第166話 覗くモノがいる
「ねぇ? おかしくない? やっぱり、こんなの、絶対おかしいよ」
「静かにして下さい、マドカ。気づかれるでしょう?」
「だって、おかしいよ! なんで、なんで……」
マドカが、一度息を溜めて、言う。
「なんで私たちが覗きをしないといけないの!?」
マドカの叫びにも似た声が、響いた。
響いた場所は、明野ヴィレッジの三十九階にある、温泉施設。
その露天風呂、の男湯。
そこの、自然観を出すためだけに設けられた茂みの中に、彼女達はジャージ姿で、いた。
なぜ、彼女たちがこのような場所にいるのか。
それを説明するためには、少々時間をさかのぼる必要がある。
昨日、リバーモールを発ってから、そのまま寝ずに歩き続け、夜がそろそろ明けるという頃に、シンジ達はマンションに帰ってきた。
さすがに丸一日寝ていない事もあり、帰ってすぐにシンジ達は眠りにつき、起きたのは夕方だった。
リビングで遅めの昼食を取ったあと、もう、レベル上げをするような時間帯でもないし、今日はこのまま休みにしようと皆で決め、シンジ達はゴロゴロしていた。
「うわぁ……これ雲鐘の制服じゃん。二人とも、雲鐘だったの?」
「はい。中学まででしたけど」
マドカが、少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら、シンジの問いに答える。
ただゴロゴロするのも退屈だったため、シンジ達はマドカ達が持ち帰ってきた思い出の品、卒業アルバムなどを広げ雑談をしていた。
「雲鐘、ですか」
セイも、マドカの卒業アルバムを覗き見ながら、雑談に参加する。
「ん? どうかした?」
「いえ、私の家の道場に習いに来ていた子にも、雲鐘の子がいたので。アイドルやタレントを輩出しているためか、可愛い子ばっかりで、嫌になるとか……マドカさんたちなら、いても不思議ではないですね」
言って、ちらりとセイはマドカを見る。
その目が笑っていなくて、マドカは少しだけセイと距離を置く。
「も、もー、普通だよ。普通。皆そんなのばっかりじゃないから」
「……でも、小学校からなんて、普通じゃないんじゃない?」
シンジはもう一つ、マドカが持っていたアルバムを見つける。
それは、雲鐘学院の初等部の卒業アルバム。
「あ、それは……」
「初等部とか、百人もいないじゃん。それに入れるって、どんだけ……あれ? これ、水橋さん?」
可愛らしい女の子たちが写っているアルバムを見ながら、シンジはある一人の少女を見つける。
それは、切れ長の目を持つ少女。
目だけ見れば、明らかにユリナだが、今と雰囲気が全く違う。
メガネを掛けておらず、そして、今の、それに、小学校の頃のマドカと同じように、前髪が長く、一言で言えばマドカにそっくりだった。
「へー水橋さん、メガネかけていなかったんだ。この写真なんて、百合野さんとそっくりで、まるで姉妹みたいだね」
「本当だ。そっくりですね」
シンジとセイが、マジマジとマドカ達の初等部の卒業アルバムを見る。
「も、もう止めてください。なんだか恥ずかしいです」
「いいじゃん。可愛いよ、小学生の百合野さん」
「そ、そんな事を言わないでください」
「……可愛い?」
セイが、ぽつりとつぶやく。
その声の剣呑さに、シンジ達の空気が一気に冷たくなった。
「い、いやぁ、その……」
「だから、言わないで欲しかったのに……」
困惑したシンジとマドカが目を合わせる。
どうすれば、この嫌な空気を打開できるだろうか。
「あの、少しいいでしょうか?」
その時、色々察したのか、今まで黙っていたユリナが手を挙げた。
「これから皆で温泉に行きませんか? 昨日からお風呂に入っていないですし、休みといっても、軽く体を動かしたいですし」
その提案に、シンジとマドカはすぐに賛同した。
とにかく、動きたかったのだ。
あっという間に準備をして、明野ヴィレッジの三十九階にある温泉に向かうため、エレベーターにシンジ達は乗り込む。
「そういえば、先輩も来るのは初めてではないですか?」
エレベーターの中で、ユリナが、シンジに聞いた。
この明野ヴィレッジで生活を始めて、今まで数回温泉を利用した事があったが、シンジも付いてきた事は、今までない。
「そういえば、そうか。まぁ、男は俺一人だしね。あんまり利用したこと無かったし」
「そうですか……まぁ、誘っておいて言うのもあれですけど、覗かないでくださいよ?」
「………………………………え?」
「いや、冗談のつもりだったんですけど……なんですか、その長い間は」
「………………………………え?」
「……もういいです」
繰り返されたシンジの返事に、ユリナは呆れながら、会話を打ち切る。
「じゃあ、後で」
男湯の方の入り口で、シンジは、ユリナ達三人に向かって言う。
「ええ、また。私たちが遅いようなら、先に帰ってもいいですからね」
「………………………………え?」
「なんですか、もしかして、湯上がり姿の私たちを見たいとか、そんな事言わないですよね?」
「………………………………え?」
「……もういいです。では、またあとで」
そんなやりとりをしたあと、ユリナ達も女湯の方に向かったのだった。
「……うん。やっぱりオカシいよ! なんであのやりとりの後で、私たちが先輩を覗きに行っているの!? 覗くなら、先輩の方だよね? あのやりとりだと!」
今までの経緯を思い出し、マドカがユリナに食いかかる。
「ほう、つまり、先輩になら覗かれてもいいと?」
「言ってないよ!? 私たちが覗きに行くのはオカシい、って言っているの!」
「ふぅ……まだまだですね、マドカは」
やれやれと、ユリナが肩をすくめる。
「な、なによ。まだまだって」
「マドカは知っていますか? 『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』という言葉を」
「なんか、聞いた事はあるけど」
ユリナが言っているのは、哲学者ニーチェの有名な言葉である。
「つまり、そういう事です」
そう言って、ユリナは会話は終わりだとばかりに、シンジが出てくるだろうと思われる露天風呂の入り口を向いてしまう。
「…………いや、いやいやいや。そういう事って、どういう事!? 意味分かんないだけど!」
「『女湯を覗く時、女湯もまたこちらを覗いているのだ』」
「何をドヤ顔で言っているの!? 上手くないよ? 全然上手くないからね、ユリちゃん! 意味分かんないまんまだし!」
マドカの、抗議にも似たツッコミは止まらない。
「……まぁ、真面目な話。マドカは、今の私たちの状況をどう思いますか?」
「変態だと思う。止めるために付いてきたけど、正直女湯に戻りたい」
「……そうじゃなくてですね。今、というのは、この場の事ではなくて、全体的な環境の事です」
ユリナの問いに、マドカは、頭を横にする。
「いいですか? 今、私たちというのは、非常に弱い立場です。それは、戦い、という面だけではなく、道義的にも、つまり、精神的な意味でも、私たちは明星先輩より、非常に弱いのです」
「うっ……なんか難しいけど、言いたいことは、分かるかも。つまり、生き返らせてもらって、それにこんな良い場所を提供してもらっている借りが、私たちには先輩に対してある、って事だよね?」
「まぁ、そんな感じです。実際、マドカ。もし仮に先輩が無理矢理関係を迫ってきたとして、マドカは抵抗出来ると思いますか?」
「な、なに言っているの、ユリちゃん!」
「仮の話ですよ。仮にです」
マドカは、顔を赤らめて、ユリナの問いに答える。
「……ちょっと難しいかも。腕力だとまず無理だし、生き返らせたでしょ? とか言われると……」
もちろん、そのような事を迫られると、シンジに対して嫌悪感を持つし、そのような事は無いとマドカは思っているが。
「でしょう? だから、私たちは肉体的にはまだ無理だとしても、精神的に、もう少し先輩に対して強くならないといけないのです」
「そうなのかな?」
「と、いうわけで、先輩の裸を覗きますよ!」
「そうなのかな!? 結論がやっぱりオカシくない!?」
明らかにワクワクしながら、入り口の方を見始めたユリナに、マドカのツッコミが飛ぶ。
「オカシくないですよ。裸を覗いてやった、という優越感は、いざというとき、役に立つはずです」
「その、いざというときが何かよく分からないし、優越感なんて感じないよ!」
「……しっ! 来ましたよ!」
マドカのツッコミを、ユリナが手で制す。
それとほぼ同時に、露天風呂と内湯を繋ぐガラスで出来た扉が開き、シンジが入ってきた。
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