その背中を、呼び止めて…… ~孤独を運ぶ舟~

@YAMAYO

★ONE DAYS★

 「例えばの話なんだけど」


 と、ハツミが言う。彼女の話には例えばが多い。


 「例えば朝、目を覚ますでしょ?そうするとね、私は突然イモムシになってしまっているの。何の前触れもなく、何の予感もなく、寝る前に変なものを食べたわけでもなく、夢魔に襲われたわけでもなく、人知れず性悪な魔女から呪いをかけられたわけでもなく、とにかくどんな理屈も常識も概念も一息に飛び越えて、私はその日からイモムシになってしまったのね。まずはそれを想像してみて。大きさはあなたの親指を縦に二本並べたくらいで、形はぷっくり膨れた笹かまぼこみたいな感じ、妖しくて艶やかな曲線美を描く表面はエナメルバックみたいにツルツルとしていて、カーテンの隙間から差し込む朝の光をそれはそれは叙情的に反射させているの。たくさんついた短い脚はとてもとても愛らしく、大きくてクリクリとした黒い目はどこまでも清らかに澄んでいて、体の色は……うーん、ちょうどこれくらいの緑かな」

 

 彼女は手に持っていた枝豆を(我々は食卓テーブルに向かい合いながら枝豆を枝から外している最中)僕の目の前で大げさにヒラヒラとさせる。


 きっと僕が作業に夢中になりすぎて話を聞いていないと思ったのだろう。


 確かにこういう機械的な単純作業は僕の好むところで、放っておけばきっと病的にはまりこんでしまいそうだったけれど、とりあえず今のところはちゃんと彼女の話に耳を傾けている。

 

 僕はニコリと微笑んで「なるほど、『寝室と朝とイモムシ』。夢見がちな女の子が書いたちょっぴりメンヘラな詩のタイトルみたいだ」と言う。

 

 その返答はどうやら彼女を満足させた様子で、また作業に戻りながらハツミは更に話を続ける。


 ……これは長くなりそうだな。

 

 「それはね、キレイなキレイな蝶々の幼虫なの。南米の陰険でジメジメしたジャングルの中にあって、そこら中に愛想を振りまいて回る可憐な蝶々。光の加減や湿度の違い、そして見るモノの心次第でいかようにも色が変わってしまう、まるで絵本の中からフワリと迷い込んで来てしまったような不思議な蝶々。この広い広い地球のでもそのジャングルにしか決して咲くことのない大きくて特別な、これまたお伽話にでも出てきそうな見た目をした花の、甘くて芳醇で少しだけ毒素の混じった蜜だけを吸って生きているんだけど、それだって一日のうちにたった一回、ほんのちょっと摘まむだけで十分。後はヒラヒラ、フラフラってただあてもなく森を漂って過ごして、夜になるとその月明かりも届かないほど深く暗い闇の中に溶けていくかのようにフッと姿を消してしまうの。きっと眠る時にだけどこかの子供の手に持たれた絵本の世界に帰っているのかもしれないわ。……うん、きっとそうに違いない」

 

 そこでハツミはうっとりとした表情を浮かべてしばし枝豆をはずす手を止める。


 多分、自分で言ったメルヘンチックかつメランコリックな台詞に心から酔いしれているんだろう。


 本当に夢見がちな少女に回帰して、永遠にどこかのジャングルないしお花畑の中を蝶になって彷徨い続けてしまいそうな勢いだ。


 しかし、その感受性の強い少女の手に持たれた物が、美しい花言葉の宿った花や汚れなき愛ばかり詠われた詩集などではなく、いきつけの八百屋で薦められるままについつい買ってしまった取れたての新鮮な枝豆だというところにまだ救いがあったろうか。


 なにせそれは、御伽の国の言葉よりもよっほど簡単に大人を酔わせてしまうキンキンに冷えたビールのアテとなる定めなのだから。

 

 「……でもね、どんなに美しくても死は等しく訪れるわ」


 一転して少しだけ神妙そうに声のトーンを落としながらハツミは話を再開する。


 「その蝶の寿命はとてもとても短いの。もちろん個体差はあるわ。一夜でこと切れてしまうモノもいれば、死の影など微塵も感じさせずにいつまでも優雅に森の中を漂い続けるモノもいる。だけどそれでもせいぜい一週間。サナギから飛び出してこの世に美しい羽をさらしてから十日もしないうちにその蝶々は天寿を全うしてしまう。まるで自分を美しく飾ることに命のリソースをすべて捧げてしまってでもいるかのように、美しさだけが彼らの存在意義だと言わんばかりに、ただ暗いジャングルをさまようだけで短い生涯を終えてしまうの……」

 

 寿命だけではないだろう。

 

 あるいは病気、あるいは天敵による捕食、あるいは不慮の事故など、どの世界、どの動植物にも、単に寿命だけでは片づけられない理由で命を落としてしまうケースはいくらでもある。


 それに幼虫からサナギ、そこからの羽化という行程を経るのだから必ずしも寿命が短いとは言えないのではないか思わないではなかったけれど、この例え話にそんな野暮な一般論や下らないリアリティを持たせるのも、それこそ野暮だろう。

 

 だから僕は黙ってハツミの話に耳を傾ける。儚くも美しい、そんな蝶がいるのだということだけを念頭に置いて。

 

 「その亡骸が横たわる場所にはね、必ず例の特別な花が咲くの。どうしてだかわかる?そう、実は死んで地に落ちた蝶の体を媒体にしてその花は大地に芽吹き、大輪の花弁を咲かせていたわけなのよ。そうやって育った花は新しい蝶に自らの蜜を提供して養い、またその遺骸から新たな花を咲かせ、別の蝶を養うの。互いに持ちつ持たれつ、どちらが欠けてもその命は成立しないわけ。なんだか素敵だと思わない?……まあ、それはそれとして、その蝶は人間にはまだ見つけられていない新種の蝶なの。ややこしい学名やら、何科だとか何目だとかいうかたがきもなくて、まだ何ものにも汚されてはいない真っさらな聖女みたいな蝶々なわけ。……ねぇ、名前がないのってどんな気持ちがするんだろう?とりあえず縛られるものが一つないわけだけれど、そう単純なものでもないのかな?ジャングルの奥深くならともかく、街で生きていく私たちにとっては相当不便なものなんでしょうね、実際。私は私よってつっぱったところでそれが何かの証明になるわけでもないしね。物でもヒトでも『呼称』っていうものが付いていなければ、もう何ものでもなくなっちゃうのよね。そしてそれ以上に名前っていうのは、なんていうか、存在とか魂とか、そういう私たちのまん真ん中にある大事な核みたいなものにベッタリと吸い付いて離さないヒルのようなものなんじゃないかっていうイメージを私は持ってるの。ほら、ヒルって無理に引っぺがそうとすれば、張り付いたその皮膚まではがれてしまうでしょ?そんな風に名前も捨てようと思ってやけを起こすと、張り付いている核も一緒に巻き込んで傷つけ、ダメにしてしまうの。自分の中心がダメになってなくなるのよ?それはもう私が私でなくなってしまうのと同じことでしょ?うまく言えないけれど……やっぱり捨ててはいけないものっていうのはあるものよね。どんなに煩わしく思えたとしても」

 

 ハツミはうんうんと何度も頷く。


 蝶の話から大いに脱線した先に偶然見つけた彼女なりの哲学的なひらめきを、そうやって首を振ることで思考のしかるべき場所に馴染ませようとしているのか、少しの間ができる。


 時間がフワフワとした白い雲のように浮かび、そして消えていく。

 世界中のあらゆる空白はこうやって生まれてくるのかもしれない。

 

 僕は僕で、自分の魂にへばり付いたヒルについて考える。


 ……そいつはもうどのくらい僕の血液を吸い上げたのだろうか。


 きっと他にも色んな大事な物も一緒に吸い尽くしながら、だいぶ肥大になっているに違いない。

 

 「……まぁ、とにもかくにもイモムシになった私をあなたは見つけるの。それも起き抜けに。すっごく驚くんでしょうね。――フフフ、普段クールなあなたが驚く顔なんてあまり想像できないけれど――隣に寝ているはずの愛しい愛しい恋人が、緑色の変な塊になってしまっているんだもの、そもそもそれが私だなんて気が付くのも怪しいものよね。言葉をかけたくても声が出ない、何かを伝えたくてもワシャワシャ体と足を揺らすだけで何も表現できない、そのうち頭の中までイモムシ化してきて、無性にほうれん草やキャベツをかじりたくなってくるの。あ、ちなみに蝶になる前は普通のイモムシと一緒で葉物を食べるという設定ね」

 

 そこで彼女はパンパンと両手を払いながら立ち上がる。


 作業が終わったのだ。こんもりとボウルに盛られた枝豆は、見るからに瑞々しく、サヤを突き破らんばかりにぷっくりと膨れてとても美味しそうだ。不思議なもので、枝から外された後のほうがより生命力に満ち溢れているように見える。

 

 「それでもあなたは必ず気がついてくれる。それは解っているの。あなたはそういう人だから。例え私がイモムシになろうがツクツクボウシになろうがミズスマシになろうが、必ずあなたは気が付いてくれる。それよりも私が聞きたかったのはね……」

 

 ハツミは僕の目をじっと見つめながら言う。


 彼女の瞳から放たれるその視線には、撫でるような柔らかな感触があり、それは僕の深層心理の泉の水面を、小さく静かに震わせる。

 

 とても素敵な気分だ。

 

 「それでもあなたは私を好きでいてくれる?」彼女は問う。

 

 「もちろん」僕は即座に答える。

 

 「本当に?」彼女は疑わしそうに問う。

 

 「本当に」僕は確信をもって答える。


 「君がサナギになって、きちんと羽化するまで僕が大事に大事に世話するよ」

 

 「あなたって昆虫に詳しかった?」

 

 「いや、あんまり。でも頑張って勉強すれば何とかなると思う。そしてキレイな蝶になった君と例の花が咲き誇るジャングルに移住して、そこで二人幸せに暮らすんだ。今と何一つ変わらないようにね。そして一週間したら君は朽ちて花になる。僕は必ず君よりも長生きして、今度は花になった君を守る。やがてその花からまたイモムシになった君が生まれて、僕はまたそれを育てる。それをいつまででも繰り返す。僕が朽ち果てて、君と一緒に土に帰るまで繰り返す。それくらい僕は君を想っている」

 

 「……ふむ」

 

 「僕は何があっても君を愛するよ」

 

 「……うん、ありがとう」

 

 そうしてハツミは椅子に座っている僕のほうに身をかがめてキスをしてくれる。


 その唇は柔らかく、蝶が音もなくそっと花にとまるような、そんな優しいキスだ。

 

 結局のところ、イモムシやら蝶やら名前やらヒルやらと取り留めも含蓄もない例え話の中で彼女が言いたかったことは、このキス一つで事足りるような愛情の確認だけだったようだ。

 

 「……でも本当に私が明日イモムシになったとしても、絶対にステッキでぶったり、リンゴを投げつけたりしないでね」

 

 「それよりも早く枝豆を茹でよう。蜜やキャベツよりも今は枝豆が食べたい」

 

 僕らは揃って台所に向かう。

 

 そういえば彼女、図書館からカフカの『変身』の入った文学全集を借りてきて熱心に読んでいたっけ。

 

 

 何気なく見た窓の外には平和で穏やかで物憂げな世界がどこまでも広がっていた。


 街も人も空気も、見渡す景色はことごとく夏めいていた。


 多分、こうしている今も、どこかで誰かが何かを想って泣いたり、笑ったり、叫んだりしているのだろうし、人知れず名もなき蝶々がその生涯を次の世代へと引き継いでいるのかもしれない。


 そう思えば僕らの世界は本当に静かに回っている。本当に回っているのかさえも疑わしい位に、音もなく。

 

 僕はこの世界を愛している。

 心から誇りに思っている。


 どんなに気怠くて退屈で、凡庸な毎日が続いていこうとも、その日々は僕が自らの意志で選び、掴み取った、大切なものなのだから。


 まあ、その何てことない日常を獲得するために、随分回りくどい道ばかり歩んできたわけだけれど。

 

 

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