第二章、その八

 その言葉があまりにも衝撃的だったのか。それとも思い当たる節が山ほどあるのか。あの『壊れた暴走おしゃべりスピーカー』である許斐このみ氏が、口をあんぐりと開けて静止してしまった。つうか、本当に壊れていたりして。


 しんと静まり返った中で、一人だけ場違いにも妖精のように見目麗しい少年が、肉を咀嚼している音が響き渡っている。……大物すぎるぜこいつ。少しは空気を読んでくれよ。


「許斐さん、許斐さん」

 くいくいと評論家の袖口を引っ張る、『休職中の刑事』さん。

「うん、ああ、何ですか?」

「違うんですよ」

「は、何がですか?」

「大変申しにくいんですけど、あなたがさっきやっていた敬礼のことなんですが」

「へ?」

「あれはあくまでも例外的な敬礼方法にすぎないのです。ただしこれこそがいわゆる『制服警察官が屋外で行うときの敬礼』であるがために、最も一般国民の皆さんの目にとまることが多かったので、いつの間にか警察の代表的な敬礼方法であるとして、誤認されてしまっているわけなんですよ」

「れ、例外的ですってえ? それじゃ一般的な警察官の敬礼というのは、いったいどういうものなんですか⁉」

「おじぎですよ」

「はああ?」


「我々日本人の礼式は基本的におじぎに決まっているのです。それは一般公務員であろうとも公安職である警察官であろうとも変わりません。一般的には斜め四十五度に頭を傾けるアレですよ。でもそれだと制帽着用時の制服警察官では具合が悪くなってしまいますでしょう? お偉いさんに挨拶するたびにいちいち帽子を落としたり拾ったりしていては、単なる時代遅れのコントになっちゃいますからね。だから制服警察官が制帽を着用する屋外に限ってのみ、あくまでもである『挙手の礼』が、例外的に特例的に認められているのにすぎないのです。それ以外は制帽を着用しない我々私服警察官はもとより、屋内においては制帽を脱ぐことが定められている制服警察官においても、おじぎこそが正式な敬礼であるのです」


「おじぎが敬礼って……そ、そんな」

 お。とうとう許斐氏ったら、アイデンティティーの崩壊か?

「いや待てよ!」

 あ、持ち直しやがった。

「そうですよ、テレビですよ。いいでしょう久我山くがやま夕霞ゆうかさん。私はたしかにテレビで、私服警察官が挙手の礼をやっているのをました。だけどそれのどこが悪いのです。テレビなんてみんな視ているじゃないですか。ええ、私はこの敬礼をテレビの中で視ましたとも。間違いなく私服警察官が挙手の礼を行っているところをね。ということは、やっぱり私のほうが正しいということじゃないですか。あなたはテレビで放送されていることが間違っているとでも言うのですか? 仮に間違っていたとしても警察関係者が何人も視ている中で、何十年も訂正されずにきたとでも言いたいわけなんですか⁉」

 おお、すごい。自分に対する二つの否定意見をうまく掛け合わせることによって、持論の正当化へと昇華させるなんて。さすがはオタク評論家。詭弁のプロ。


「ええ、そうですよ」


「ひょへー⁉」

 おいおい夕霞さん、あなたには怖いものは無いんですか?


「ミステリィ関係者にとってテレビや映画の刑事ドラマこそが、あなた自身が先ほど例に挙げた歴史小説界における坂本竜馬像に対する共通認識である、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』に当たるのです。すなわち今さらいくら正しいからといって、『その敬礼は間違っていますよ』とか、『非番は警視庁が三十年前に四交代制を導入してからは警察官にとって休日のことでは無くなっているんですよ』とか、『私服捜査官とはいえ警察官が勤務を終えた帰り道とかに毎日警務課に返還が義務づけられている警察手帳を携帯していることはあり得ないんですよ』とか言い出しても、誰にも相手にしてもらえないし、それこそ小説に書くなんてことは言語道断の蛮勇なのです。なぜなら今あなたが主張しようとしたように、『テレビこそが正しい』のですから。つまりこういうことなのです。すべてのミステリィが、犯罪小説が、そして何よりもリアルさこそを売り物にしている警察小説が、実は『実在の警察官』なんかではなく、フィクションであり面白おかしく誇張されると同時に単純にステレオタイプ化された、『テレビの国のおまわりさん』を基本的モデルとしていて、それにつけ加えてこれまで何十年にもわたってあくまでも『ミステリィ小説にとって都合のいい警察官』像を重ね合わせてきたものだから、どんどんと現実から離れていき収拾がつかなくなって、ほとんどファンタジーな産物と成り果ててしまっているのです」


 まあ、ねえ。どだい土壌も気風もまったく違う英米作品をそのまま持ち込んできて、日本の推理小説は生まれたんだ。基本的に浮世離れしちゃうのも無理ないのかもねえ。


「思い出した!」


 何をですかいきなり、許斐さん。

「久我山夕霞さん、あなたは二年ばかりの間、警視庁に心理職として勤務なさっていたことがお有りだったでしょう。たしか何かの本のエッセイ等の経歴欄にそう書いてあったはずだ。そうか、そういうことか。そりゃあ現場を知っているなら、何とでも言えるでしょうな。面白い。そういうことならばぐだぐだ人の揚げ足ばかり取っていないで、あなた自身が警察小説を書けばいいじゃないですか。それこそ現場の人間の目による、本当にリアルきわまる実録小説をね」

 あれ、『実録』と『小説』って、意味が相反しているんじゃないのか?


「御免こうむります。誰があんな面白くも何ともない不愉快なお役所のことを、小説なんかにしたりするものですか。実態を知っているからこそ、書く気がしないってこともあるのですよ。だいたい単なるお役所機構にすぎない警察社会を題材にするから、おかしくなるのです。組織の歯車である警察官なんかを小説の主人公にしようとするから、無理が生じてくるのですよ。ちょっと女性にも受けるようなソフトタッチの刑事ドラマが書きたいもんだから、無理やり『子供想いの休職中の刑事』なんてのを勝手に生み出してしまうし。東大出で頭が良くて国家上級公務員で権力も持っているから何でもありの小説が書けるぞと、単なる学閥人脈の中の一部品にすぎないキャリア官僚を、『時には主人公にとって心強い味方、時には最終ステージで立ちふさがるラスボス』などと都合よく使い回そうとするし。無意識のうちにテレビの知識や英米の作品や諸先輩方の警察官像を下敷きにしているくせに、『やあやあ我こそは本当にリアルな警察小説だぞ』なんてのが流行はやったりするし。結局フィクションにすぎないミステリィ小説の中で、元から認識が狂っていた警察像をあれこれ手を入れてさらにどんどんと変形させていくものだから、完全に収拾がつかなくなって、誰も本当の警察像を知らないか、もしくは知っていてもけっして口にできない有り様と成り果ててしまっているのよ。──たとえば、ここにお揃いの皆さんのようにね」


「うっ」と言葉をつまらせて、夕霞嬢の視線から逃れるようにうつむく、ミステリィ関係者のお歴々。


「どうかしら『休職中の刑事』さん、もう一度警察手帳を見せてくれないかしら」

「あ、いえ、休職を申告した日にちゃんと、警務課のほうに提出しましたので……」


「『自称私立探偵』さん、浮気調査と迷い猫探し以外に、何か変わった仕事はあったかしら」

「う、浮気調査だって、立派な仕事なんだぞ!」


「『自称NY帰りのハードボイルド』さん、何でそんなにむだに偉そうなんですか」

「偉そうにするのが、『おやじロマンス』の世界なんだ!」


「某大学『本格推理小説同好会』の皆さん、このロックンロール全盛の世でクラッシック派を気取るような、時代錯誤の選民意識は楽しいですか」

「なんでやねん、ミステリィは本格以外はクズに決まっているんや!」

「そうや、お約束最高!」

「タイガース命!」

「ワセダやケイオウとかの私学の東京もんには負けへんで。日本の大学ナンバー2はわいらや」

 ……二位に甘んじていて満足なのか。


「ネットの『ミステリィ掲示板管理人』さん、有象無象──いや失礼、不特定多数が集まるインターネットでは、先ほど私が申しましたようなミステリィにおける警察像の瑕疵に関する意見は、まったく無かったのですか」

「ネットではとにかく面白おかしく、誹謗中傷と流言飛語をやってればいいのだ☆ 何せ匿名と検閲不在の無法地帯だからな。キシシシシシ♡」


「『自称第四十五代阿倍清明』さんに『サバゲー・マニア』さん、あなたたちはなぜこの場にいるんですか」

「なんの、まだまだ『清明ブーム』は続いていきますぞ!」

「ふふふふふ。これも一つの伏線てことで」

 お、ようやくミステリィ的な言葉が出た。だけどよりによってそれが、『サバゲー』なお人の発言だなんて。


 しかし何なんだ、あまりにもうさん臭すぎるこの顔ぶれは。こんな奴らとこれから数ヶ月も一緒に暮らすなんて、何だか頭が痛くなってきたよ。

 第一、今紹介で聞いたようにあくまでもミステリィ関係者のくせに、何で『人魚愛好会』なんかを作って、わざわざこんな山奥の隠れ里なんぞにやってきているんだろう。


『我々ミステリィ関係者のいるところ、常に必ず大事件が発生し、我々が追い求めるからこそ、謎がむこうから勝手に引き寄せられてくるのです!』


 不意に脳裏に蘇ったのは、電波評論家野郎のいかにも自信に満ちたたわ言であった。

 ……まさか、ねえ。


「──まあまあ皆さん、お話し合いはその辺にして、せっかくのお酒やお料理のほうもじっくりと堪能なさってくださいな。とにかくこれから数ヶ月間、我々はこの隠れ里の中で暮らしていく言わば運命共同体。何はともあれ仲良くして参りましょう」


 例の女中さんの代表格らしき女性が、すっかり白けきってしまったこの場を何とか盛り上げようと、デフォルトの笑顔を振りまき、招待客の幾人かも再び杯をくみ交わし始めた。


 しかし、艶然と微笑む美人編集者の前では苦虫を噛みつぶしたような顔の評論家が睨みつけているし、休職中の刑事さんはすっかりしおれてしまっているし、自称私立探偵や固ゆでハード・ボイルド野郎は場を無視しておやじロマンスの世界を作り上げているし、本格推理小説同好会にミステリィ掲示板管理人と自称第四十五代(これで計算あっているのか?)阿倍清明やサバゲー・マニアは何やらオタク論議に花を咲かしているしで、何だかどことなく嵐の前の静けさのようなものをひしひしと感じてしまうのは、僕の気のせいにすぎないのであろうか。

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