あなたの体は食べたモノからできている様に、あなたの小説は識ったモノからできている。

 ちょっと前にツイッターでよく流れてたネタなんだけど『作家は体験したことしか書けない』のだそうで、みなさんこの説に同意したり反論したりと、お楽しみのご様子だった。

 脊髄反射的に反応するのならば、「濃厚な百合エッチを書いたけど、俺は好青年おっさんだから百合なんて経験ないぞ!」とか、「チェーンソウで女子高生を細切れに解体する小説書いたけど、女子高生は刻んだことないぞ!(意味深)」なんてことになっちゃうよね。

 経験したことしか書けないのならば、SFや異世界転生はもとより、殺人が起こるようなミステリや、心中がともなうような恋愛モノだって、書くことができる人は極端に少なくなってしまう。(居ないとは言っていない)


 しかしながらこの『経験』を広義に解釈す流のなら、間違ったことは言っていない。様々なコンテンツを観たり聴いたりすることや、知識を得ることまで『経験』ととらえるのならば。

 言い換えれば、『作家は識っていることしか書けない』となり、そして『想像力のおよぶ範囲でしか書けない』となる。想像の元となるものは知識なのだろうから、やはり識らなければ書けないし識れば書けると言うことになる。


 識れば書けるとするならば、書きたい人はどんどん識るべきだ。識れば識るほどに書けるということも、ある程度までは成立するんじゃないかと思う。

 そして逆に言えば識らないことは書けないのだから、知識の蓄えなくしては小説なんて書けるものじゃないのだろう。


 しかし、「突然アイディアが降ってくることだって、あるんじゃないの?」なんて言う人が居るかもしれない。これは頭の中に無かったものが突然降ってくる訳ではない。頭の中に在ってうまく認識できていなかったことが、突然回路がつながって認識できるようになるだけのことだ。


 もう一つツイッターによく流れてくるネタで、「小説書きは、沢山の小説を読むべきだ/本なんて読まなくて良い」問題がある。

 実は俺なりの答を持っていて、「つべこべ言ってる暇があるのなら読め」ってことになっている。

 乱読する必要はない。ただし質にはこだわるべきだ。健康な体を作ろうと思えば食にこだわらざるを得ないように、良い小説を書こうと思えば知識にこだわらざるを得ない。

 そして読むものは、なにも小説には限らない。書評でも良いし、論文でも良いし、なんだったら映画やアニメを観ることだって良いだろうし、さらに言えば旅行や近所のお散歩だって良いと思う。

 元の話とつながるけど、識ろうとする意識が大切だと思っている。読みなれた小説でも、見慣れた風景でも、漫然と眺めるのとなにがしかの意志を持って眺めるのとでは、自ずと見えるものも違ってくるはずだ。


 ちょっとした蛇足になるけれど……。

 頭の中に在ることしか書けないってのは何も小説の内容ばかりの話じゃなくて、表現方法や文体だって頭の中に在るものでしか書けない。

 逆に言えば、頭の中にあれば書けるんだから、美しい文章を書きたいのなら、そして表現の幅を広げたいのなら、これはもう読むしかない。この場合はもちろん、読むのは小説に限る。質にこだわりたいのは変わらず。

 俺自身、自分の書いた文章を読み返して「これ、本当に俺が書いたん?」と驚くことはしばしある。文章の書き方なんて、学んだおぼえはない。今まで読んできた小説たちに、大いに助けられている。


 このお話、良い小説を書くために頑張ってお勉強しましょうね……なんて事が言いたいのではないということ、ご理解いただいていることと思う。

 小説書きの頭の中は、往々にしてカオスだ。そして俺の好きな小説書きの頭の中は、えてして偏っているように見えるし浮世ばなれしているように見える。これを仮に『小説アタマ』と名付けるのならば、日々『小説アタマ』を熟成させましょうね……ってだけの話だ。

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