第2話 何者でもない迷い人

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 日本の北端。北海道、稚内市近郊。

 郊外にある大型商業施設から隣り町へ向かう直線道路を、一台の古ぼけたファミリーカーが走っていた。

 晩秋の北海道は日没が早く。雪化粧をされた広大な牧草地帯が、闇の中で寂しく光る車のヘッドライトを反射している。

「――JRとシベリア鉄道の合流に続き、稚内とサハリンを繋ぐ天然ガスのパイプライン建設工事も順調に進んでおり、来年8月ごろには――」

「はーいはい。またロシア様さまさまなのね」

 助手席にいる児童養護施設職員の赤平尊文あかひら たかふみは、少しノイズの混じったカーラジオから聞こえるニュースに愚痴をこぼした。

「『さま』付け過ぎだし、ニュースに文句垂れるなよ。ロシアのおかげで好景気なのは事実だろ?」

 運転中の園長、大林真史    まさしは、話を軽く受け流そうとする。彼らは買い出しから施設へ帰る途中だった。

 五年前にサハリン島と北海道を直結する「宗谷トンネル」が開通したおかげで、ここ道北圏の経済は潤っていた。

 サハリンとロシア本土もトンネルで繋がったので、日本からシベリア鉄道経由で欧州まで行く事が可能となり、EUからの観光客も増加している。

 土木技術的には、サハリン島と稚内を海底トンネルで繋ぐこと自体は比較的容易だった。事実その距離は、イギリスとフランスを結ぶユーロトンネルよりも短い。費用対効果や建設にかかるコストの分担比も課題ではあったが、主な障害はロシアと日本の関係であり、つまりは領土問題だった。

「なーんで政府は妥協しちまったんですかねぇ。北方領土で。ロシアが極東地域の経済活性化させる為に、北方領土をエサにして鉄道の建設費負担させる魂胆なんて見え見えだったじゃないですか」

「でもそのおかげで、過疎地域の鉄道が廃線にならずに済んだんだろ? 稚内も網走も他の中小都市も、充分な恩恵は受けてるさ」

「田舎の汽車の駅が二、三個ブッ潰れたって、どってことねぇべや! ……って、僕は思いますけどね。北海道は車社会ですし」

 「汽車」とは北海道弁でJR線のことを指すが、赤平は特に意識せず使っている。彼の若者らしからぬなまりは、大学卒業後しばらくの間東京で働いていた大林には、懐かしく心地よい響きだった。

「それに網走が栄え出したのは『カジノ法案』の成立もデカいじゃないっすか。アソコと夕張は今や一大カジノシティだし。ロシアだけのおかげじゃないっすよ。歯舞はぼまい色丹しこたんの二島は『共同統治』で、国後くなしり択捉えとろふは『協議継続』だなんて、なんとも曖昧でうやむやでなぁなぁでモヤモヤしません?」

 まだ二十代前半のわりには、赤平は政治への関心が高く愛国心も強い。発言が過激で言葉遣いも悪いが、そんな熱い若者を大林は嫌いではなかった。

「まぁ北方領土については、弱腰の外務省にしては頑張った方だよ。ロシアとしては、アメリカの同盟国である日本にオホーツク海への入り口を明け渡すのは、核ミサイル攻撃を防ぐ上で死活問題なわけだし。『協議継続』にしただけで歴史的快挙だよ」

「――近年の北方領土返還交渉に関するロシアの態度軟化は、政治的対立が続くEU諸国に代わる天然ガス輸出先として、日本と友好関係を深めようとしていることも関係し――」

 カーラジオが丁度良いタイミングで、大林の説明を捕捉する。

 北海道の雄大な田舎道。片側一車線の直線道路を走るミニバンの前後には、他に車の姿はない。道路上に積もった雪は車の往来で押し潰され、圧雪アイスバーンとなっていた。

「いやでも、せっかくロシアも中露共同軍事演習を中止するくらい、中国の領土拡大政策を警戒して妥協してるし、ここは一気に四島…………危ないっ!」

 赤平の声に反応して、大林は急ブレーキを踏む。

 車の前方を、白い「何か」が横切ったのだ。

 凍結した路面でスリップした車がドリフトする。遠心力で体は振り回され、シートベルトが胸に食い込んだ。アンチブレーキロックシステム作動し、大林の足にペダルからゴリゴリと感触が伝わる。そのせいでブレーキは機能しないが、タイヤが空転していても車体を制御し続ける事はできた。

 大林は道路から外れないよう必死でハンドルを回す。周りには牧草地しかないはずだが、万が一大きな木や防風柵にでも衝突すれば、二人とも死にかねない。

 しばらくして、二回転した車の後部がガードレールにぶつかり、衝撃と共に停止した。二人は無意識に呼吸を止めていたらしく、少しすると一斉に大きな安堵の息を吐いた。

「痛ったぁ。……なんだったんですかね? 今の。鹿か熊っすかね」

 大林は赤平の問いには答えず、ハザードランプを点滅させた。車の被害状況を確認する為に、粉雪がちらつく車外に出る。

「後ろのバンパーがへこんだだけか。良かった……」

「中々の危機回避能力っすね。流石は園長」

「赤平が叫んでくれたおかげだよ。ありがとな。危うく仲良く心中するところだった」

「政治談議に熱中しすぎましたかね。まぁそれでも広い視野を保っていられるところは、流石オレ。パーフェクトヒューマン赤平尊   たかふ……」

 唐突に、赤平が口をつぐむ。

 その視線の先には、周囲を覆う暗闇しか見えない。

「急に黙るなよ赤平。何かあるのかと思うだろ……」

「まだ……まだ何かいる!」

「何かって?」

 質問しながら、大林も振り返る。そこにあるのはやはり、漆黒の空と雪原だけだ。

 大林は霊的なものなど一切信じていないし、ホラー映画でも笑ってしまう方だ。だがもし赤平の見た「何か」がヒグマなら、それは最悪の事態だ。

 本州の可愛らしいサイズのツキノワグマなどとはわけが違い、彼らは老人が一本背負いで撃退できるような代物ではない。体重は軽くても百キロを超え、大きい個体は五百キロ超。ショットガンを持っていようが命の保証はない、日本最強の肉食獣だ。普通この時期には既に冬眠しているはずだが、食糧が足りずに眠り損ねた個体は凶暴だとも聞く。

 自分たちの状況を理解した二人は、ヒグマだった場合に備え、刺激しないようにじりじりと車まで後退する。

 その時、道路脇の茂みが動いた。

「わひゃぁぁーーっ!」

 赤平が間抜けな悲鳴をあげる。だが目の前に飛び出してきたのは、ヒグマはおろかエゾシカよりも小さな生物だった。

「人間…………?」

 それは、全裸の人間であった。

 この付近の歩道は除雪すらされておらず、人が歩ける状態ではない。また一番近い民家でさえ何キロも離れている。こういった雪深い田舎の夜道で歩行者に出会うことが、既に普通ではない。更にこの晩秋の北海道で服を着ないなど自殺行為である。余りにも理解しがたいシチュエーションに二人は思考が停止し、立ったまま固まっていた。

「あぁーうぅーーぅ」

 全裸の人間は、明らかにヒトの言語ではない唸り声を発した。しかしその声色は、こちらを威嚇しているようではなかった。よく見れば顔はかなり幼く背も低い。そして股間には立派なものがぶら下がっている。つまり、男だ。

「……どうしたんだ? 君。えっと……名前は? 名前、言えるかい?」

 固まり続けている赤平を置いて、大林は正常な思考を取り戻しつつあった。彼の見た目は十歳前後といったところだ。冷静に考えれば、障害者福祉施設かどこかから抜け出してきた可能性が一番高い。

「うぅーうぉぉれたぁちぃー」

 彼は何かを訴えようとしている感じではあったが、その言葉は日本語になっていない。

「赤平、後ろに毛布積んでたよな。取ってきてくれないか?」

 気温は氷点下である。当然ながら全裸の彼は震えていた。赤平は我に返ってから車の後部へ向かう。大林は、また何とかコミュニケーションを取ろうと努力する。

「日本語、しゃべれるかい? 俺は、大林ま……」

「うぅおぉ、ぉおれたちぃわぁ……のーわんっ」

「……は?」

「おれたちわぁ、のーわん!」

「のーわん? ノーワンって……」

「『俺たち』? 他にも仲間がいんのか?」

 車から戻って来た赤平が会話に口を挟んだ。大林は毛布を受け取ると、恐る恐る子供に近づいていく。どうやらこちらを攻撃する気も逃げる気もなさそうだ。

「おぉれたちわぁ……のーわん?」

 疑問形のような口調で、少年は首をかしげた。

「いや、俺に聞かれても知らんべさ……」

 赤平が答えている間に、大林は彼の肩に毛布をかけることに成功した。そのまま車へ連れていくために背中へ腕を回そうとすると、彼は両膝をついて雪の上に力なく倒れた。

「まずい。低体温症かも知れない。赤平、後ろから車に乗せよう。手伝ってくれ」

「あ、アイアイ、キャプテン……」

 赤平はあまり乗り気ではなさそうだった。確かに、こんな場所で得体の知れない全裸の男性に出会えば、積極的に関わりたいと思う人間の方が少数派だろう。だが彼は危険な人物には見えなかったし、第一まだ子供だ。児童養護施設に勤める者として、彼を放っておくわけにはいかなかった。

「おれたち……わぁ……のーわん……」

「分かったから、静かにしてろよ。体力無くなんぞ」

 二人で少年を後部のラッゲージスペースに横たわらせた後、赤平がそこに同乗した。少年が車の揺れで頭をぶつけないようにするためだ。そして雪道を裸足で歩いていた影響で赤く腫れあがっている彼の足を握り、自らの体温で温めている。ついさっきまで戸惑ってはいたが、一度「やる」と決めた時の赤平は頼りになる男だった。

 稚内市内の病院へ向けて車を発進させたあと、大林は彼が発した「ノーワン」という言葉について考えを巡らせていた。

 最近では、「ノーワン」とは難民を指す一種の差別用語だ。

 十年前に始まった『中央アジア大戦』と呼ばれる紛争のため、中央アジアで数か国の政府が転覆し大量の難民が発生していた。帰る国を失った彼らは「無国籍難民」と呼ばれ、日本にも無数の難民船がやって来ていた。

 これまでは受け入れに消極的で『難民鎖国』とさえ言われてきた日本だったが、難民条約を批准している手前、国際世論の圧力に逆らい続けるのは難しかった。またいくつかの難民船が日本海で嵐によって沈没した際に、救助に消極的だった事が海外から批判された為、やむなく彼らの上陸を全面的に許可した。

 特に北海道では現在、宗谷トンネル開通やカジノ解禁による好景気で札幌・網走・夕張・稚内周辺などが建設ラッシュになっており、建設作業員として多くの難民が働いている。

 通常日本の難民認定審査には三~十年の長い時間が掛るが、認定をされなくても就労できる「在留特別許可」という制度があり、政府は「人道的措置」の名のもとにこれを乱用していた。要は、少子化で人材不足が続く介護や建設業で、安価な労働力として彼らを使いたかったのだ。

 しかし難民の流入によって全国各都市でスラムのような外国人街が形成されてきており、治安の悪化や地元住民とのいざこざも頻繁に起こっていた。このような状況がネットニュースや匿名掲示板で揶揄やゆされて、無国籍難民たちを指す『誰でも《ノー》ない《ワン》者』というネットスラングができたのだった。

 では、彼は無国籍難民なのか?

 確かに少年は純粋なモンゴロイド系の顔立ちではない。しかし中東や中央アジアに多いアーリア系の顔かというと、それもまた微妙である。よくいる「外国人顔の日本人」といわれればそのようでもあり、ハーフだといわれればそうも見えた。つまり、人種や国籍は不明だ。

 だが仮に彼が難民の子供だとしても、こんな時期に裸で市街地から何キロも離れた場所を徘徊している理由が全く分からないし、拙い日本語で自らを侮蔑する言葉を発するのは更に意味不明だ。というより彼からは外国語どころか、人間の言語自体を喋れないような印象を受けた。

 そう、大林が引っかかったのはその部分だった。

 何故まともに日本語も喋れないのに、最近作られた「ノーワン」という差別用語を彼は知っているんだ? というか、誰がそれを教えたんだ? 障害者福祉施設から逃げたのだとしたら、施設の職員が差別用語を彼に吹き込んだのか? 何のために? それに何故全裸なんだ?

 少年の綺麗な肌を見る限り、少なくとも直接的な虐待を受けていた形跡はない。にも関わらず、彼は全裸で人里離れた雪原に放り出されている。様々な点が矛盾し、大林は考えをまとめられなかった。

「野生児なんすかねぇ、この子」

 車の後部から聞こえた赤平の声で、大林は現実に引き戻される。

「それはないだろ。北海道の冬を、全裸で生き延びれる人間なんていないよ」

「ですよねー。人間を警戒してないし、最近のネットスラング知ってる点も説明できないし。でも一番近い障害児入所施設とか病院も何キロも離れてるから、この深い雪の中、ここまで全裸で逃げてきたってのも無理がありますよね。マジに、何者なにもんなんだろこの子?」

「まるで、『カスパー・ハウザー』だな」

「かす……何ですって?」

「歴史上のミステリーとされてる、怪人物だよ。十九世紀前半のドイツ、当時のバイエルン王国で発見された十五歳ぐらいの少年さ。衛兵に保護された彼はまともに言葉を喋れず、筆談で『カスパー・ハウザー』という名前を書いただけだった。少年は何者かに手紙を持たされていて、その中には彼の家族や経歴について書かれていたが、それも後の調査で全くのデタラメだと判明。結局『カスパー・ハウザー』という名前で孤児院に引き取られる事になった。……って話さ」

「何か、今の僕らの状況と似てますね。筆談じゃなくて、唸り声みたいな日本語って点だけが違うけど」

「『ノーワン』ってのが、彼の名前だとは思えないけどな」

「あぁ、あと裸でもないですしね。で、そのカスパーなんちゃらは、その後どうなったんです?」

「彼は光を怖がったり、暗闇で超人的視力を発揮したり、あたかも地下牢で育てられたような行動を示したんだ。それから孤児院の生活に慣れると、知的障害も見られなかったカスパーは急激に言語を習得し、自分の出自に関して少しづつ話し始めた。そして……」

「……何すか? 続きは? 何の焦らしプレイです?」

「殺された。何者かにね」

「え?」

「ナイフで刺されて死んだんだよ。犯人は捕まらず、事件は未解決ミステリーになったのさ。それにカスパーが暗殺される前には、彼の顔が王族に似ているという噂がたっていたらしい」

「じゃあ、この子がどっかの王族だってんですか? そりゃないっすよ。中世ヨーロッパじゃあるまいし。ここは北海道のド田舎ですよ?」

「そうは言ってない。ただ、もし少年が、知的障害児じゃないのだとしたら? 何故彼は、まともに言葉を喋れないんだ?」

「まともに日本語を喋らせちゃいけない理由が、何かあったって事ですか? 体に虐待は加えないで、でも言葉も教えずに飼い殺しにするって……何の目的で?」

「……さっぱり分からない」

 事態の異様さに気付いた二人は、そのまま押し黙った。

「のー……わん…………」

 静まり返った車内には、少年の寝言だけが響いている。

 どんな理由があろうと、こんな子供が氷点下の原野に放り出されて良いわけがない。

 ――頼むから、ただの迷子であってくれ。

 そう祈りながら、大林は車を稚内へと飛ばした。

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