第二章、その十一

みつる君、いいのお? さっきからずっと『彼女』が見ているわよ」

「彼女じゃありません!」

 つうか、そもそも女じゃないだろう!


 僕らがこの隠れ里へとやって来てからすでに数週間。外界と隔絶された狭き世界での暮らしにも何とか慣れてきてはいたものの、あの鞠緒まりおと叔父の秘密を垣間見た夜以来、僕は彼のことを殊更に避け続けていた。


 ……なのに、性懲りもないんだよな。あいつってば。

 最初は無視し続ける僕に直接まとわりついてきてくってかかっていたものの、こちらが完全に相手にしないと見ると、あきらめてくれるどころか巧妙に作戦を変更してきたのだ。

 それは言わば『ドキッ☆鞠緒ちゃんのストーカー大作戦』と呼ぶような、いろいろな意味で危ない代物であった。

 この狭い里の中でのこと、完全に他者を遠ざけることは不可能とはいえ、どんなに僕が彼のことを無視して一人で行動をしようとしても、常に陰になり日向になり一定の距離を置いてついてくるのだ。そのしつこさは思わず交番にでも駆け込みたくなるほどであった。

 ……と言ってて今気がついたんだが、この里において司法権力の類いは、ちゃんと機能しているのだろうか?

 もちろん交番や警察署なんかは見当たらないし、外部との交通手段は月に一便ほどのヘリコプターだけだし(今朝方久々にやって来た)。

 某美人編集者が「警察の話なんか書いても面白くも何ともない」なんて言っていたけど、それって小説の中だけの話だよね。

 それともここは本物の隠れ里で、いまだに日本国政府にも認知されていなかったりするのかな。

 そういえば電気ガス水道等の公共サービスの類いもまったく利用しておらず、すべて自然の恵みと何らかの工夫をして自前で賄っているようだしな。


 しかし、通信手段は最初に全部取り上げられるし、交通網は完全に遮断されているし、いかなる外部権力も影響を及ぼさないしで、何かいかにもミステリィ的展開にとって都合よくお膳立てされているように思えるのは、僕の気のせいだろうか。


「何をさっきからぶつぶつ言っているのよ、色男さん」

 某美人編集者が、顔をのぞき込むようにして尋ねてきた。

「色男はやめてください、夕霞ゆうかさん」

「だって、ほら」

 たおやかで細い人差し指の先には、樹木の陰に半身を隠しながら恨めしげに涙目を揺らしてこちらのほうを睨みつけている、『美少女風味』が一人。

 木漏れ日を受けてきらきらと輝く銀髪とほっそりとした中性的な肢体を包み込んだ白いひとえが、時折吹きつけてくるそよ風にその身をなびかせている。

 そんないかにも物悲しげな風情についうっかりと心乱されそうになるが、僕の口は毅然とその未練を断ち切った。

「鞠緒、いい加減にしろよ。いくらつきまとっても無駄だと言っているだろうが。今からこのお姉さんとキスするつもりなんだからこれ以上そこにいる気なら、のぞきの現行犯として『休職中の刑事』さんに突き出すからな。あんな顔色の悪い人に四六時中つきまとわれたら、夢に出てきてトイレにも行けなくなるぞ!」

 思いつきで口走ったんだが、効果は絶大であった。その少年は顔を真っ青に染め上げるやいなや、一度ちらっと物言いたげな一瞥を与えたのち、単の裾をひるがえし脱兎のごとくその場を逃げ去っていった。もちろんそのあとには宙を舞い散る涙のしずくの煌めきが残ったのは、演出上言うまでもないことであろう。

「悪い人。あなたこそ刑事さんに逮捕してもらったら?」

「……『刑事』なんて官職名は、存在しなかったんじゃないんですか?」

「ほんと。せっかくあんなかわいい子が慕ってきているのに、すげなく袖にするなんて。さすがは綿津見わたつみ先生の甥御さんね」

 あのう、そう言われるのがいやだから、あいつを遠ざけているんですけど。


「でもそのお陰で私が満君を独り占めにできて、ラッキーって感じよね。だって君ったらこの里に来たとたん、何だかよそよそしい感じだったんだもの」


 目の前には今度は、いたずらっぽく笑み歪む勝ち気な黒目がちの瞳が迫っていた。

 気がつけば、この聖地と呼ばれる大きな泉の側で、僕らは何だか微妙な雰囲気の二人っきりとなっていた。……夕霞さん、どうして急に、人の首の後ろに両腕を回してしなだれかかってくるのです?


「はい」

 なぜ、目をつむる。

「ん〜」

 こら、唇を突き出すんじゃない。

「あら。私たち、今からキスするんじゃなかったの?」

 この人ってば、もう!


「そんなの、鞠緒を追い払うための方便に決まっているでしょ!」

「うふふふふ、わかっているわよ。私だって、人前でバカップルする趣味はありませんからね」

 ……え、人前って。

 あ、忘れてた。ここが聖地『満月つきの泉』ということは『宝物庫(仮)』も当然あり、その前で番をしている女中さんもいるんだった。何か湖からの落水が邪魔になって、つい見落としてしまうんだよな。

 いつもながらのにこやかなる微笑みを浮かべて、こちらを見つめている女中さん。もちろん恒例の会釈を交わすのはお約束だ。一期一会は叔父譲りのサド道の基本。……言ってて何だか虚しくなってきた。

 しかし、その間も僕らはさっきと寸分たがわぬポージングのままでいるわけであり、それだけでも十分なるバカップルぶりではないかと思うのは、僕だけであろうか。

「……夕霞さん、そろそろ放してくれませんか」

もらいたいのは、私のほうなんだけど」

 はあ? まさか、僕のいたずらなおててがあるじの知らぬ間に、何か粗相をいたしましたのでしょうか。何分思春期の気の迷いであり何と言っても初犯でありますので、ここは事を荒立てることなくつとめて穏便に──


「いつになったら、くれるの。私はずっと待っているのに」


 僕が架空の鉄道警察隊に言い訳を考案している間に、真剣きわまる表情へとモードチェンジした美人編集者が、こちらの秘め続けてきた『核心』のど真ん中を、何のためらいもなく突いてきた。

 ……こうもあっさりと、見抜かれていたとはね。

 たしかに彼女には聞きたいことがある。それもたった一つだけ。


 ──僕の叔父は、どんな人だったのですか。まだ年若い少年を虐待するような人だったのでしょうか──。


 しかしそのたった一言が、どうしても僕の声帯をふるわすことができなかった。

 そんなことを聞いておいて、もし彼女が何も知らなかったならば、余計な波風を立てることになってしまうだけである。その結果叔父の作家生命が地に墮ちてしまうことすら、大いにあり得るのだ。

 だが僕にとってより恐ろしいのは、むしろ彼女がすべてを知っていて、それを包み隠さず僕に教えてくれることのほうなのかもしれなかった。

 今想像している叔父の悪事の数々が紛れもない事実であり、それを他人の口から細大漏らさず知らされること。近しい血を引く者にとって、これほどの羞恥きわまる拷問が他にあるだろうか。


 それでも逃げてばかりはおられない。いかなる秘め事もいずれ白日の下に晒される運命にあるのだ。


 ──ミステリィ小説が終わる前に、解き明かされない謎などあり得ないように。


 だったらむしろ覚悟を決めて、こちらから当たって砕け散るのも一興であろう。

「夕霞さん、お聞きしたいことがあります」

「なあに?」


 叔父は、綿津見潮は本当は──「あの岩壁の奥の洞窟の中って、宝物庫かなんかに使われているんですかねえ」


 このへたれ野郎を、存分にお笑いください。

 一瞬怪訝な顔をしながらも「うーん、違うんじゃないの」と、彼女は律義にも答えてくれた。

「たしか聞いたところだと、何か食糧保存庫として使っているみたいよ」

「食糧保存庫?」

「ええ。あれってかなり奥まで続いているし地下水も流れ込んでいるから、たしか『氷室』とかいう天然の冷蔵庫だか冷凍庫だかになっているんですって」

「へえー。それにしてはあんな鉄製の頑丈そうな扉をつけたり、昼間だけみたいだけどああして番人をおいたりして、いかにも仰々しい感じですよね」

「何言っているのよ。こんな人里離れた山の中に住んでいるんだから、食糧こそがどんな金銀パール・プレゼントなんかよりも勝る、大切な宝物であって当然じゃないの!」

 たまにだけど、金銀に必ずパールって付ける人がいるが、なぜなんだ? もっと若者にもわかるジョークの採用をお願いしたいところである。

 しかし、食糧庫か。まあたしかに、人が『生きていく』ためには、何よりも大切だよな。

 だがこれで一つ、ここが『不老不死の人魚村』である可能性が消えたってわけだ。

 でなければ『ミイラ化した人魚の死骸』あたりを極秘に保存している、宝物庫等があってしかるべきだろう。残念だったね、許斐このみさん。

「さあ、もうすぐ日も暮れることだし、母屋に戻りましょう。今日も祝宴よ」

「それにしてもこんな山の中で、よくあんなに豪勢なごちそうの材料が尽きませんよね」

「だからこそあれだけの大きな食糧庫をつくって、大切に保存しているんじゃない。それに今日もヘリで補給が来ていたしね」

 ああ、そういえばそうだったな。


 というわけでそれ以上深く考えることもなく、僕は夕霞嬢にならって踵を返した。

 何せ元々語り得なかった本題代わりの、暇つぶしの質問に過ぎないのだしね。


 ──しかし、このときの会話にとても大切な意味がいくつも秘められていたことを、時を移さず痛烈に思い知らされることになるのであった。

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