通の人間とは、別の生命体となってしまっているのです。そしてそういった肉を一般人が食した場合、体質によっては激しいアレルギー反応を起こす場合も少なくないのです。言うなれば人魚の肉にはただならぬ霊力が秘められているわけですから、その拒絶反応も常ならざるものがあり、あなたもご覧になった陰陽師さんの場合ケースのように、あんな化物じみた最期を迎えたりすることもあり得るのです」

「でも先ほどの某大学本格同好会の人たちは、別に変身なんかしなかったじゃないですか」

「おそらくは、あれが最後のテストだったのでしょう。たぶんこれまでで一番、人魚の血を色濃く引く肉が提供されたはずです。だから一度に三名も犠牲者が出たのでしょう。ただし彼らとてこれまで人魚の肉に適応し続けてきた、猛者つわものたちなのです。それなりに人魚の霊力に耐性があったわけで、最期に半魚人のようになることまではなかったのですよ」

「ちょっと待ってください、それではこれは別に、最初から殺人事件なんかじゃなくて──」

「そうです。特に我々『人魚愛好会』のメンバーは、最初からこういうこともあろうかと、確信犯的に──いや、確信的にここにやってきたわけなのです。犠牲者の方にはお気の毒ですが、むしろ自らの死によって、これまで追い求めてきた『人魚伝説』の信憑性を証明できたのですから、彼らも本望だったんじゃないですか」

「じゃあ、これってやっぱり『人為的な事件ミステリィ』なんかじゃなく、『超自然的な現象ホラーかファンタジー』だったってわけなんですか?」


「ははははは。結論を出すのは、まだ早すぎますよ。何せすべては、これからなのですからね」


「──‼」

 何でこいつまで、鞠緒と同じセリフを。

「いやあ、楽しみですなあ。里の中に棲むものは、何を食べてもいいだなんて。むしろ我々にとっては、望むべき状況ですよ」

「あなたは、これからどうする気なのです? まさか本気で女中さんたちのことを人魚だと決めつけて、食べるつもりではないでしょうね」

「彼女たちが真実、人間では無いのならね」


 ──ソウ、コイツラハにんげんナンカジャナク、タダノ『ばけもの』ナノダカラ──。


 そのとき蘇ったのは「ふざけるなっ!」草稿に書かれていた叔父の言葉であった。

「そちらこそ、そろそろ放してくれませんか。いい加減苦しいのですが」

 その言葉でようやく、自分がいまだ彼の胸ぐらをつかんだままだということに気づいた。


「忘れないでください、我々もすでに人魚の肉を食べてしまっているということを。つまり私とあなたは今やお互いに、狩る者でもあり狩られる者でもあるわけなのですよ」


 その意味深なセリフときざったらしい微笑みだけを残して、評論家は夜の帳の中へと消え去っていく。


 そのとき呆然と立ちつくし続ける僕の姿を見ていたのは、天空に輝く月だけであった。

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