人魚の声が聞こえない

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第一章、ウラシマの少年(ロスト・チルドレン)。

第一章、プロローグ&本文(丸ごと全部)

 ──美しい夢を、見た。


 煌々と輝く満月の夜空のもと。俺はあたかも妖精のような少女と、愛を交わし続けている。


 彼女のまるで月の光のようなしろがね色の長い髪の毛が、俺のむきだしの上半身にからみついてくる。

 陶器のように白くすべらかな肌は、あえぐほどに上気していき、彫りが深く端整な顔立ちの中の縦虹彩の玉桂の瞳ルナティック・アイズは、更に妖しい黄金きん色の輝きを増していくのであった。

 小柄で華奢な肢体からだ。いまだあどけなさの残る面持ち。まだまだ十代半ばの年ごろであろうか。


 しかし彼女は眩い月明かりを背に、まるで挑むように燃える業火のごとき瞳で俺を刺し貫き、けしてその愛の営みから逃れることも拒むことも許してはくれなかった。


 俺はもはやすべての道徳観も倫理観も忘れ、その快楽と背徳の海へと溺れていった。


 ──そう。すべての行為が終わった果てに世にも恐ろしい『贖罪』の瞬間ときが、俺を待ちかまえていることを知りながら。 




  一、ウラシマの少年ロスト・チルドレン



「やっふー! みつる君、元気ー?」

 いまだ涼やかなる夏の早朝の静謐なひとときをぶち壊しにしてくれたのは、いつもの豪放磊落なる妙齢のご婦人の大声だった。


 自家用の水上バイクを中洲の上まで乗り上げ、防水加工したポシェットを元気よく振り回している姿が、屋根裏部屋の出窓からもはっきりと見える。

 しかたないので僕は女王様のご機嫌を損ねないようにと、三階分の階段を慌てて駆け降り入口まで出迎えに行った。

「お久しぶりです、夕霞ゆうかさん」

「は〜い、あなたの久我山くがやま夕霞でーす♡ 約一週間のご無沙汰でしたー」

 どこぞのDJですか、あなたは。それからその歳で『♡マーク』はやめなさい。

「……満君、まさかとは思うけど、いま心の中で私のこと、いい歳してだとか何ブリッコしているんだとか「──思っていません! 天地神明に誓いましても。けっして!」

 これだから気が抜けないんだよな、この女王様は。特に二十代後半の女性は若作りに躍起になる一方で、妙に勘が鋭いんだから始末に負えないよ。

「ふにゅひひひ。困ってる困ってる」

「──わっ、ちょっと。夕霞さん、やめてください!」

 謎の不気味な含み笑いとともに、その女性はいきなり抱きついてきやがりなさった。小柄で細身の体には反則級の巨乳に頭部全体が包み込まれ、完全に視界をふさがれる。

 や、柔らけえー。しかもいい匂いー。

「う〜ん。満くんってばラブリ〜♡」

 あ、こら。頬ずりするな。人の髪の毛を口にくわえこむんじゃねえ。

 必死に身をよじってあらがい続け、なんとか即席暴走ふれ合いパークから脱出を果たし、名残惜しそうにしているお姉様から数歩距離を置く。

「何をするんですかいきなり、思春期まっただ中の十七歳の少年に対して!」

「えええっ。だって、綿津見わたつみ先生だったら、いつも喜んでくれたのよお。この挨拶で」

 どこの国の何という部族の挨拶なんですか。ていうか、叔父さんにもやっていたのかよ、これ。まさかとは思うが、小説家と担当編集者の間で流行っているんじゃないだろうな。


 そうなのである。この目の前の見目麗しくどこか頭のねじが規格外品的に緩んでいそうな女性は、人もうらやむバリバリのキャリア・ウーマン(死語)で、この運河の中洲にぽつんと建てられた一軒家の掘っ立て小屋(いや失礼)アンティークな三階建ての邸宅の家主であり僕の保護者、ミステリィ小説家の叔父綿津見わたつみうしおの担当編集者なのだった。


「ああ、つかれたつかれた。お茶はオレンジペコかアールグレーのミルクチィーでよろしくてよん」

「……はいはい」

 勧めもしないのに一階のリビングのソファへとどっかと腰をおろし、その長くほっそりとしたおみ脚をぞんざいに組む女王様。お年ごろの男の子の家を訪ねるには少々フェロモンきき過ぎのタイトミニのスーツからこぼれ出るセクシー・サービスが、何とも目のやり場に困ったちゃんなのであった。

 まあ、勝手知ったるなんとやらだ。それにこういったざっくばらんで気が置けない関係のほうが、こっちも肩が凝らずに助かるしね。

「どう、そろそろ慣れたかしら。ここでの一人暮らし」

 嫌味の意味を込めてわざとうやうやしく手渡したカップをさも鷹揚に受け取りながら、まるで世間話を始めるように何気なく『病み上がりの少年』の問診を始める夕霞嬢。赤茶のベリーショートの前髪の下で勝ち気な黒目が、いつも通りにいたずらっぽく揺れていた。

「……はあ、まあ。でもまだ何だか実感がわかないんですよね。ここで僕が誰かと一緒に暮らしていただなんて」

「ふ〜ん、そういうものかしらねえ。かといって、焦ってみたところでしかたないしね」

「ええ。お医者さん連中にも、そう言われていますし。何せ身体的にも心因的にもまったく原因不明だそうですから」

「しかし記憶喪失になるなんてねー。やっぱ現実は小説より奇なりなのねー。さすがはミステリィ小説家の甥御さん。二時間サスペンスを地でいってらっしゃる。だけど、何でこんなときに失踪なんかするのかね、綿津見先生ったら。これほど格好な小説の題材が目の前にあるのに、もったいないったらありゃしない」

「あはははは」

 ……本気じゃとても笑えねえよ、そのジョーク。

 まあ、いまだ僕自身とて信じられないんだからなあ。自分が記憶喪失なんかになっちまうなんて。

 おかしいな。別に僕は動物愛護精神にあふれた漁師でも、NYで探偵業を営むついでに悪魔と契約を結んだ固ゆでハード・ボイルド野郎でもないんだけれど。


 ──そう。それはあまりにも、唐突なる出来事であったのだ。


 ……いや、カッコつけて煽ってみたけれど、それまでの記憶が一切合切なくなっているわけだから、『唐突』なのは当然なんだけどね。

 何というか、まるでほんの一ページ前には何も存在しなかった白紙の物語の中に、いきなり放り込まれて登場人物になってしまったって感じなんだよね。もしかしたら小説の中の『主人公』って、みんなこんな気持ちでスタートを切っているのかな。

 とにかくその日の目覚めは、自分史上最悪であった──というか、有史以前が既に発掘不能の状態になっていたわけなのである。もはや新たに生み落とされたにも等しいそのときの僕には、時間に身を任せるすべも抗う理由すらも持ち合わしてはいなかったのだ。


 何せふと気がついたら、この人里離れた運河の中洲にぽつんと建てられた、酔狂きわまりない西欧風の石造りの家の屋根裏部屋のベッドの上に寝ていたわけなのである。そう、それ以上もそれ以下もなく。見渡すかぎりいかなる質問に応じてくれそうな人影もなく。


 特に絶望的なのは、その立地条件であった。

 よりによって、周囲には人っ子一人住んでいない河口近くの幅広な運河の中にたたずんでいる、孤高きわまりない一軒家なんて、ただでさえ心身共に前後不覚で心細いのに、この展開はあまりにもレ・ミゼラブルすぎた。本気で自分のことを狡猾な左大臣に陥れられた平安貴族か、フランス革命に失敗した軍人皇帝の生まれ変わりかと思いかけたところである。

 幸いこんな場所にもかかわらず電気ガス水道は完備されており、冷蔵庫等にも食糧が結構蓄えられていたので、当面の生命維持には問題はなく落ち着きを取り戻したものの、やはり通じていた電話で辛くも覚えていた『110番』にかけてはみたが、何をどう説明したらいいか皆目見当もつかず、結局ほとんど相手にされないまま通話を切らざるを得ず、公共機関からの救援を期待することは不可能とあいなったわけである。


 それから一週間後。まさに食糧も尽きんとしたとき颯爽と現れなさったのが、誰あろう我らが久我山夕霞嬢なのだった。


 最近連絡の途絶えてしまっていたこの家の家主であり僕の保護者であった、彼女の担当の小説家である叔父に直接面会するために押しかけてきたわけだが、幸いにも僕とも面識があって先ほどのように気安く『やっふー! 満君、元気ー? 綿津見先生は御在宅かしらん』などと年齢不相応のバカっぽい挨拶をかけてきたので、こちらも遠慮なく泡を食って、この『空白のドラマ』の舞台設定を問い詰めさせていただいたわけである。

 どうやら彼女とはいわゆる『家族ぐるみのおつきあい』をさせていただいていたらしく、こちらの窮状にも最大限に親身になって対応してもらえ、すぐさま都心部の総合病院へと連れて行ってもらい、診察や精密検査を受けさせてくれた。

 しかし、医師の見立ては思った以上にはかばかしくはなく、僕の現在の症状を正式に『記憶喪失』と診断してはくれたものの、その原因と治療方法については皆目見当がつかないということであった。これではむしろ、状況は何も改善されなかったとも言える。

 しかも運の悪いことは重なるもので、どうやら叔父のほうもそのまま完全に行方しれずとなったようで、正式に失踪扱いとして警察に受理されてしまったとのことであった。

 彼以外身寄りのないらしい僕は、本来ならこのまま入院でもするか、どこか公共の施設にでも預けられるはずだったのだが、ほかならぬ夕霞嬢が一時的な身元引受人を名乗り上げてくれて、こうしてその御好意に甘えることにしたわけである。

 何と言ってもこんな不安定な状態におかれているのだから、一人でも今までの自分のことを知っている人が側近くにいてくれたほうが、何かと心強いしね。

 もちろん、彼女が若くて美人で親切だというのも高ポイントではあったけど、実はそれはそれでいろいろと問題があったりして……。


「まあ、あまりじたばたせずに気長にかまえるほうがいいかもね。それにここは何と言っても、ミステリィ界にその人有りと言われた綿津見先生の御自宅なんですもの。御本人の著作を始め古今東西の推理小説の蔵書には事欠かないんだから、暇にあかして手当たり次第に読んでみてはどうかしら。先人の知恵って結構あなどれないものがあるそうよ。どこかに失った記憶を取り戻すヒントが隠されていたりして」


 こら待て、この凄腕美人編集者めが。人が長々と回想にふけっている隙に、いつの間にそんなシナリオを決めたんだよ。それってもしかしなくても、記憶を失った小説家が自分の著作や日記を頼りに事件を解決していくという、いかにも手垢まみれで洗浄剤五割増しの三文小説の常套手段でしょうが。人を勝手にフィクションの登場人物に祭り上げようとしないでください。

「いや、暇にあかしてって言ったって。そういえば僕って、学校なんかはどうしていたんです。まさか高校に行っていなかったとでも言うんじゃないでしょうね」

 今流行っているからねえ。方違えとか物忌みとか安倍あべの晴明せいめい様のお告げがあったからとか言って、朝廷に出仕するの拒否するのって。……あれ、これって時代設定が違ったっけ。

 うう〜ん。自分で言うのも何だが、僕って、ニートとか登校拒否とかをするおセンチさんではないようなんだがなあ。でも意外と記憶喪失の前と後とでは、キャラクターの性格が全然違っていることもあるらしいからねえ。(←三文小説案、ただ今も検討続行中)

「何よ、学校なんてまじめくさったことを言い出して。満君らしくもない。せっかく神様がくれた夏休みのようなものなんだから、もっと気楽に楽しんだら?」

 何が『神様がくれた夏休み』だ。今度は二昔前に流行った、地方都市を舞台にした『三流日本映画』でも上映するつもりか。

 ……ていうか、『満君らしくもない』って。僕っていったい、どんな奴だったんだよ。

「そんなことよりもさあ、満君て最近何か変わった夢を見たりはしていないかな。何度も同じ夢を見るとか。何とも突拍子もない展開の連続で驚いたとか。なぜか見ず知らずの女の子が出てきて、自分のことを恨めしげに見つめていたとか」

 何ですかいきなり。それに最後の例にはどんな含みがあるのでしょうか。

「たとえばさ、今朝方はどんな夢を見ていたか覚えていたら、概略でいいから教えてよ。夢ってのは案外、自分の過去や深層心理を解く鍵にもなるそうよ」

 うっ、それはちょっと。まさか『夜空のもとで月の妖精のような美少女と××チョメチョメしていました』なんて、とても言えないからなあ。

「いやあ。今朝見たばかりの夢とはいえ、起きてみたらすっかりど忘れしてしまいまして。これも記憶喪失の影響ですかねえ。あはははは」

「……あらそう。それは残念ねえ」

 しかし、相手は何と言っても嘘つきの常習犯の小説家の二枚舌を見抜くことのエキスパート、『編集さん』なのである。今一つ納得してくださっていない疑惑の視線が痛すぎる。ここは無難にとっとと話題を変えるのが吉であろう。

「ところで、三日ほど前にやけにぶ厚い封書が届いたんですが、あれって何ですか?」

「あ、さっそく使ってくれたかしら、私の最新水着写真集。夜のお供にピッタリでしょ♡」

 ──はあ?

「そうそう、すっかり忘れていたわ。今日もお土産があるのよ。はいこれ、わが社のヴィジュアル部門が出したAV女優の写真集。で、こっちはS宿区二丁目で仕入れてきた裏DVD。あら、ブルー・レイのほうが良かったかしら」

 おいおいおいおい「心配しなくても、私のSEXY写真も入っているわよ」違うって。

「そんな僕の絶賛独占生中継中の身の下相談コーナーに、勝手に視聴者プレゼントをしてくださらなくても結構です!」

「ええっ? おかしいわね。綿津見先生の御趣味に合わせて、厳選素材を吟味したはずなのに。ひょっとして年齢層に問題が。でもその歳でロリって「──うわわわあっ。不穏当な発言は、厳に慎んでください!」

 別に叔父と甥だからって、その手の趣味が同じとは限らないだろ。いや、そんなことは問題じゃない。

 ──前言撤回。いくら気が置けない間柄だって、これじゃ人のプライバシーに首を突っ込み過ぎだよ。あんたは思春期の息子の部屋のお宝探しが趣味の母親かよ。

「ふ〜ん、面白くないわねえ。もしかしてそれこそ叔父さんのご本でも読んで、間に合わせているのかしらねえ」

 うっ、たしかに。一応彼の作品は全部ミステリィ小説にカテゴライズされているらしいんだけど、何だかどの作品もえも言えず幻想的で、どことなく耽美っつうか、きわどいほどのエロさ加減なんだよなあ。だいたいあの変な夢を何度も見るのも、叔父の作品を読んでいた影響だったりして。


『夢は、過去や深層心理を解く鍵』か。決まって満月の夜に訪れるあの少女の夢は、過去をすべて失ったこの哀れなる少年に、いったい何を語りかけようとしているんだろうねえ。


 ……案外ただの、『欲求不満』だったりして。

「とにかくこの件に関しましては、夕霞さんには御心配していただかなくてもまったく結構ですので。第一普段からこんなにもお世話になっているのですから、これ以上というかこれ以下というか、下ネタまでお世話してくださらなくてもよろしいかと存じます。ていうか、僕の生活費とかその他の諸経費とかは、いったいどうなっているんです。ご厄介になり始めて一年近く経つし、すでに結構な金額になっているのでは。まさか会社の経費から出してくれているわけでもないんでしょ?」

「まったく、細かいんだから。満君てば〜」

 ……だから、人の頭を気安く撫でないでくださいってば。

「そんなことは心配しなくてもいいのよ。何せ私と綿津見先生との仲なんですもの」

「はあ」

 いったいどんな関係だったんだよ。単なる作家と編集者ではなく、たとえば『不倫関係』とか『NTR関係』だったとか?

「お金のほうも、既刊本の絶賛順調増刷分の印税やこれからの原稿料の前渡しと思えば安いものよ。何せ当代きっての人気ミステリィ作家の綿津見大先生ですからね〜♡ しかも先生の著作の文庫化については、すでに我が『海神別荘かいじんべっそう書房』と独占契約を締結したことだし。これからの長く良好な関係を築いていくことを考えれば、甥御さんの一人や二人のお世話なんて安いものよ〜」

 いや、甥は僕一人しかいないんですけど。

 しかし『海神別荘』ねえ。言わずと知れた『いずみ鏡花きょうか』の名戯曲の題名だけど、またしても『浦島太郎』と関連有りか。やけに符牒が重複するよな。何だか意味深な展開になってきたよなあ。──ていうか、

「海神って、もしかして」

「あら、わかった? これって『わたつみ』とも読めるわよね。うふふふふ。実はうちの会社って、綿津見先生が著作権を手元で管理するためにご自分で設立した会社なの。それで私も単なる彼の編集者だけではなく、共同経営者としても名を連ねていたりしてね」

 な、何ですってえー。

「だから私が満君の身元引受人になる意義は大いにあるわけ。万が一にも綿津見先生に何かあった場合は、うちの会社のだけでなく先生のすべての著作権が原則あなたに引き継がれることになるんですからね。下手に目を離している隙にどこぞの変な出版社なんかに、せっかくの『宝の島』を横取りされてなるものですか!」

 それを言うなら、『宝の山』だろ。だんだんと(主にミステリィ関係の)業界ギャグが苦しくなってきたぞ。

「それにめでたく先生が職場復帰された暁には、しっかり『ドキッ二十四時間密着☆実録失踪日記』を書いてもらうつもりですからね」

 うわっ、商魂たくまし過ぎ。

「もちろん満君にも、『ドキッ美人編集者と愛の闘病日記♡』を書いてもらう予定よ」

 げっ、僕もかよ。

「夕霞さんは共同経営者としてはむしろ、編集者よりも財務担当者のほうが向いている御様子ですね」


「あら。たとえ自分の不幸だろうが他人の不幸だろうが、ネタにして小説を書いて『食い物』にしていくのが、作家でありそれを支える編集者の宿業なのよ。うちの業界では綿津見先生が通ったあとには、ぺんぺん草も居残り残業を放棄して逃げ出してしまうとさえ讃えられているんだから。さすがよね」


 ……貶されてんだろ、それって。

「しかも、渡り歩いた女性はすべて『おめでた』な結果をもたらすという、ゴルゴダの丘の眉毛さんも顔負けの名ヒットマンぶりだしね」

 おいおいおいおいおいおいおいおいおい。

「──まあ、冗談はこのくらいにして」

 おいっ!

「話がうまくつながったようだから、いよいよ本題に入るわね」

「……すると、今までのはいったい何だったんですか」

 いい加減にしないと、適当に読み飛ばされてしまいますよ──と、ただ今『並行世界』から、緊急の業務連絡が入りました。

「満君」

「はい?」

 何だよ、いきなりまじめくさった目つきになって。

「これから私と一緒に、旅に出ない?」

 はあ?

「まさか僕らも叔父さんのあとを追って、木曽路きそじの果ての湯煙に消えるという二時間サスペンスな展開を⁉」

「んな、わけがないでしょ」

 ……ごもっともです。

「──会って欲しい人が、いるの」

 そのとき私の進退はきわまった。いつかその言葉を彼女の薔薇の蕾のような唇から紡ぎ出されることは、十分に承知していた。そして早晩御両親の許へと──

「日曜ドラマ劇場、『僕と彼女の結納編』はもういいから」

「あ、すみません」

 あきれたように頬を膨らませ二酸化炭素を放出する夕霞嬢。う〜ん、それでも微妙に絵にはなっているぞ。美人は得だよな。

 しかし、次なる彼女の台詞を聞いたとたん、僕の陳腐な賛辞の言葉などはオゾン層の果てへと飛び去った。

「落ち着いて聞いてね」

「はい?」

「先生の行方を調べていてわかったの」

 何が。


「綿津見先生は消息を絶つまさに直前に、最後の訪問先である山奥の某隠れ里に住む子供と、養子縁組みをなさっていたらしいのよ」


 な、何ですとー!


          ◇     ◆     ◇


「『人魚の里』で暮らしている、義理の弟、か……」

 その僕のか細い独り言は、大型ヘリの爆音にかき消された。


 はたして深い森の奥で一本の大木が倒れたとき、それを耳にする人間が一人も存在しない場合、たしかにそこに『音』が存在したと言えるであろうか。

 答えは『否』である。人間の有無なぞにかかわりなく自然界には元々、『音』などというものは存在していないのだから。

 あるのはただ空気の震えと大地の振動であり、人間の聴覚器官がそれらをとらえて、脳みそで『音』に変換しているだけなのである。

 つまり元々音声とはまやかしそのものであり、あくまでもその派生物にすぎない言葉や文字を、ただ嘘を弄して人心を乱すために使用してもけして間違っているわけでも非難される行為でもないわけである。

 ……結局、フレドリック=ブラウンのちょっとヤバイめなキ××イ系小説を『引用』してまで何が言いたいかというと、僕でもその気になれば宣伝相ゲッベルスとして独裁帝国を建設できるのだなどと世迷いごとを言ってるのではなく、ただただ何の変化も無さすぎる大空に羽ばたく密室の旅に辟易したあげくの、単なる退屈しのぎなのであった。

 しかし、これはいったいどういう趣向なのだろうか。

 僕は通路を挟んで向かい合って座り始終魅惑めいた微笑みをあたりに振りまいている女性へと向かって、心の念話(電波とも言う)を送信した。

 ──しーきゅーしーきゅー。これはいったい何を目的にした、拷問ショーなのですか。


 現在僕と夕霞ゆうか嬢は、仲良くお空の旅を満喫していた。──ただし、よこあさでしか見かけないような、2ローターの大型ヘリに載せられて。


 当然ファーストでビジネスなクラスの、ゆったりとしたリクライニングシートなぞは無い。窮屈な通路を挟んで壁面に設けられたベンチのような硬いシートに、有無を言わさず腰掛けさせられていた。しかもなぜか両側には天然の特大マッスル・エアバック約二名が、まるで捕獲した宇宙人を連行しているみたいに密着して座っている。まさに今にもコクピットから歴戦の将校機長キャプテンが現れて、極秘の作戦行動を指示し始めかねない雰囲気であった。

 その際流れるBGMは『ニーベルンゲンの指輪』か、はたまた『東京音頭』か。

 一応ヘリコプターの外装には迷彩などは施されてはおらず、色もカーキ色ではなく、両側の強面のお兄さん方(夕霞さんのほうはお姉さま方)も盛夏略装な半袖の軍服などではなく、ごく普通のスーツの上下であったが、この暑いさなかに全身黒ずくめの長袖でネクタイもきっちりと締め、おまけに薄暗い機内なのにサングラスまでしっかりと着装し、むしろうさん臭さの蔓延に多大なる貢献を果たしていた。

 いつの間に僕は、SPがつくほどの重要人物になったのだろうか。


 しかし、僕の目の前でけして微笑の仮面を剥がそうとはしないこの女性は、いったい何者なのだろうか。今さらながらにそんな疑問が生じてきた。


 何せ『旅に出よう』と言われて十分も経たぬ間にだだっぴろい中洲のど真ん中へと、こんな巨大な軍用ヘリもどきが飛来してきたかと思えば、有無を言わさずそのまま大空へと拉致られて、初夏の生気あふれる山々をうんざりするほど眼下に眺めながら、どんどんと太平洋から日本海のほうへと北上して行っているのだ。……このまま某国の国境を越えて行ったりしたらどうしよう。

 知っている人は知っていると思うが、日本の航空事情はあくまでも在日米軍機の通常運用や突発的な訓練飛行を最優先としているので、民間機や警察消防はもとより自衛隊機ですら、自国の空域での飛行活動を自由自在に行うことなど許されてはいないのだ。

 それなのにこれほどの大型の航空機を決められた航路を離れて私的に運用できるなんて、とても一出版社の勤め人のレベルを大きく逸脱していると言わざるを得ないだろう。

 ……まあいいか。今は自分自身が誰であるかすらも、心もとない状況なのだから。むしろこの目の前の妙齢の御婦人だけが、僕にとっては唯一の『頼みの綱』なのである。『毒を食らわば皿までよ』だ。いや、この場合には『呉越同舟』のほうがお似合いかな。


「……しかし、『人魚伝説』の伝わる隠れ里とはねえ」


 たしかに失踪したミステリィ作家が最後に訪ねた場所としては、結構ふさわしい感じもするけど(ただし『うさん臭い』方面にね)。

 かなり歯茎にくる振動に揺れながら僕は、つい数時間前に夕霞嬢と交わしたばかりの会話に思いをはせた。


『「人魚の里」、ですか?』

『ええ、そうよ』

『それって、テーマ『パークとかではありません』

『……はあ』

 弱ったなあ、ファンタジーは苦手なんだよなあ──と、勝手に過去の自分を捏造してみたりして。いやむしろ好きなら好きで、そっちのほうが怖いものがありそうだけど。

『叔父はそんなところに、いったい何をしに』

『決まっているでしょう、次回作の取材のためよ』

 何だ。次は童話でも書く気だったのかな。

『あのねえ、一口にミステリィと言っても、私立探偵と怪盗の活劇譚とか謎めいた館での密室殺人とか戦後日本の変遷を体現したリアルな警察ドラマとか、そんなワンパターンなものばかり扱っているわけじゃないのよ』

『いやでも、人魚とか怪奇現象とかは、たしか禁じ手だったんじゃないかと』

 ……何で記憶喪失であるはずの僕は、こんな瑣末でくだらないことばかり覚えているんだろう。

『いつの時代の話よそれ。今どきそんなこと言ってたら、ちょっと読書好きな中学生からも笑われてしまうわよ。もはや現在のミステリィはジャンルの垣根を飛び越え、あくまで味付け程度とはいえホラーやSF的作品にも門戸を開きつつあるんだから。その一方で昔ながらの本格系が見直されたり、派手なトリックの推理劇なんかよりも警察一家の親子三代記のような人間ドラマが流行したりして、今や百花繚乱の有り様になっているわけなの。某ミステリィ・ランキング誌では投票によって二十位以内に入った作品はすべてミステリィと見なすと公言しているんだけど、選考委員である書評家連中が調子に乗っちゃって面白ければホラーでも不条理SFでもどんどんランキングに入れるものだから、今や何でもアリの状態になっているほどなのよ』

 何だそりゃ、無節操な。いつもは『本格』だ『新本格』だと息巻いているくせに、結局売れればいいのかよ。そんなんだからミステリィは駄目になってしまうのだ。

『とにかくどんな「不思議現象」を持ち込もうとも、最後の最後で探偵役が謎をすべて解き明かして、リアルな世界観に立ち返らせればいいってことなのよ。昔からそうだったでしょ。ホームズにしろ金田一にしろ、題名や序盤はおどろおどろしい作品が多いけど、実際に巨大な魔犬や呪われた悪霊が出てくるわけでもないし。むしろその非日常的設定をいかに日常空間に戻すかが、彼らの腕の見せ所なんじゃないの』

 ああ、たしかにそうだよな。何かそれっていかにも『子供だまし』のような気もするんだけどね。むしろ最初から最後まで何でもアリな日本産のマンガやアニメのほうが、夢があるように思えるのはうがち過ぎか。

『それじゃ、今回の「人魚伝説」ってのも』

『そう。外界とはほぼ完璧に隔絶された山奥の、知る者もほとんどいない隠れ里に伝わる「人魚の一族」だとかと言って、いかにもまことしやかに噂が流れたりしているものだから、もしかしたらと思わず信じ込んじゃう輩が出てきてもおかしくもないんだけど、実際のところはロシア辺りから流れ着いた帰化人の村落で、外見がいかにもそれっぽく異国風なだけってところよ。一応は何だか摩訶不思議な技術も、神殿の巫女だった御先祖様から受け継いではいるみたいなんだけどねえ』

『ふ〜ん、結局はそんなところですか。でも夕霞さん、やけに事情に詳しいですよね』

『当然すべては、綿津見先生の調査による知識の受け売りよ。先生がこの村へと向かう前に、資料を一部読ませていただいていたってわけ。それに里に滞在中も、何度か連絡を受けていたしね』

 それもそうか。そうじゃなかったら、隠れ里の正確な位置もわからないだろうし。第一叔父が失踪前にこの里の人間と養子縁組みをした事実なんて、当然知らなかっただろうし。

 しかし、人魚の里に取材旅行にきた小説家が、村落の宗教的指導者である『巫女姫』の後継者の少年と養子縁組みをして、そのまま忽然と失踪してしまうなんて。何と『事実は小説よりも奇なり』を地で行くドラマチックな展開なんだ。記憶喪失なんか目じゃないではないか。

 その子のお母さんがよほどの美人だったのかな。何やらロシアのほうの血を引いているらしいし。でもそれだと養子縁組みでなく婚姻関係を結ぶはずだよな。二親のいない身よりのない子供を見かねてとか? そんなにヒューマニズムあふれる人だったのかな。あ、そうか。だから僕の保護者にもなってくれていたのか。


「──もうすぐ、着くわよ」


 いつの間にか目と鼻の先で、麗しの御尊顔が微笑んでいた。


 時を忘れ回想にふけって上の空だった僕を見かねて、わざわざ席を立って耳元で大声を出してくれたらしい。……まあそうしないとこの爆音の中では、そもそも会話そのものが成立しないがな。

 夕霞さんが自席に戻って腰を落ち着けるのを待ってから、風防も何もない吹きさらしの窓から下界を見下ろす。

 延々と続いていた緑深き木々の波間がいきなり途切れる。現れ出でたのは大小様々の湖沼群に、それらを取り囲んでいるごつごつとした岩山。何ともエキゾチックな大パノラマの景観だが、本当にここは日本なのか?

 ヘリコプターが減速した。というか、空中で停止状態となる。いわゆるホバリングというやつだ。

 湖から続く断崖絶壁に囲まれた小規模な盆地状の緑地へと向かって、ゆっくりと降下を始める。何やら大きな人家らしきものが見えるが、湖から岩肌をつたい落ちていく流水以外は、交通路に類するものは何も見当たらない。何だか円柱状の谷底に落下していくような錯覚を感じた。


「まさに、完全なる『クローズド・サークル』ね」


 心臓が三センチほど右にずれた。またしても吐息まじりの不意打ちが耳を揺らしたのである。つうか、知らない間に夕霞さんたら、ちゃっかりと僕の横に座っているし。

「くろーずど・さーくる?」

 何ですかその、いかにも宇宙人の知的好奇心をそそりそうな名称は。

「いわゆる『密室状態』にあるということよ。ただし屋内に限らずこの村落のように野外であっても、外界との繋がりが物理的にも心理的にも完璧に遮断されている状態を言うわけ。昨今のミステリィ小説のほぼ七割八割が、これを舞台に事件が起こり謎解きを行っていると言っても過言ではないわ」


 ……それはそれは、何とも幸先のよろしげな幕開けでありますこと。


 今の僕はさしずめ巨大な鉄の亀に乗せられて、竜宮城という未知の異界に連れ込まれようとしている、いにしえのおとぎ話の主人公にでもなったかのような心境であった。


          ◇     ◆     ◇


「……いや、でも、本当に竜宮城だったりして」


 僕の戸惑いをよそにヘリコプターは無事故無違反にてあっけなく、『人魚の里』への着陸を果たしたのだった。


 意外にも盆地自体は結構な専有面積を持ち合わせており、何だか平安貴族の邸宅を思わせる複数のむねからなる広大な館の敷地の他にも緑地や水場に満ちあふれ、大型のヘリコプターが一機余裕で離着陸できる空きスペースも十分確保されていたのだ。

 しかし一番の白眉は、館の住人たちの尋常ならざる見目麗しさであった。

夕霞ゆうか様、お久しぶりでございます」

 完全にヘリコプターが静止するのを待ってから屋敷内よりわらわらと小走りで駆け出してくる、数十名の同じ水色の和服に身を包んだ乙女たち。

 年のころは十代後半から二十代半ばくらいか。透き通るような色白の肌。ほっそりとした華奢な肢体。背中の中ほどまで流し落としている光の加減によっては白にも銀にも青にも見える不思議な煤けた灰色グラファイト・グレーの髪の毛。そして真一文字に切り揃えられた前髪の下で揺れているのは、まるで深い海の底の色のような青灰色ブルー・グレーの瞳。

 話に聞いていたとはいえ一目でわかる日本人離れした容姿に、どこか没個性的であたかも人形のように似通って見える妖しげな雰囲気。しかもこんな人里離れた山奥だというのに、全員が全員うら若き女性ばかり。実はここは狐狸妖怪のたぐいの住み処であると言われても、思わず納得してしまいかねなかった。

「こんにちは、『満月つきさと』の皆様。しばらく御厄介になりますが、何とぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、夕霞様と綿津見わたつみ先生の御親族の方なら大歓迎です。どうぞわが家だと思って御ゆるりと滞在なさってください。お二人の他にも逗留なさってる方々もおられますので、のちほど歓迎の祝宴のおりにでも御紹介いたしまする」

 何だか代表らしき女性と親しげに会話をこなしている夕霞嬢。あれ、彼女はここを訪れたことがあるなんて言ってたっけ。それに他にも逗留客がいるなんて、そんな話は聞いてなかったぞ。

 次々とわき起こってくる疑問に納得のいく回答を提示していただこうと、にこやかに談笑をし続けている夕霞さんのほうへと歩み寄ろうとしたその刹那、斜め前方から僕の胸元に突然何かが勢いよくぶつかってきた。


うしお! 潮! 戻ってきたのじゃな。待ちかねたぞ!」


 あまりの衝撃に呼吸と心臓が止まりかけ、とっさに謎の暴走野郎に対して怒鳴りつけようと口を開きかけたとたん、思わず我が目を疑ってしまった。

 上目づかいにこちらを見つめる、あたかも幼子のようにつぶらな二つの瞳。月の光のようなしろがね色の髪の毛。薄い和服に包まれた陶器のように白くすべらかなる素肌。あどけなさの残る人形みたいな端整な顔立ち。そしておそらく十三、四歳ぐらいの年ごろの小柄で華奢な肢体──。


 その姿はまさに、あの夢の中の妖精みたいな少女そのものであったのだ。


「……君は、いったい……」

 夢とうつつが突然混濁してしまったかのごとく呆然と立ちつくす僕の耳に、夕霞嬢の更なる驚愕の言葉が速達便で届けられる。

「あらあら、うらやましいかぎりの熱烈歓迎ねえ。ちょうどいいからご紹介するわ。この子こそここに来る前に話していた、この麻里布まりふ家直系の唯一ので次期当主にして巫女姫の後継者でもあり、一年前綿津見先生と正式に養子縁組みを交わした、麻里布鞠緒まりお君よ」

 な、何ですとー⁉ こんな妖精みたいな美少女が叔父さんの養子だってえ? いや、男児って言うからにはこれでも男の子なの? いったいぜんたいどういうことなんだ、これは⁉


 ──叔父さんてば、僕の知らないところで、何やっていたんだよ!


 そんな大混乱に陥った僕の心境なぞにかかわりなく、その『少年』は天使のような満面の笑みを浮かべたまま、僕の胸元にすがりつき続けていたのである。

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