第一話 勇者ナンバー867

  第一話 勇者ナンバー867


 夢は見なかった。暗い水底から水面に浮かび上がってくるように、突然、意識は覚醒し、アツシはぱっと目を開けた。知らない天井がそこにある。しばらくぼんやりしているうちに、寝台に寝かされているのだと察しがついた。そして記憶が蘇ってくる。

 ――夢だったのかな。あんな地震が起きて、津波が来て、綺麗な女の子の幻を見て。

 そこまで考えたとき、幻のはずの少女がアツシの視界のなかに顔を出した。

「気がつかれましたか?」

 ――夢じゃなかった。

 アツシはそう悟ると、状況に怯みながらもゆっくりと体を起こした。上からアツシの顔を覗き込んでいた少女は、自然と背筋を伸ばす。アツシはその少女に眼差しを据えると、やはり綺麗だと思いつつぼんやり口を切った。

「君は……」

「はじめまして、私はレナと申します。あなた様の従者です。お名前を伺ってもよろしいですか?」

 ――従者?

 意味がわからなかったが、まだぼんやりとしていたアツシは求められるがままに名乗りをあげた。

「……アツシだ」

「アツシ様……」

 そのままレナと見つめ合ってしまったアツシは、ようやく理性が回転を始めるのを感じると勢いをつけて尋ねた。

「あの、俺はたしか津波に呑まれて……」

「そのようですね。でも私が助けました」

「そうなんだ、ありがとう」

「それと服は濡れていたので、私が着替えさせていただきました」

 えっ、と驚いて自分の体を確かめれば、着ていた服とは違う緑の服に着替えさせられている。半袖のシャツと長ズボンだが、市販のものに比べると大味な作りをしていた。それはいいとしても、この少女に着替えさせられたというのが問題だ。

 ――全部見られた?

 アツシは顔を赧くしてレナを見たが、レナは眉ひとつ動かさず、淡々と続けた。

「それでアツシ様、まずここがどこなのかの説明ですが……」

「ここ? そういえばここはどこだい? 病院にしてはおかしい……」

 そう云いながらアツシは部屋のなかを見回し、軽く驚いた。

「円形の部屋……」

 部屋はだいたい四角い形をしているものだが、この部屋は円形だった。むろん病室とはまるで趣が異なり、壁と天井は漆喰塗り、壁の下半分は腰板が巡らしてある。足下は石畳で窓はなく、出入りのための、頑丈そうな木製の扉が一枚ある。

 その扉の傍らに男が一人、壁にもたれて立っていた。それは褐色の髪を耳まで伸ばした丸顔の、よく肥った二十歳くらいの青年だ。人種的には白人であろう。目が合うと、その男は笑って手を振ってきた。

 アツシは気を失う前に聞いた会話をもとに、当てずっぽうで問う。

「あなたがトロイさん……?」

 すると男は驚いたように目を丸くした。

「おっと、会話かなにかを聞いたのかな? でも残念。僕はトロイじゃなくてハリー。アメリカ人だよ。アメリカってわかるかな?」

「え、そりゃアメリカったらアメリカでしょう。わかりますよ」

「オーケー、てことは近代から来たんだね。それだと話が早そうだ。国はどこ? 生まれは何年?」

「えっと、一九九五年一月生まれ、日本人……」

「よし、近い!」

 ハリーは大股で寝台に歩み寄ってくると、アツシの手をもぎ取るようにして勢いよく握手をしてきた。アツシはちょっと笑いながら尋ねた。

「あの、ここは米軍基地かなにかですか? レナさんもあなたも白人ですし、俺はアメリカに助けられた? それとその、あなたの格好って……」

 ハリーは褐色の髪と瞳をした白人で、目鼻立ち自体は整っているのだが樽のような腹をしており、頬もふっくらとしていてお世辞にもハンサムとは云えなかった。その服装は今のアツシと似たり寄ったりだが、毛皮のマントを羽織り、しかも腰に剣を佩いている。まるで中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジー作品の仮装をしているかのようだ。

 そのハリーがきっぱりとした口調で云う。

「残念ながらここは米軍とはなんの関係もない場所だよ」

「じゃあ……」

 ここはどこなのか。そう訊ねようとしたアツシに先んじて、ハリーが問うてきた。

「ところで君は英語は出来るかな?」

「……いや、特には。普通の高校生ですし」

「では、なぜ僕たちのあいだで会話が成立しているのだろう?」

 そう踏み込むように問われて、アツシはぞわっと鳥肌が立つのを感じた。

 ――云われてみれば、そうだ。

 先ほどからごく自然に話していたため自覚がなかったが、たしかに自分はレナやハリーと当たり前のように会話が出来てしまっている。しかしそうなると、ハンマーで殴られたような衝撃とともにある一つの現実に直面せざるをえない。

「俺は今、何語を喋ってるんだ……?」

 その独り言は日本語ではなかった。そして英語でもなかった。まったく別の言語を、生まれ故郷の言葉のように喋っている。その事実にアツシは冷たい恐怖を感じた。

 そこへハリーが一つ大きく頷いて云う。

「僕ら地球人はこの世界に召喚された時点で三つのものを得る。その一つがこの世界の言語だ。どうも転移した時点でこの世界の言語が第一言語として頭にすり込まれてしまうみたいなんだよ。そして母国語は第二言語として押しやられてしまうようだ」

「……は?」

 アツシは待ってほしかった。もっとゆっくり説明してほしかった。

 ――地球人? 召喚? 言語?

 ハリーはなにか途方もないことを当然のような顔で話している。茫然絶句の体にあるアツシを、ハリーは少し気の毒そうな目で見た。

「……まともな思考力があればそろそろ察してくれていると思うんだけどさ」

 そこで言葉を切ったハリーは、アツシを試すかのように沈黙した。

 アツシは恐るべき事実を直視しながら云った。

「ハリーさんと、云いましたね……実際、どういうわけか、俺たちは未知の言語で会話しています。英語でも日本語でもない別の言葉で喋ってる! 俺はこんな言葉、知らなかったはずなのに!」

「そう、僕らが今話している言葉はこの世界の言葉だ。ここは地球じゃない。僕らの知っている星座がある宇宙のどこかですらない。まったく別の次元の異世界なんだ! 君も僕もワープしてきた。僕は七〇二番目の、君は八六七番目の、勇者なんだ!」

 心に落雷があり、アツシは頭を抱えてしまった。たっぷり三十秒ほどしてから顔を上げ、同情的な目でこちらを見下ろしているレナとハリーを順に見つめて云う。

「どっかでカメラが回ってるとかいうオチじゃないんですね?」

「だとしたら、君が話している言葉はなんだい? これって二十一世紀の地球の科学じゃ説明がつかないでしょ」

 そうなのだ、その通りだった。他ならぬ自分自身が全然未知の言語を自在に話している時点で、これは常識では説明のつかない大異変が起きているのである。

 アツシは寝台から両脚を下ろすと、ふらつきながら立ち上がった。傍からレナが支えてくれようとしたが、それを手振りで断ると、ハリーに辛そうな眼差しを据えた。

「別の世界って云いますけど、勇者ってなんですか? 俺が八六七番目……?」

「ざっと説明するとね、現在、この世界の人々は滅亡の危機にある。魔王に率いられた怪物……モンスターの軍勢に襲われているんだ。窮地に立たされた人類は最後の手段として異世界に救いを求めた。異世界……我らが母なる星、地球だ。そして彼らによってこの世界に召喚された地球人は勇者と呼ばれ、この世界で魔物たちから人類を守るために戦うことになる……というのが基本的な設定。オーケー?」

「いや、全然オーケーじゃないですよ。なんすか、モンスターって」

「怪物だよ」

「言葉の意味はわかりますよ。でもそれが文字通りのモンスターなら、俺たちだってどうにもならんでしょう」

「ところがそうでもないんだ。さっきも云ったけど、地球からこの世界に召喚された人間は、その時点で三つのものを得る。一つは言語、もう一つが、特殊能力だ。僕らはみんなマイティ・ブレイブって呼んでる」

「マイティ・ブレイブ?」

「勇気によって発動する神の力、奇跡の力さ。科学では実現不可能、物理法則さえ無視する異能……超常的な現象を引き起こす力を、僕らは持っているんだ。その力でモンスターと戦えるってわけ」

 アツシは眉をひそめて考え込んだ。

「魔法みたいなものですか?」

「地球人的には、そんな感じ。でもこの世界には独自の魔法体系が別にある。僕らの召喚がそうだ。あれはこの世界の魔法によって行われた。こっちじゃ現地人が使う魔法と勇者が使うマイティ・ブレイブは厳密に区別されるから、一緒にするとあとで混乱するよ」

 ふむ、とアツシは相槌を打ちながらなおも考える。

「……魔法じゃ、モンスターには勝てないんですか?」

 するとハリーが微笑んでアツシを指差してきた。

「クールな質問だ。そして結論から云うとイエスだ。この世界の魔法は戦闘に向いてない。君はファンタジー映画を見たことあるかな? ああいうのじゃ炎や稲妻を巻き起こす魔法使いが出てくるけど、この世界の魔法はそういうのとは違うんだ。もっと古い御伽噺おとぎばなしに出てくるような……魔法というよりは呪術に近いものなんだよね。だからああいう炎とか氷とか雷とかないの」

「そう、なんですか……」

「むしろそういうゲームの攻撃魔法みたいなのは、勇者のマイティ・ブレイブにありがちだね」

 その言葉でアツシは気づいた。

「あ、じゃあこの世界の人が俺たちを召喚するのって……」

「イエス。理屈はよくわからないけど、地球人はこっちの世界に召喚された時点でこちらの言語とともにマイティ・ブレイブを獲得する。そのマイティ・ブレイブがモンスターをぶち殺すのに有効だから、こっちの人間は地球人の召喚をやめないってわけ。そして召喚された地球人は勇者と崇められ、モンスターと戦ってくれと頼まれる」

 ハリーの声には少しばかりの皮肉があった。

 いったいどうして、自分たちがそんな要求に応じて求められるままモンスターと戦わねばならないのか? アツシはそう思ったし、ハリーもそんなアツシの気持ちがわかったのだろう。

 だがそれよりなによりアツシが気になるのは、自分のマイティ・ブレイブのことだった。

「それじゃあ俺にも、マイティ・ブレイブってのがあるんですか?」

「もちろんだ。勇者なら必ずある。ただしマイティ・ブレイブの力は千差万別だ。攻撃、防御、補助、回復、戦闘向き、非戦闘向き、汎用性のあるもの、ごく限られた状況でしか真価を発揮しないものなど、さまざまだ。こう云っちゃなんだけど、まるで役に立たないようなマイティ・ブレイブもあるよ? そしてマイティ・ブレイブは誰とも重複しない。皆が皆、オンリーワンの能力なのさ。だから君にも、君だけのマイティ・ブレイブが眠っている……はずだ。たぶん、きっとね」

 そう云って片目を瞑ったハリーは、しかしアツシの表情を見てのことだろう、器用に片眉を上げて苦笑いをした。

「信じていないね?」

「だって……」

 アツシは自然とハリーを胡乱な目で見ていた。実際のところ、マイティ・ブレイブなどと云われても容易には信じられない。

 だがハリーは気を悪くした様子もなく、さもあらんといったように笑っている。

「まあ無理もないさ。僕も召喚された当初は『ふざけんじゃねえぞ馬鹿、コーラ飲ませろ』って思ったし。でも信じてもらわなきゃ始まらないから、とりあえず君に僕のマイティ・ブレイブを見せるところから始めようと思う。それにはここじゃあ狭いから、ちょっとついてきてほしいんだけど」

 ハリーはそう云うと踵を返し、部屋の扉へ向かった。アツシは咄嗟に足が動かなかったが、百聞は一見に如かずである。さらにレナもこう云った。

「アツシ様、行きましょう」

「レナ、さん……」

 アツシは思いがけず様付けされたことに動揺しながら、先ほどから口を挟まずに黙って立っていたレナにもまた物問いたげな視線をあてた。

「あの、ところで君はさっき俺の従者とかなんとか云ったような……?」

「それもあとからお話しします。それとどうぞ私のことはレナとお呼び捨て下さい」

 レナはそう云うと、ハリーのあとについて歩き出した。


 部屋を出た先は、円弧を描く廊下が左右に伸びていた。ちょうど二重丸のように、円形の部屋を円形の廊下が囲んでいるらしい。

「ここは……」

 そう呟いたアツシを振り返ってハリーが云った。

「ここは王都のなかにある召喚の塔だ」

「塔?」

「そう、召喚された勇者たちに色々説明するのに、高いところからの景色を見て貰うのが手っ取り早くてね。もうずいぶん前から召喚はこの塔で行うようになっている。今僕らがいるのは十八階。十九階に魔方陣のある召喚の間があり、その上は屋上だ。さあ行こう」

 それだけ云うとハリーは溌剌として歩き出した。質問する機を逸したアツシが仕方なくそのあとについて廊下をぐるりと回るあいだに、隣を歩くレナがアツシを見上げて云った。

「混乱されていますか?」

「混乱、しているといえばしている……でも状況の筋書き自体はわかった。自分がこうして未知の言語で会話しているんでなければ、とても信じられないところだけど。それより問題なのは、異世界に来ちゃったことより、勇者としてモンスターと戦えってことなんだけど……」

 するとレナはその美しい顔を憂色に染めた。

「地球から召喚される方は必ず死にかけているところを召喚されます」

「え、そうなの?」

「はい。だって平和に幸福に暮らしていたのにいきなり別の世界に連れて来られてモンスターと戦えなんて云われても厭でしょう? ですから私たちは地球人のなかでも今その瞬間に死にかけている人を選んで、生死の選択を迫り、生きるという選択をした瞬間にこちらへ召喚するという手順を取っています。つまり、恩を売っているんですよ」

 そこでレナは気まずそうに目を伏せた。

「でも、ちょっとずるいですよね」

 そうかもしれなかったが、そのおかげで命を救われたとあってはアツシも強くは云えなかった。だが、これが恩を売るということなのだろう。

 ――俺も、あのままだったら死んでたんだよな。

 そんな考えに落ち込みかけていると、ハリーが朗々と云った。

「階段だよ」

 廊下を半周回ったところで、壁に沿って螺旋状にめぐる上りと下りの階段が見えてきた。見たところ、どうやら塔の内壁を地上から屋上まで螺旋状に取り付けられている階段で、ある程度のぼると階が移るらしかった。

「この塔、なんていうのかな、階段を上り下りして塔の内側を半周分移動すると、次の階に到着するようになってるんだ。この階段が時計の十二時の位置だとしたら、ここは十八階だから、偶数階は十二時、奇数階は六時の位置に出入り口がある感じ?」

 そう云いながら、ハリーは階段を上っていった。そのあとについて階段を上り始めたアツシは、あることに気づいて声をあげた。

「もしかしてハリーさんたち、この階段を一階から上ってきたんですか?」

「そうだよ。エレヴェーターとかないからね」

「結構きつそうですね」

「それをきついと思うなら、モンスターと戦う前に訓練を受けてもらうことになるね」

「訓練?」

「そう。たしかにマイティ・ブレイブはモンスターに有用だけど、最低限、基礎的な身体能力は必要だ。そこで先任の勇者たちは十二週間に及ぶ訓練用のカリキュラムを作り上げた。君にはマイティ・ブレイブの力を探るのと平行して、それを受けてもらうことになる」

「げえ」

 アツシが思わずそんな声をあげると、ハリーは足を止めてアツシを振り返った。

「それはどうか頑張って乗り越えてくれよ。君をいじめるためではなく、君を生き残らせるための訓練なんだから」

 そう云ってアツシを見るハリーの目に曇りはなかった。実際、アツシを生き残らせるための訓練というのは、その通りなのだろう。だがそもそもアツシは、勇者として魔王だのモンスターだのと戦うと決めたわけではない。

「……俺はまだやるなんて云ってないですよ?」

「そうだね。でも勇者は三ヶ月に一回しか召喚できない。君には期待してるよ」

 それだけ云ったハリーは、また前を向くと階段を上り始めた。

 ――三ヶ月ってことは、地球と似たような暦があるんだろうな。

 アツシはそう思いながら、仕方なくハリーのあとをついていきつつ、隣のレナに尋ねた。

「なあレナ、俺は八六七番目の勇者だって話だけど」

「はい。そしてハリー様は七〇二番目の勇者です」

「それってつまり、これまでに通算八六七人の地球人が召喚されてるってことだよね。その人たちは今どこにいる? みんな勇者としてこの世界の人たちを守ってるの?」

「それは人によりますね。状況を理解して協力関係を結んでくれる勇者様もいれば、助けてくれたことには感謝するが異世界に連れて来られるなんて聞いてない、ましてモンスターと戦うなんて厭だと云って協力を拒否された方もいます。さらに本人のマイティ・ブレイブが戦闘向きかどうかも関係してきますので……」

「そっか……そうだよな」

 今のアツシのこの状況は、自分の運命をいきなり他人に決められるということだ。それは厭だった。自分で選びたかった。そんなアツシの気持ちを理解してくれているのか、このときハリーがまた足を止めて振り返った。

「一応、選択の余地はあるから安心していい。プレッシャーはかけるけどね」

「プレッシャーって……」

「だって一から十まで自分で決めていいよって話だったら誰もやらないでしょ。だから多少は追い込むよ。でも最後に決めるのは自分だ。無理強いはしない。無理やりやらせたって、結局上手くはいかないんだから。かくいう僕も最初は勇者拒否してたよ。時間が心を変えたけどね。ハハハ!」

「はは……」

 アツシは付き合いで笑おうとしたが、大して笑えなかった。

 一方、楽しそうに笑っていたハリーは、急に真顔に戻ると云う。

「あとこれだけは云っておくけど、今のところ元の世界に帰還を果たした勇者はいない。僕らは帰れないんだ。この世界の連中、異世界から召喚は出来てもこっちから向こうに渡るのは無理なんだってさ。そんなことができるなら異世界から勇者を呼ぶんじゃなく、自分たちが異世界に逃げていた、とかなんとか……」

 そのときアツシは、心のどこかであると思っていた退路を完全に断たれた気がした。

 ――俺は帰れない? このわけのわからない状況に抛り込まれて、あれやこれやと新しい荷物を持つように云われて、それを背負って生きていかなきゃいけないのか?

「行くよ」

 途方に暮れるアツシにそう云って、ハリーは階段を上り始めた。どうあれ、彼が自分を導いてくれるたった一人の人間だった。アツシはレナともに、ハリーを追いかけて階段を上っていく。

 そしてやってきたのは、一枚の扉の前だった。扉は塔の内側を向いているが、この先にあるのは部屋や廊下ではないのだろう。ハリーが扉に手をかけながら云う。

「着いたよ。この先がこの塔のてっぺん、すなわち屋上だ」

「色々説明するのに高いところの方が都合がいいって話ですけど……」

「イエス。そして僕のマイティ・ブレイブを見せる上でも都合がいい。さあ、行こう」

 ハリーはそう云うと扉を片手で重そうに押し開けた。風と光りが入ってくる。

 扉の外は、なるほど塔のてっぺんだった。青空の下、強く冷たい風が吹いている。周縁部には転落防止用の柵といったものはないが、ぎりぎりまで近寄らずとも、景色を眺めるのに不足はない。

「こっちへ」

 アツシはハリーに導かれるまま、屋上の中心と周縁の中間に立って、そこからの眺めにしばし心を奪われた。そこに広がっているのは城壁に囲まれた街だった。太陽の位置からして、時間的には昼下がりだろうか。風は秋の色を帯びている。

「ここは……」

「これが人類最後の砦、ラストガーデンの王都だ」

 ハリーのその言葉を聞いても、王都の街並をぼんやりと眺めていたアツシは、しばらくしてやっと思い出したように云った。

「なんか、ファンタジー映画で見た街並を思い出しました」

「うん、僕も最初同じことを思った。まあ詳しい奴によると、この世界の元々の文明は十二世紀レベルってとこだったらしいんだけどね。でも今は地球の勇者が持ち込んだ知識や技術でだいぶ変わってる。初期の勇者が真っ先に手をつけたのは衛生面と倫理面での意識改革だったらしい。僕が召喚されてくるよりずっと昔はとにかく不潔で、あと奴隷とか差別とかがひどかったらしくてね。それをキリスト教の教えを広めてなんとかしたって話だ。こっちの元々の宗教との衝突もあって大変だったらしいが」

「へえ……」

 アツシはそう相槌を打つと、人々の群れに目を凝らした。

「でもなんていうか、結構、平和そうに見えるんですけど。モンスターに襲われて人類はやばいって云ってましたよね?」

「ああ、それは壁でモンスターの侵入を防いでいるからさ。壁のなかは平和だよ。壁のなかまでは、モンスターも入ってこれない」

「壁って、あれのことですか?」

 アツシは街の果てにある壁を指差した。見たところこの塔は都市で一番高い建築物だが、都市の中心からは少しずれた位置にある。中心にあるのは立派な城で、その城から輻射状に道が伸びており、その道に沿って建物が並び、どの道も城壁にぶつかって終わっている。つまりこの都市は三六〇度をぐるりと円形の城壁に囲まれているのだ。

 だがハリーはかぶりを振った。

「いや、あれはただの市壁だ。僕が云っているのはあれさ」

 ハリーはまっすぐ地平の彼方を指差した。市壁の向こうには緑の大地が広がり、その先になにかがある。

 アツシは最初、山かと思った。日本は山国だからほとんどどの町でも、高いところから遠くを見渡せば、たたなわる山々が青く霞んでいるのが見える。ちょうどそれと同じ感じで、地平の彼方に巨大なものが霞んで見えた。だが山にしては上辺が揃いすぎている。

「あれは山じゃない。人口の建造物……壁?」

「そうだ。あの壁はこの大地を三六〇度ぐるりと正円に囲んでいるんだ。そのなかに城塞都市や、町や村なんかがあるってわけ。ここは……王都だ。箱庭のちょうど中心に位置する、この人類世界の首都だ。そして壁に囲まれたこの大地をラストガーデンという。人類に残された最後の領土の面積は、三万一四〇〇平方キロメートル」

 そうはっきり云われて、アツシは目を丸くした。

「測量できてるんですか?」

「ああ。壁によって正円を描くこの大地の半径は、ぴったり一〇〇キロメートル。したがって壁の総延長は六二八キロメートルだ。六二八キロメートルの壁が、この大地をまあるく取り囲んで、壁の外にいるモンスターの侵入を防いでいる。それが人間世界のすべてであり、あの壁を守るのが勇者の任務であり、壁の外は魔境だ。ここはそういう世界だよ。これを見てほしくて、召喚されたばかりの勇者はここへ連れてくることになっているんだ」

 アツシは大いに沈黙し、地平の彼方に霞んで見える壁にじっと目を凝らした。

 ――壁のなかの世界、ラストガーデンか。

 半径一〇〇キロメートルの正円を描く、総面積三万一四〇〇平方キロメートルの大地ということは、日本で云うと近畿地方と同じくらいの面積だ。京都を中心にした場合、東は名古屋、西は姫路、北は若狭湾の海上、南は奈良県南部の山岳地帯といったところである。広いと云えば広いが、人類最後の領地と考えるとどうだろうか。

「……あの壁、大丈夫なんですか? 壊されたりしないんですか?」

「もちろん魔王の号令一下、モンスターは壁を突破しようと何度も攻撃を仕掛けてくるよ。だからそれを守るために勇者が壁の各地に配置されているんじゃないか」

「もし、壁が破られたら?」

「終わりだね。まず現地人が死ぬ。次に現地人の支援をなくした勇者たちも疲弊して死ぬ。だからそんな状況を阻止するために、一人でも多くの勇者の協力が必要なんだ。君はどうだい?」

 アツシは返答に詰まった。

 そんな話を聞かされては、厭だとは云えない。しかしその一方で快諾もできない。まだわからないことが多すぎたし、性急すぎた。与えられた情報のすべてをかみ砕いて消化するにはもう少し時間が必要だった。

 ハリーもそのあたりのことをわかってくれているのか、恥ずかしそうに頭を掻いて云う。

「だよね、僕も時間がかかったよ。だからこうやってこの世界のことを順番に教えてるってわけ。召喚されたばかりで右も左もわからない人にどうやったら信じてもらえるだろう、受け容れてもらえるだろうって、みんなで考えた結果の段取りさ」

 それにはアツシもちょっと笑った。

「つまりここまでスクリプト通りに進行してるわけですね」

「そういうこと。というわけで、次のフェーズは僕のマイティ・ブレイブを見せることだ。まずはあれを見てほしい」

 ハリーはそう云って王都のなかの一区画を指差した。アツシは目を凝らし、そしてあることに気づく。

「あれ? なんかあそこだけ、他と違うって云うか……壁に囲まれてますね?」

「そう。壁に囲まれた人間世界のなかに、壁に囲まれた都市があり、その都市のなかでさらに壁に囲まれた区画がある。あそこは勇者特区って云ってね、王都って云うだけあってこの人間世界は現地民の王様が治めてるんだけど、あそこだけは王の支配の及ばぬ治外法権、勇者たちに解放された勇者たちの住む街だ。全勇者の住居はあそこにある。裏を返すと、異世界人である僕らがあそこ以外に住居を構えることは法によって認められていない。君もあそこに住むことになるし、さっき云った訓練のための施設もあそこにある」

「な、なるほど……勇者特区ですか」

 また新しい知識が増えたと思っているアツシに、このときハリーが云った。

「さて、それじゃあこっちを向いて立ってくれ、そう、その位置だ」

 アツシはハリーに云われるまま体の向きを変え、塔の縁を背にしてハリーと向かい合った。レナは二人から少し離れたところに佇んでいる。

 いよいよ、ハリーのマイティ・ブレイブとやらを見せてもらえるのだろうか。そう期待するアツシの視線の先で、ハリーは右拳を掲げて云う。

「繰り返しになるが、勇者は召喚の際に三つのものを獲得する。一つがこの世界の言語、もう一つがマイティ・ブレイブだ。勇者は一人一人異なるマイティ・ブレイブを持っていて、ある勇者のマイティ・ブレイブが別の勇者のマイティ・ブレイブと重複するということは、記録にある限りでは一度もない。似たような結果をもたらすマイティ・ブレイブでも、発動条件が違ったりするんだ。代償や媒体が必要だったりね。そして僕のマイティ・ブレイブは、名前をエアリアルハンマーと云う」

「エアリアルハンマー?」

 うん、とハリーは相槌を打って続けた。

「能力は単純な吹き飛ばしだ。発動に際して特に条件はない。代償も必要ない。人でも物でも関係ない。相手をぶん殴ることで、視界で捉えられる範囲内であれば対象をどこへでも吹き飛ばすことができる。不思議なのは、吹き飛ばされた人間が一切の怪我を負わないということだ」

 アツシは自分の耳を疑った。

 ――一切の怪我を負わないだって?

「そんなことが……」

「不思議だろう。だからマイティ・ブレイブは神の力、奇跡の力って呼ばれているんだ。ところで質問なんだけど、たとえば君がここから勇者特区まで吹き飛ばされた場合、普通ならどうなると思う?」

「そりゃ死ぬでしょ」

「うん。まずここから勇者特区まで飛ばされるほどの衝撃を受けた時点で骨も内臓もミンチになって死ぬし、しぶとく生き残ったとしても吹き飛ばされた先でやっぱりミンチになって死ぬよね。それが常識というものさ。ところが!」

 そこでハリーは得意そうにアツシに右の拳を突きつけた。

「僕のエアリアルハンマーは違う。ぶん殴っても怪我はしないし、何百メートル先に放物線を描いて着弾したとしてもやはり傷一つ負わない。だから僕は人間や荷物を運ぶための都合のいい砲台として使われているんだよ」

 話を聞いているうちに、だんだんアツシの顔色が悪くなってきた。

「ハリーさん……それが本当だとすると、この先の展開が読めてきたんですが……」

 するとハリーが愉快そうに笑った。

「クールだね。話が早くて助かるよ」

 そう云ってハリーはアツシに近づいて来ようとした。それを見てアツシは慌てて云う。

「待って待って!」

「いや、待たない。今日、新たな勇者が召喚されることは周知の事実だから、勇者特区では新勇者を歓迎するための準備が進んでいる。そのなかの一人にニコラってやつがいてね、彼のマイティ・ブレイブは相手の力を見抜く能力だ。そのマイティ・ブレイブの力を使えば、君のマイティ・ブレイブについてだいたいの見当がつくだろう」

「だいたい? 完全には無理なんですか?」

「判るのは大まかな分類だけで、詳細までは見極められないらしいよ。僕は最初その話を聞いたとき、なんて使えない奴なんだって思ったけど、実際はそれでも十分らしい。彼が現れる前までは自分のマイティ・ブレイブが戦闘向きなのかどうかも判らないまま、闇雲に戦って死んでいった勇者もいるって話だからね」

 アツシの呼吸が一瞬止まった。恐怖と驚きがそうさせたのだ。そんなアツシの心を手に取るように見ているらしいハリーに、アツシは暗澹たる面持ちで尋ねた。

「死人が、出てるんですか?」

「戦いだからね」

 そこでハリーは軽く頭を掻くと背筋を伸ばし、顎を引いて真面目な顔になった。

「勇者の進路は主に三つ。壁を守るか、壁の外に出るか、それ以外かだ」

 アツシとしては、やはり二番目が気になった。というより、おののいた。

「壁の外に出るって……」

「防衛に徹すれば安全だが、それではなにも変わらない。壁の外になにがあるのか調査する。特に地図を作るのは重要だ。他にはモンスターを退治してその死体を持ち帰り、生態を解明する。壁外の資源を採取する。外に人間種族やそれに類する種族が隠れ住んでいないか探す。そして可能であればモンスターの親玉である魔王に戦いを挑み、これを討つ」

 すらすらと云われたその言葉の数々は、どれも矢のようにアツシの心に刺さった。勇気と力があれば、それはきっと心躍ることだろう。壁を守って現状維持だけを望むよりは、よほど生気に溢れている。しかし。

「……で、壁の外に出てどれくらい死んだんですか?」

「二二三人。八六七人中、二二三人の勇者が、壁外で死ぬか行方不明になっている。地球に帰ることもできず、この異世界で命を散らしたんだ」

 その冷たく過酷な事実を前にアツシは天を仰ぎ、それから俯いた。

「四分の一が死んでるって、それかなりやばいんじゃないですか?」

「そうだ。モンスターは強い。と云ってもピンキリだが、ランクの高いモンスターと当たった場合、マイティ・ブレイブを持つ勇者でも一対一ではまず勝てない。多対一の状況に持ち込んで、相性のいいマイティ・ブレイブを持っていれば、どうにか……といったところだな。ランクの低いモンスターでも相性が悪かったりするとやられる」

 それきり沈黙が二人のあいだをしめた。レナは傍らでアツシの様子を気がかりそうに見ているが、口を挟んで来ようとはしない。

 やがてアツシが沈黙を破った。

「まあ俺は、まだモンスターってのを見てないんで、話半分って感じですけどね」

「ハハハ、いいよ。いきなり怯えられても困るからね」

 そう云って呵々と笑うハリーに、アツシはふたたび尋ねた。

「ところで勇者の進路の三つ目……それ以外っていうのは?」

「それ以外はそれ以外さ。戦闘向きのマイティ・ブレイブを持っていない者、むしろ後方支援に適任というマイティ・ブレイブを持っている者、新米勇者の訓練担当官、マイティ・ブレイブが有用すぎて護衛対象になった者、そもそも勇者として活動することを完全に拒否した者……などなどだ」

「なるほど……」

 そう答えつつ、アツシはそう遠くないうちに迫られる選択のことを考えていた。今のところ壁の外へ行くのは論外に思える。二百人も死んでいるのだ。自分はそんな命知らずにはなれそうもない。とはいえ、元の世界に戻る術がなく、この世界で生きていかねばならぬと云うのなら、なにか仕事をしなくてはならないだろう。

 ――とにかくモンスターってやつを一度見てみないことには決められないんだが。

「壁を守るのがベター」

 突然ハリーにそう云われて、アツシは飛び上がるほど驚いた。心を読まれたと思った。そのときのアツシの顔が面白かったのか、ハリーが大きな声で笑う。

「ハハハ! 顔にそう書いてあったよ。ま、みんなだいたいそうだ。壁の外へ行きたがる奴は少ない。かといってなにもせずぶらぶらしていると恥ずかしくなる。そこで壁を守りモンスターの侵入を防ぐという任務に腰を落ち着ける。それが普通の勇者だ」

 そこでハリーは言葉を切ると、仕切り直すように云う。

「すっかり横道に逸れて話し込んじゃったね。話を戻そう。これから君に僕のマイティ・ブレイブを見せる。エアリアルハンマーで、君を勇者特区のニコラのところまで吹き飛ばす」

「……やっぱり!」

 それを予想していたアツシは、うろたえた様子で後ずさった。そんなアツシにハリーが一歩迫る。

「ここで僕が君をぶっ飛ばしてニコラにあとを任せるのはシナリオ通り。だから安心してくれていい。君のマイティ・ブレイブの鑑定とその後のことは、ニコラがやってくれる。君のあとでレナも送るから心配するな」

「ちょ、ちょっと待って――」

 アツシが目を前に戻すと、ハリーは既に右の拳を構えていた。

「じゃあ行くぞ、痛くはないから安心しろ」

「だからちょっと待ってって!」

 及び腰になるアツシに、ハリーは待たぬとばかりにもう一歩迫った。

「エアリアル――」

 そのとき、ハリーの右拳が青い光りを帯びた。こんな現象は、地球ではもちろん見たことがない。人体が色づいて発光するさまは、実際目の当たりにしてみるとひどく奇妙だ。アツシがそれに目を奪われた瞬間だった。

「ハンマー!」

 そして渾身のアッパーカットがアツシの腹部で炸裂し、次の瞬間、アツシは砲弾よろしく空中へ向かって打ち上げられていた。

 自分の体が上空へ向かって引っ張られていく。クレーンで運ばれる荷物になったらこんな感じだろうか。いや、実際はクレーンで運ばれるよりずっと速い。ハリー、レナ、先ほどまで立っていた塔、城と街並、そうしたものがすべて見渡せる。市壁に囲まれた街が眼下に一望できる。

 そして放物線の頂点に達したとき、今度は落下が始まった。

「あ――」

 落ちていく。下腹部にひゅんと冷たい風が吹くようなあの感じとともに、アツシは落下していた。

「ああああああ――!」

 そんな声が自然と口から出てしまった。本能的なものでどうしようもない。本当に大丈夫なのか。このまま地面に落ちればバラバラになって墜落死するのが普通ではないか。

 そう焦ったとき、アツシはどこかの屋敷の塀に囲まれた緑の庭にぴたりと着地してしまった。着地といっても背中から落ちたのだが、衝撃はなにもなく、かといって優しく抱き留められるのでもなく、気持ち悪いくらいにいきなりピタリと止まったのだ。

 アツシは目をぱちぱちさせ、まるで悪い夢でも見ているような気持ちでゆっくり身を起こした。そして芝生の上に尻餅をついたまま、蒼白な顔で飛ばされてきた方を見れば、天に向かって聳える巨大な塔が遠くに見えた。

「……あ、あそこから飛ばされてきたのか」

 日本で津波に呑まれたはずが別の場所にいて、日本語ではない未知の言語を操り、今物理学では説明不能なマイティ・ブレイブの力も身を以て味わった。

「あ、あー……」

 そんな虚けたような言葉を発しながら、アツシは頭を抱えていた。

「マジで、異世界……地球じゃない? 帰れない? 勇者って……」

 そのとき、一陣の風が吹いて蜂蜜色の髪を三つ編みにした美少女が、これはアツシの隣に綺麗な着地を決めていた。彼女はすっくりと背筋を伸ばすと、まだ尻餅をついているアツシを見下ろして驚いた顔をした。

「アツシ様、どうかなさいましたか」

「レナ……」

 アツシはレナの麗容を頭から爪先まで眺めたあと、力なく笑った。

「いや、平気だよ。ところでハリーさんは?」

「エアリアルハンマーは御自身には適用されません」

「なるほど。まあ砲台は砲弾にはならんよね」

 アツシは納得すると、立ち上がって尻を払った。そこへレナが軽く胸を張って云う。

「ここからは私がご案内します。従者ですから」

「それだ。その従者ってなんなんだ?」

 それがアツシには最初からわからなかった。文字通りに受け取れば、自分が主人でレナはアツシに従う者ということになるのだが、どうしてそんな待遇を受けるのかが判らない。

 レナは一つ頷くと、屋敷の庭先で話し始めた。

「従者とは、異世界に召喚されて右も左もわからない勇者様をお世話する存在のことです。召喚されたばかりの勇者様は当然、こちらの世界のことをなにも知りません。そこでこちら側から一人専属の従者をつけて、案内、交渉、生活の世話全般をするという取り決めになっているのです。アツシ様の従者は私です」

「なるほど」

 つまり現地人のガイドということだ。どこの国でも観光名所では外国人を相手に通訳や案内を商売にしている者がいるが、それと似たようなものであろう。

 だがアツシには一つ気がかりなことがあった。

「……俺が召喚されるとき、君を見たような気がするんだが」

「それが従者の最初の仕事です。召喚の媒介となり、異世界で命を落としかけている誰かに手を差し伸ばし、その手を取ってもらう。つまりあなたをこの世界へ引っ張り込んだ張本人は、私なのです」

 レナはそう云うとアツシの前で恭しく膝をつき、頭を下げた。

「我々は異世界の人間を召喚し、彼らを勇者とすることで生き永らえている者です。その意味を知らぬ我らではありません。皆、勇者様たちを尊敬し、また申し訳なく思っております。ですから生活する上での煩わしいことはすべて私がこなしてみせます」

 そこでレナが顔をあげ、輝く瞳でアツシを見てきた。

「遠慮なくなんなりとお申し付け下さい、従者ですから」

 そう澄み切った声で云い切るレナを、アツシは途方に暮れたような目で見た。このような忠誠を捧げられても、こちらにはそれを受け容れるだけの器がない。

「……俺はただの高校生だったんだぞ。いきなりこんな展開に巻き込まれても……もし俺が勇者しないって云ったら、君はどうするんだ?」

「気が変わるまでお仕えいたします。実のところ最初からすぐにこの運命を受け容れる方は少ないのです。葛藤するのが普通なのです。それがどのくらいの期間に及ぶのかは人によりますが、勇者様には無限の時間があるのですから、きっといつかは立ち上がって下さると私は信じています」

 そう云うレナの清い瞳を、アツシは直視できずに青い空を見上げた。

 ――そんな目で見られても困る。だいたい無限の時間ってなんだよ。ああもう。

 いつまでも空を見上げているわけにはゆかず、アツシは顔を前に戻すと急いで云った。

「とにかく、まだどうするかは決めてないから。とりあえず立ってくれよ。いつまでもそんなんじゃ俺が困る」

「はい」

 レナは云われた通りに立ち上がるとスカートの前身頃を自然に払い、背筋を伸ばしてアツシを見上げてきた。アツシに比べると、レナはだいぶ小柄で骨細である。そして綺麗だった。見れば見るほど可憐に思えてくる。アツシはレナに見入り、レナは真面目な顔をしてアツシの視線を受け止め、二人はそのまま見つめ合った。そのときだ。

「――もういいかな」

 突然の男の声にアツシとレナがはっとして振り返ると、いったいいつの間にそこにいたのか、金髪に緑の目をした背の高い男が立っていた。顔立ちは絶妙であった。つまり目鼻立ちは整っているのだが眉は太く、また頬は少しふっくらしており、無精髭などを生やしている。見ようによって美男にも醜男にもなるような、二十代くらいの男だ。

「あなたは……」

「私はニコラ。勇者ナンバー六〇三。地球にいたときはフランス人だったよ」

 ニコラは異世界の言語でそう名乗りをあげた。そのとき日の光りでも入ったのか、緑の目がきらっと光った。

「君が今日来る予定の八六七番目の勇者だな。名前は?」

「アツシです。日本から来ました」

「よし、アツシ。ハリーがきちんと仕事をこなしていれば、私のところへ飛ばされてきた理由について、彼からもう説明を受けているはずだが」

「はい、まあだいたいの事情は把握してますよ。それであなたが、俺のマイティ・ブレイブに見当をつけることが出来るって……」

「そうだ。それが私のマイティ・ブレイブ……人間でもモンスターでも相手の特性を看破する能力だ。これでだいたい君がどういう系統のマイティ・ブレイブを持っているかが判る……というか、もう判った」

「えっ?」

 目を丸くするアツシの前で、ニコラはいたずらっぽく笑うと指で自分の瞳を指差した。

「私のマイティ・ブレイブは瞳に宿る。力を使うぞ、と思って見れば、それだけで発動するのさ」

 呆気にとられたアツシは、しかし先ほどニコラの目が不思議に光ったことを思い出した。

「あのとき、ですか」

「ほう、気づいたか。注意力があるのはいいことだ。それが足りないと壁の外に出たときにすぐ死んでしまうからな」

 軽く云われた言葉ではあるが、アツシは死の一文字に胸がふさがれるような思いだった。人間誰しもいつかは死ぬものだが、多くの人はそこから目を逸らして生きている。それはアツシもそうだった。

 その気持ちが顔に出たのか、無精髭の顎を撫でていたニコラは羨ましそうに云った。

「君は平和な時代から来たのだな。私の知っている日本は連合国と戦争中だったが……」

「――は?」

 それは全然違う話だったから、アツシはたちまち心が引きずり込まれるのを感じた。

「ど、どういうことですか?」

「ふむ、その様子ではまだ知らないようだな。この世界の時空と地球の時空には相関関係がない。召喚される勇者は、地球のどの時代からでもやってくる。君が西暦何年からやってきたかは知らないが、とにかくみんな地球にいたときの元時代がばらばらなのだ」

 それは途方もないことだったから、アツシはその瞬間に考えるのをやめた。

「……そうなんですか」

 そのまま黙ってしまったアツシに代わり、レナが声をあげた。

「それより勇者ニコラ様、アツシ様のマイティ・ブレイブについてですが」

「おお、そうだった」

 ニコラは破顔すると、改めてアツシに眼差しを据えた。アツシは急いで心の準備を整えようとしたが、それに先んじてニコラがあっさり云った。

「結論から云うと、君のマイティ・ブレイブは召喚系だ」

「召喚……? 地球から召喚された俺がまた召喚?」

「世界は二つだけではない。地球のある宇宙や、この世界のある宇宙のほかにも、様々な宇宙がある。召喚系マイティ・ブレイブだと、そうした百万宇宙のどこかからなにかを呼ぶ力、ということになるな。典型的なのは精霊の住む世界から火や水の精霊を召喚して使役することだ。もっと詳しいことは、訓練過程が始まったら座学の授業で習うといい」

「訓練、ですか……」

 アツシは眉をひそめた。この世界で生き残るためにやらねば仕方がないのだとわかってはいても、訓練の二文字には及び腰になってしまう。

 そんなアツシをどう思ったか、ニコラは呵々と笑ってアツシの肩を叩いてきた。

「まあ、そう構えるな。神は乗り越えられない試練は与えないと云う……訓練は厳しいが、なんとかなるさ」

 そうのどかに云ったニコラは、そこで急に話題を変えた。

「ところでアツシくん、お腹が空いていたりしないかね?」

「……ちょっと」

「よし、では勇者特区の外の店まで食べにいこう」

「外へ?」

「そうだ。私の家でもこの勇者特区でも饗応することはできるが、君の場合、まずは軽くでもいいから、この王都を自分の足で見て回った方がいいのではないかね?」

 それはもっともな話だった。どうにせよ、これから自分はこの世界で生きていかねばならない。土が水を吸い込むより速くこの世界の知識や常識を身につけねばならぬ。

「そうですね、お願いします。ついでに歩きながらでいいですから、この世界のこと、もっと教えて下さい」

 こういう次第で、アツシとレナとニコラの三人は食事に向かうことになった。その道すがら、ニコラはアツシに実に色々なことを話してくれた。

 この世界は元々地球で云うと十二世紀レベルの文明を持っていたと云う。そこへ先任の勇者たちのなかでも二十世紀前後から来た者が中心になって倫理面や衛生面で革命を促したらしい。一方で二十一世紀にあったさまざまな技術の再現はできていない。

「まず召喚されてきた勇者たちの年代元に六千年のばらつきがあるから、銃や電気を知っている時代から来た者が限られる。その上、召喚されてくる勇者はどういうわけか、みんなだいたい若いんだ。だから学生レベルの知識しかない。電話や飛行機の存在を知ってはいても、それをどうすれば実現出来るのかがわからない。たまにある分野に妙に詳しい奴もいるんだが、今度はそいつの知識を活かせる重機や設備がなかったりしてな……とにかく地球文明の再現は上手くいっていない状態だ」

「つまり銃も電気もないんですね?」

「うむ。残念ながら我々は剣や槍といった原始的な武器で戦わねばならない。もっとも銃があったところで、モンスターが相手では焼け石に水だろうと云われているがね」

 そうしたニコラの話も興味深かったが、実際に街を歩いてみて目についた諸々についても実に興味深かった。まず街は活気に溢れている。子供に笑顔があるのはいいことだ。それでいてストリートチルドレンのような子供の姿はない。

「この世界に来た勇者たちの仕事の一つに福祉施設を作ったというものがある」

 とは、ニコラが教えてくれたことだった。

 またキリスト教と現地の宗教に対立があるというようなことをハリーが云っていたが、ときおり道端で跪いて勇者特区の方に向かって祈っている人の姿が見受けられた。まるで勇者特区に神が住んでいるかのようだった。

 そして人々の身につけている衣服だが、これはどことなく地球的な匂いがした。レナの着ている服からしてそうだ。

「……ニコラさん、この世界の服って」

「被服については、我々が転移してきたときに着ていた服を元にして地球のものが再現された。ただこの世界の元々の服装と合わさって、地球とは異なるデザインのものに振れたようだ。フランス人としてはあまりセンスを感じぬ服だが仕方あるまい」

 ほかにも地球人がこの世界に影響を与えたものに名前がある。ちょうど欧米人が聖書の聖人たちの名前を自分の子供につけるように、この世界の人々は彼らを守るために戦って死んでいった勇者たちの名前を自分の子供につけるようになったらしい。

「……ゆえに今では、地球風の名前を名乗る者が多いのだ。レナもそうだね」

 また度量衡は現地のものとメートル法とヤード・ポンド法が混在しているらしい。勇者と勇者、勇者と従者のあいだではメートル法で意思疎通ができるが、こちらで暮らす以上、現地の度量衡も覚えておかないとのちのち困ることになると云う。

 一年は三百六十五日で一日は二十四時間、星座があり、恐らく惑星で自転と公転を行っているらしいということだ。

 それらの話にアツシが相槌を打っていると、行く手に城が見えてきた。アツシはその城に視線を吸い込まれそうになりながら云う。

「あの城って……」

「ここはラストガーデンの王都、だからあの城には王が住んでいる」

「王様がいるんですね」

「うむ、最初の勇者が召喚される以前から、厳格な絶対王政だったようだな。ただ勇者は王権の外側にいるので安心してくれ。壁のなかの民は王の臣民だが、勇者はそうではないのだ。地球の感覚で云うと外国人扱いかな。こっちの政治に関わる権利はない。それ以外にも色々な権利が制限されている。実を云うと軋轢もなくはない。王家にしてみれば余所者である我々に頼らねば生きていけないのが面白くないのだろう。だが対モンスターを想定した場合の唯一にして最大戦力であるから、勇者たちが一つ集まって住む居住区……勇者特区内においてのみ、治外法権が認められている」

「へえ」

 ――日本で云うと在日米軍みたいなポジションなのかな。

 アツシがそんな風に考えていると、ニコラが思い出したように云った。

「ところでそろそろ、どこで食べるか決めようか」

 その言葉にアツシははっと息を呑んだ。一番大切なことをまだ聞いていない。

「あのう、そう云えばこの世界の食べ物って?」

「ふむ、それは百聞は一見にしかずというやつだな」

 こうしてアツシは王城近くの料理屋に入ることになった。


「……意外に美味しかったですね」

「うむ、食はもっとも重要だからな。これについては先任の勇者たちがかなり頑張って地球人と現地人の双方が美味しいと感じられる料理を編み出したのだ。材料は現地のものを使っているから、地球の料理を完全再現とはいかんがね。そして同じ食事ができることから、地球人とこの世界の人間は生物としてほとんど同種と考えていい。子供もできるし」

「へえ」

 と、そんな話をしながら、アツシたちは勇者特区に戻ってきた。そのころには太陽は少し動いて、昼と夕方の中間くらいの時間になっていた。

 ニコラの屋敷に着いたとき、門前に男が立っていた。あきらかにここでニコラの帰りを待っているような様子だった。知り合いだろうか、とアツシがニコラの顔を横目で見ると、彼は目を丸くするほど驚いていた。

「トロイ殿!」

 ――トロイだって?

 それはアツシがこの世界に召喚されたとき、レナと会話をしていた男の名前ではなかったか。アツシがそう心打たれていると、レナが一歩前に出て不思議そうに尋ねた。

「トロイ様、なぜこちらに?」

「無論、そこの新米に用があるからだ」

 トロイと呼ばれた男は威厳のある声でそう云うと、アツシを見据えながらこちらに歩を進めてきた。

 トロイは見たところ二十歳くらいで、褐色の髪をした長身の美男子である。それが中世のヨーロッパ風の騎士装束をしており、つまり剣と鎧で武装していた。見るからに気位が高そうな面構えで、アツシは彼から威風を感じてちょっと後ずさりしたほどだ。

 やがてアツシの目の前に立ったトロイは云った。

「俺はトロイ、勇者の一人だ」

「えっと、トロイ様は勇者様たちのなかでも将に当たるかたです。協力してモンスターから壁を守ったり壁外で活動する以上、同じ勇者様でも将軍、隊長、兵士、後方支援などに役割が分かれますので……トロイ様は勇者全体を統括するリーダーの一人と考えてもらって間違いありません。つまり偉い人です」

 そう早口でアツシに教えてくれたレナが、トロイを見ると云った。

「トロイ様、こちらはアツシ様です」

「どうも」

 と、ひとまずアツシがそんな挨拶をしたとき、ニコラが傍から云った。

「それでトロイ殿、いったいどういうことですかな? 彼はこのあと私が訓練教官に引き渡す手はずだったはずですが……」

「予定が変わった。予言が下りてな」

「予言?」

 鸚鵡おうむ返しに呟いたのはニコラだったが、アツシにしたところでなにがなんだかさっぱりわからない。目顔で説明を求めると、トロイは段階を踏んで話してくれた。

「勇者のなかに一人、未来視ヴィジョンのマイティ・ブレイブを持つ者がいる。当たることもあれば外れることもあるのだが、そいつが云うのだ。今回の勇者は我々の状況を大きく変える可能性を持っているらしい……とな」

 それにはレナが息を呑んだ。

「アツシ様!」

 レナはきらきらした目でアツシを見てくるが、アツシとしてはとんでもない話である。

「いや、待ってくださいよ。なんですか、予言って。俺がそんなはずないでしょう」

「自分の可能性を自分で狭めるような発言はよせ」

 そうたしなめられ、思わず絶句したアツシに代わって、またニコラが云う。

「仮にその予言が当たっているとして、どうなのです? 彼はまだ素人でマイティ・ブレイブにも覚醒していない。予定通り、訓練するしかないでしょう」

「それはそうなのだが、オヴェリアが会ってみたいと云い出したのだ」

 するとレナが驚喜の声をあげた。

「オヴェリア様が!」

 レナにとっては心を揺さぶる名前らしいが、アツシにとってはまったく知らない誰かの名前である。アツシはレナの方へ顔を近づけて尋ねた。

「オヴェリア様って誰だい?」

「二百年前に降臨された最初の勇者様であり、人類最大の救世主です!」

 アツシは一瞬、なにを云われたのかわからなかった。少しはこの状況に慣れたと思っていたのが、一気にひっくり返された思いがした。

「は? に、二百年前? 二百年前だって! そんな長生きなのか?」

 するとトロイとニコラが不思議そうに顔を見合わせ、やがてトロイが舌打ちして云った。

「さてはハリーめ、説明を省いたな」

「説明? どういうことなんですか?」

 うろたえるアツシに、トロイではなくニコラが噛んで含めるがごとくに語り始めた。

「勇者はこの世界に召喚された時点で三つのものを獲得する」

「それは知ってますよ。一つは言語で、一つはマイティ・ブレイブ。もう一つは――あれれ?」

 そういえば三つ目をまだ聞いていない。そこのところに心づいたアツシに、ニコラは恬淡とした口調で云った。

「三つ目は寿命だよ。不老長寿だ。勇者は戦いで死ぬことはあっても老衰で死ぬことはない。成長が老化に変わる瞬間、肉体の時間が止まってしまうのだ」

 アツシはなにを云われたのか、すぐにはわからなかった。

 そこへ今度は傍からレナが云う。

「勇者様の召喚は三ヶ月に一回しか行われないということは、既にハリー様が口走っておられたと思います。アツシ様はそのあたりをよく考えておられないようでしたが、アツシ様が八六七番目の勇者で、勇者は一年間に四人しか召喚されないということは、最初の勇者であるオヴェリア様が召喚されたのはいつでしょう?」

 そのくらいの計算は簡単だった。そして勇者が召喚の際に得る三つ目のものと合わせて考えると、途方もない事実がのしかかってくる。

「……に、二百年以上生きてるってことですか」

「その通り」

 そう云ったニコラが、アツシの見ている前でちょっと気取った風に立ち姿を変えた。

「かく云う私も、もう本当は八十歳のお爺さんなのだ」

「あー……」

 と、アツシはそんな風に呻いてしまった。捉えようによっては失礼な態度だったのかもしれないが、とにかくそれほど驚いた。

「そうなん、ですか……本当に?」

「本当に」

 そう断言されると、アツシの揺れていた心の水面も次第に静まっていった。

「そうか……じゃあオヴェリアさんが救世主っていうのもわかりましたよ。二百年前に降臨した最初の勇者っていうなら、そりゃそうでしょう。きっと多くのモンスターを倒したんでしょうね」

 するとこれにはトロイが鋭く切り込むような口調で云った。

「いや、彼女は一匹のモンスターも退治していない」

「えっ?」

「なぜならば彼女のマイティ・ブレイブは結界系だからだ。攻撃には使えない」

「結界系……それってつまり、どこかを守ったりする力のことですよね? それで救世主って云われるほどになれるんですか?」

 これにはトロイではなく、レナが熱気に満ちた声で云う。

「今の人間世界があるのはオヴェリア様のおかげなのです。そのため彼女はこの勇者特区で皆に守られて暮らしておられます。もし彼女の身になにかあれば、この世界は崩壊しますから」

「世界が、崩壊……?」

 さっぱりわけのわからぬアツシに対し、話し手はふたたびニコラに移った。

「そう、オヴェリア殿は巨大な結界を作り出して、この世界を守っている。と、こう云われてなにか気づくことはないかね?」

「えっ、それは――」

「あれだ」

 ニコラはそう云って、空の彼方を指差した。街のどれかの建物を指差しているのではない。街をぐるりと取り囲む市壁を指しているのではない。かといって本当に空を指差しているのでもなかった。

 ニコラが指差しているのは、遠い彼方に山影のように霞んで見える壁である。

「ここは壁に囲まれた世界ラストガーデン。半径一〇〇キロメートルの正円をした大地が、巨大な壁にぐるりと取り囲まれている。それが人間世界のすべてであり、人類に残された最後の領地。壁の外は強大で猛悪なモンスターがうろついており、人は生きてはいけない。すべてあの壁が防いでくれている。その総延長は六二八キロメートル、高さは実に三〇〇〇メートルにも達する。壁の内部には無数の部屋と階段と、そして古典的クラシックなエレヴェーターがあり、空を飛ぶ魔物は、壁の上にそびえる不可視の障壁によって侵入することができない」

 そこで言葉を切ったニコラは、腕を下ろすとアツシに眼差しを据えた。

「そんな途方もない壁が、尋常な工事で作り出せると思うかね?」

 そう云われて、アツシは全身に鳥肌が立つ思いだった。

「では、あの壁は……」

「そう、あれはただの壁ではない。勇者オヴェリアのマイティ・ブレイブによって作り出された巨大な結界なのだ。つまりこの壁に囲まれた箱庭世界、ラストガーデンを創造したのは彼女なのだよ」

「じゃあ、街の人が勇者特区に向かって祈っていたのは……」

「オヴェリアに祈りを捧げているのだ。彼女は人類が生きられる箱庭の主なのだからな。もし彼女になにかあれば壁は崩れ、魔王に率いられたモンスターが一気に押し寄せてきて人類は滅ぶ。ゆえに彼女には王とえども頭が上がらない」

 アツシは言葉もなく、遙か彼方の壁を見て大いに驚いていた。

 最初にあの壁の話を聞いたとき、きっと先人が頑張って建てたのだろうなあ、としか思わなかった。だがよくよく考えてみれば、近畿地方とほぼ同じくらいの大地を丸ごと囲んでいるあの壁は、ほとんど山脈のようなものである。人間にそんなものを築くのは不可能だ。だがそれもマイティ・ブレイブによるものだとしたら、かろうじて得心がいく。そしてそのマイティ・ブレイブは、なんと強大な力であろう。

 アツシは霞んで見える壁をその目に映じて、ほとんど独り言のように云う。

「あれが結界系のマイティ・ブレイブ……マイティ・ブレイブって、そんなこともできるのか……」

「まさに神の力、奇跡の力だ。とはいえ、勇者のマイティ・ブレイブは千差万別、一人として同じマイティ・ブレイブは存在しない。その能力の方向性も力の大小も様々だ。君のなかに眠る召喚系のマイティ・ブレイブがいったいなにを呼ぶのかは……覚醒してみないことには、わかるまい」

「そう、ですか……」

 アツシの胸には自分のうちに眠る力への期待と不安があった。

 そこへトロイが云う。

「さて、オヴェリアはこの世界の要。勇者特区の中央にある彼女の屋敷で、複数の勇者たちに守られて暮らしている。今からそこへ、おまえを案内しようと思う」

 そんな最重要人物のところへ連れて行かれると理解して、アツシはたちまち気後れした。

「俺に会って、どうしようって云うんです?」

「おまえの人物を見極めたいのだそうだ。おまえがなにか特別な力を秘めているとして、その力をどう使う人間なのか……それは俺としても興味がある。ひょっとしたら、我々を悪い意味で変える人間なのかもしれん」

「なっ……」

 その言葉にアツシは、出会い頭に一撃喰らったような気分だった。そんなアツシを鼻でわらってトロイはなおも云う。

「……召喚されてくる勇者はすべてが善人というわけではない。極端な悪人も滅多にいないが、誘惑や欲望に負ける小物は大勢いる。おまえもその一人ではないか?」

 そう疑われて、アツシもまたトロイをせせら笑ってやりたくなった。いきなり異世界に召喚されてわけのわからない、自分ではなにも納得していないことをやらされようとしているうえ、そんな風に試されるとあっては、腹も立つと云うものだ。

「いいんですか? オヴェリアって人は重要人物なんでしょう。そんな彼女にどこの馬の骨とも知らない俺を近づけて?」

「なに、彼女のことは二重三重の構えで守っている。心配いらんさ」

「そうですか……」

 ――俺がどんな人間か知りたいだって? いいだろう、教えてやる。

 レナは命の恩人だが、オヴェリアは他人である。ひょっとしたらこの世界で初めて、云いたいことをはっきり云ってやれる相手かもしれない。

「いいですよ、行きましょう。そのオヴェリアって人に会いましょう」

 ――そしてはっきり云ってやる。俺はただの単なる十六歳で、おまえらの理屈に巻き込まれてモンスターなんぞと戦うのはまっぴら御免だって!

 アツシは涼しげな顔の下でそうした怒りの炎を高くあげていた。


 それからアツシはその足でオヴェリアの住まうと云う屋敷へ向かうことになった。先頭を歩くのが案内のトロイで、以下アツシ、レナ、ニコラだ。

「どうも妙な成り行きになってしまったな」

 そうぼやくニコラに、アツシはトロイの背中を見ながら尋ねた。

「あのトロイって人、普段はなにをしてるんですか? レナによると将で、リーダーの一人とかいう話ですが……」

「うむ、彼は六番目の勇者で十二将の一人だ。十二将と云うのは心技体、それに有用かつ強力なマイティ・ブレイブを兼ね備えた十二人の勇者のことで、文字通りの将軍としてほかの勇者たちを統率し、壁の防衛や壁外遠征の指揮を執る。なかでもトロイ殿は壁外遠征の部隊長だ。今は遠征がないからここにいるが、一年の半分以上を壁の外で暮らすような男だよ」

「一年の、半分……!」

 アツシはぎょっとしてトロイを見た。彼に悪感情を懐きかけているアツシですら、それは素直に凄いと思えることだ。尊敬と悔しさの入り混じった目でトロイの背中を見れば、心なしか先ほどよりも大きく見える。

「案外、壁の外でも平気ってことはないんですよね……?」

「それは壁からの距離による。壁に近い部分はかなり安全が確保されているな。だがそれよりなにより、彼は特別なのだ。あの魔王と戦って唯一生還した男だからな」

 その言葉にアツシはその場に足を縫い付けられてしまいそうになった。だが他の皆は止まらないので、どうにか足を動かして前に進みながらニコラに身を寄せて訊ねた。

「そうですよ。色んなことがありすぎてすっかり訊くのを忘れてましたが、その魔王ってなんです?」

「魔王は魔王だよ。一部の勇者たちには双頭の竜魔王と呼ばれている、モンスターの親玉。無数の魔物たちを率いて何度も壁に挑んでくる。動機や正体は不明だが、目的は人類を滅ぼすことで間違いない。その戦闘力は凄まじく、唯一交戦経験のあるトロイ殿によると歴戦の勇者たちでも歯が立たず、壁がなければ間違いなく人類は滅ぼされていたらしい。実際、八十年前にトロイ殿が魔王と遭遇したとき、トロイ殿以外の勇者は皆殺されたのだ。そしてわかっていることは、奴が人類の敵だということだけだ」

「た、倒せそうですか?」

「可能性はあるさ……と云いたいところだが、現実的にはかなり難しいだろうな」

「でも、もし倒せたとしたら、世界は平和になる?」

「それもわからない。魔王を倒せばモンスターの襲撃はなくなるのかもしれん。だがモンスターを統率する者がいなくなるだけで、モンスターは壁の外を自由に闊歩し続けるのかもしれん。すべては神のみぞ知るだ」

「そうですか……」

 暗い顔をしたアツシを励ますように、ニコラは朗らかな声で云った。

「だが希望はある。それはオヴェリア殿だ。数十人の勇者を皆殺しにするような魔王であっても、オヴェリア殿のマイティ・ブレイブを打ち破って壁のなかに入ってくることはできない。これはつまり、オヴェリア殿の守りのマイティ・ブレイブが魔王の力を上回っていることを意味している。もし彼女のマイティ・ブレイブが結界系ではなくもっと戦闘向きのものだったら、その時点で魔王を倒せていたのかもしれない。ここで重要なのは、勇者のマイティ・ブレイブが魔王を上回る事例は既に確認されているということだ」

「それは、つまり……」

「うむ。将来、攻撃に使える方向性のマイティ・ブレイブで、かつ力の度合いがオヴェリア殿に匹敵するような勇者が現れれば、その者は魔王の心臓を串刺しにする槍となりうるだろう。そしてそれはもしかすると、君かもしれない」

 そう云われて、アツシは苦笑してかぶりを振った。

「俺のマイティ・ブレイブは召喚系なんでしょう?」

「そうだ。だから魔王より強き者を召喚するのかもしれないぞ?」

「まさか……」

「だがオヴェリア殿もそう思ったから、君に会おうとしているのではないかね?」

 ニコラはそう云うと、遠く遙かな壁を眺めた。あの山脈のごとき壁は街のどこからでも見ることができる。それほどに高いのだ。

「オヴェリア殿はあの壁を維持するため、日に数度、祈りを捧げていると云う。祈りがマイティ・ブレイブとなって壁の強化と修復を行うらしいのだ。彼女はまさにこの世界の守護者、世界を支える、柱のような存在だよ」

「柱……」

 そう聞いて、アツシはまだ見ぬオヴェリアに八つ当たりのような言葉をぶつけてやろうとしていた気持ちが、急速にしぼんでいくのを感じた。

「彼女はそんなことを、二百年も?」

「そうらしい。なあ、トロイ殿?」

 ニコラがトロイに水を向けると、歩きながらでも話を聞いていたのか、トロイは立ち止まってアツシたちを振り返った。その視線がアツシに刺さる。

「……オヴェリアがおまえに会ってみたいと云った気持ちが、俺にも少しわかるのだ。予言が当たるのだとしたら、おまえはこの閉塞状況を打ち破る嚆矢となるのかもしれん」

 アツシはその言葉に息を呑んだが、すぐにトロイから目を逸らしてかぶりを振った。

「やめてください。俺はまだなにも決めてない」

「……そうだな。召喚されてきたばかりだったな」

 トロイは唇の端でアツシをわらうと、つと前を向いてまた歩き出した。アツシは少し歩度を速めて、トロイの背中を追いかけながら早口で尋ねた。

「オヴェリアさんって、どんな人ですか?」

「悪戯好きだ」

「い、悪戯好き……?」

 意外な人物評にアツシは目を白黒させたが、トロイはここにはいないオヴェリアを容赦なく切り捨てるように遠慮なく云う。

「うむ。昔はそうでもなかったが、最近はいかに人を騙しておちょくるかということに執念を燃やすようになっている。魔王が倒せる見込みも世界が変わるような希望もない状況で、二百年以上毎日祈って毎日守られて暮らしている彼女が見出した愉しみがそれなのだ。だからおまえに会うと云っても、まともには会わんかもしれん。また思いがけぬ悪戯をするかもしれん。だが、あまり気を悪くしてくれるなよ」

「わ、かりました……」

 初対面でおちょくられるようなことがあれば気を悪くしないはずがないのだが、二百年という歳月を持ち出されては致し方ない。アツシはそう自分を納得させると、けなげなくらいに自分の横を歩いているレナを見下ろして微笑んだ。

「レナは、オヴェリアさんに会ったことあるのかい?」

「あるわけありません。あの御方はこの世界でもっとも大切な人。余人は傍に寄ることも許されないのです」

「そうだな。君がオヴェリア殿に会うとして、私やレナは別室で待たされることになるだろう」

 レナの尾についてニコラがそんなことを云ったときだった。

「着いたぞ」

 トロイが、高い塀の巡らされた屋敷の前で足を止めた。それは青い屋根と白い壁、緑の庭を持つ広大な邸宅で、門前にはもちろん、あちこちに警備の人間の姿がある。

「皆、勇者だよ」

 ニコラが警備たちを見ながら、アツシにそう囁いてきた。


 ニコラの云った通り、屋敷に着くなりレナとニコラは家人の案内で別室へ通されることになった。アツシがオヴェリアに会っているあいだ、そちらで寛いでいるのだと云う。

「おまえはこっちだ」

 アツシはトロイの案内で、屋敷の奥へと続く廊下を進んでいるところだった。そうして連れて来られたのは、一枚の扉の前だった。

 トロイはその扉の前に立つと、アツシをじろりと見て切り出した。

「この先は屋敷の奥庭になっていてな、そこにオヴェリアの住まう小さな館がある」

 そこで言葉を切ったトロイは、次の瞬間にアツシを驚かせた。

「ここからはおまえ一人で行け」

「えっ?」

 アツシは絶句した。普通に考えて、要人に人が近づくのを自由にさせるはずがない。

「い、いいの? 警備は? 二重三重の警護態勢とか云ってませんでしたっけ?」

「無論、オヴェリアは一人ではない。彼女には常に三人の勇者が護衛についている。そしてそのうちの一人が、この先に結界を張っているのだ」

「結界と云うと……」

「オヴェリアと同じ、結界系の力を持つ勇者のマイティ・ブレイブだ。くどいようだが、マイティ・ブレイブは勇者によって千差万別、同じ結界系統のマイティ・ブレイブでもオヴェリアのようにこの世界を成り立たせる巨大な壁を巡らした者もいれば、単純な身を守るシールドを張る者もいるし、オヴェリアの護衛のように闇の迷宮を作り出して邪な心を持つ者を通さない者もいる」

「闇の迷宮? 邪な心?」

 アツシは胡乱な表情を隠さなかったが、トロイはそれを無視して扉に手をかけた。

「まあ、行ってみればわかる。もしもおまえがオヴェリアに会うに値しないような人間であれば、自動的に回れ右してこの扉から出てくるだろう。逆に会わせてもいい人間であれば、オヴェリアの許までたどり着けるはずだ」

「……わからないけど、わかりましたよ」

 百聞は一見に如かずと云う言葉もあるし、オヴェリアに会えないなら会えないでそれでもよい。自分から謁見を望んだわけではないのだ。

「じゃあ行ってきます」

 そう云ったアツシに頷きを返し、トロイはアツシの前で扉を引いて開け放った。その先にあったのは闇だ。黒一色で、床や壁どころか天地の境目があるのかさえもわからない。それを見るなりアツシは「ええ……」と唸ってしまった。

「なんだこれ、信じられないくらい真っ暗じゃないですか」

「それが結界ということなのだ。だが一つ手がかりを与えてやろう。この闇の迷宮を抜ける鍵は、自らの心に正直であることだ」

「正直?」

 それがどういう意味なのか、アツシはもっと詳しい話を聞きたかったが、トロイはそれ以上のことを教えてくれる気配がなく、顎で闇への入り口を示して云う。

「行け。真っ直ぐ進め。この闇をくぐり抜けられるかどうかはおまえ次第だ」

 その言葉を拠り所に、アツシは勇気を奮い起こして闇のなかへ踏み込んでいった。

 ……。

 視界が真っ暗に塗りつぶされた、息苦しいほどの闇のなかを、いったいどれくらいのあいださまよっていただろう。行けども行けども出口はなく、光りは見えず、かといって元の扉に帰り着くこともない。ひょっとして自分は騙されたのではないか。このまま永遠に闇のなかをさまようことになるのではないか。

「おおい」

 黙っているより声をあげた方が安心だ。そう思って試しに声をあげてみたが、返事はない。それどころか開けた口の中に闇が流れ込んできて窒息するかと思えたほどだ。

「苦しい。なんなんだ、ちくしょう。どうして俺はこんなところに来ているんだろう。意味がわからない。当たり前だ。俺は巻き込まれただけなんだ!」

 いつしかアツシは、闇のなかで自分の心を見つめながらそう捲し立てていた。独り言でも喋っていなければ気が狂いそうになる。

「ここは壁に囲まれた世界で、壁の外にはモンスターがいて、そのモンスターと戦ってほしいだって? まあ理屈はわかるよ。でも俺がそれをする理由がない。理由……人助けに理由はいらない? そうかもしれないけど、それが命懸けってことになったらどうだ? 出来るか? そりゃあ津波が迫っているのにばあちゃんを助けに行ったさ。でもあれは勇気があったわけじゃない。ただ無鉄砲だっただけだ。俺はあのとき、あれが命懸けになるなんて思わなかった。どうせ死なないと思ってた。じゃあ自分が死ぬとわかって、また同じ事ができるだろうか? わからない。当たり前だが死にたくない。異世界に来たことや、人のために働くことについては、この際かまわないけど、死ぬのは厭だ。そう……俺なんて、そんなもんだよ。勇者なんて柄じゃないんだ」

 あまりに深い闇が、アツシにここまでのことを考えさせた。これほどの闇のなかではあまりに孤独で、自分で自分と話していなければおかしくなってしまうと思ったからだ。それにしてもいい加減、出口が見えてくれないか。そう祈るのだが、肌に貼り付くほどの闇は尽きない。

 アツシはだんだん腹が立ってきた。あるいは頭がどうにかなったのかもしれない。

 あるとき、突然我慢の限界が来て、アツシは闇に抗って叫び声をあげた。

「ああ、くそ! なんなんだ、馬鹿野郎! この野郎! よくわからないまま異世界に連れて来られて、モンスターなんぞと戦いたいわけねえだろ! 誰が壁の外になんか行くか! 夢なら醒めてくれ!」

 アツシが心の底からそう叫んだとき、突然、目の前の闇が晴れた。闇が晴れ、光りが溢れ、アツシはあまりの眩しさに目を閉じた。闇に慣れた目にはすべての光りが強烈すぎたのだ。

 やがて瞼の向こうの明るさに目が慣れてきたのを感じたアツシは、恐る恐る目を開けた。

 そこは整えられたどこかの庭のようだった。そして目の前に一人の女が立っている。亜麻色の髪を腰まで伸ばした眼鏡の美女だ。彼女は鳶色の目でアツシをじっと見つめていたが、アツシが逆に茫然と見返していると、ため息をついて云った。

「普通ですね。なんかがっかりです。あの予言、外れだったんでしょうか」

「……は?」

 アツシはなにが起こっているのかわからない。息苦しいほどの闇が突然晴れたかと思うと、目の前に女がいて、自分を詰ってくる。狐か狸に化かされたような気持ちでいると、女は心持ち胸を張った。大きな乳房だった。

「私はエロイーズ。オヴェリア様を守護する三勇者の一人で、この庭に結界を張った者です。闇の迷宮はいかがでしたか?」

「ああ、いかがって……俺にはなにがなんだか……」

「種明かしをすると、あの迷宮はまず完全な暗闇で対象の時間と空間の認識能力を奪い取ります。そのうえで、私は対象がどういう行動をとるか見極めてるんですよ。息もできないくらいの闇で追い込むとみんなだいたい気が狂いかけて、普段話さないようなことを話し始めますからね。それで対象の人間性を判定し、相応しくなければお引き取り願うわけですが……」

 だんだん話が見えてきたアツシは、肩越しに背後を振り返った。わずか一メートルの距離に扉がある。その扉がいきなり開いて、トロイが顔を覗かせた。

「終わったか?」

「まだです」

 エロイーズの厳しい声を聞いて、トロイは顔を引っ込めた。アツシは疲れ切った顔を前に戻してエロイーズを見る。

「なるほど、つまり俺はここでずっと足踏みしてたわけね。で、自分がどんな人間なのか白状させられたってわけだ。それって結界って云うより幻術じゃないの?」

「いえ、結界ですよ。たとえ翼があったとしても、私の定めた正規の入り口以外からはこの庭に侵入することはできないのですから。入り口は闇に閉ざされ、私が許可した者だけがその闇を通り抜けられる結界……それが私のマイティ・ブレイブの本質です。暗闇で追い込んで人間の本性を引き出すのは、副次的な効果ですね」

「ほうほう。で、俺は合格なんですか?」

「悪人ではないようですからね。でも私が期待した英雄豪傑ではありませんでした」

「そいつはどうも。お呼びでないなら帰るけど? 俺は今、あんたらの期待をとことん裏切って、勇者なんかじゃなくパン屋にでもなってやろうかって気分なんだ」

「まあまあそうおっしゃらず、せっかくここまで来たのですから、オヴェリア様にも会っていかれて下さいよ」

 エロイーズはそれだけ云うと、アツシの返事を待たずに踵を返し、この奥庭を左右に区切る石畳の道を歩き出した。その先に小さな家が建っている。塀に囲まれた屋敷の奥庭に、こぢんまりとした二階建ての家が建っているのがここからでも見えるのだ。

 アツシはエロイーズの態度に小石でも蹴っ飛ばしてやりたい気持ちだったが、卓子をひっくり返すほど怒ってはいなかったので、ふんと鼻を鳴らしながらもひとまず彼女に従って歩き出した。

 この奥庭はざっと見渡した限り、学校の運動場くらいの広さはありそうだった。陽射しが燦々と降り注いでいて庭木や花はよく手入れされており、遣り水もしてあって居心地は良さそうだ。それらの庭を眺めていたアツシは、エロイーズの背中に視線をやった。

「オヴェリアさんって人は、ずっとここにいるんですか?」

「ええ。オヴェリア様はこの世界の大黒柱であり、要石。外出はなされません。ここで我々に守られて、日々を祈りに費やしておられます」

 そう聞くと敬虔な聖女のようだが、トロイによると悪戯好きらしい。どうにも人物像が見えて来ない。悪戯をするのは、ストレスが溜まっているせいだろうか?

「ここ、結構広いから運動はできそうですよね」

「ええ。不自由をさせてしまうことはわかっていましたから、みんなでこういう屋敷を用意したのです。さあ、つきましたよ」

 そこでアツシは足を止めた。オヴェリアの住まう館が、もう目の前にある。

「ここにオヴェリア様が住んでいます。ところであなたのお名前は?」

「……アツシ」

「アツシ様。よろしい、ではお呼びしてきますから、ここでお待ちください」

 エロイーズはそう云うと、とっつきの短い階段を上り、館のなかへと姿を消した。

 ――中には入れてもらえないのか。

 アツシは心でそうぼやいたが、女性の部屋と考えれば男の自分が立ち入りを許されないのも仕方ないかと考え、その場で立ちん坊になった。

 そして五分が過ぎ、十分が過ぎる。

「……まだかよ。いくらなんでも遅すぎるだろ」

 女性の身支度には時間がかかるのかもしれないが、向こうがアツシを呼んだのだからもっと早く出てきてもいいはずだった。

 ――なんでこんな時間かかるの? 化粧? 化粧とかどうでもいいから早くしろや。

 アツシがそう思った、まさにその瞬間だった。

 いきなり館の横手から犬の鳴き声が聞こえた。かと思うと、館の角から一匹の白い犬が姿を現わしたのである。飼い犬だろうか、それとも番犬なのか、それは白い毛並みのふさふさした赤い瞳の大型犬で、忙しない息づかいとともにアツシ目がけて走ってくる。

 ――おお、犬だ。わんこだ。でかいな。速いな。ていうか、なんでこっちに向かってきてるの? え、あれっ? やばくないか、これ?

 大型の動物が自分を目指して一文字に駆けてくる。この状況にあって、アツシは完全に硬直してしまった。そして、犬が大地を蹴る。

「うわあっ!」

 犬に飛びかかられたアツシは、そんな情けない声をあげて尻餅をついてしまった。反射的に目を閉じ、腕で顔を守ろうとする。次の瞬間にも噛みつかれるのだろうか。果たして牙は痛いだろうか。だが、そのままなにも起きない。

 数秒後、想像だけでくたくたになってしまったアツシが恐る恐る目を開けると、犬の顔がすぐ目の前にあった。尻餅をついたアツシはそのまま仰向けに倒れてしまって、犬に組み伏せられ、顔を覗き込まれている状態だ。生々しい息づかいを間近に感じるが、襲ってくる気配はない。アツシは安堵し、それから現実逃避のように思う。

「――なんかいい匂いするな、おまえ。それに綺麗な顔してる」

 心のなかで思ったつもりが口に出た。そのときだった。

「ふふふ」

 しわがれた女の笑い声が聞こえて、アツシは頭を返し、館の方に目をやった。いつの間にかそこに三人の人物が立っていた。一人はエロイーズ、もう一人は見知らぬ女騎士、そしてその二人を左右に従えた老婆である。

 気品ある老婆だった。纏めた頭髪は既に白銀で、青い湖のような目をしており、派手な紫の衣裳に袖を通している。館の扉を背景にしていることからして、今しがたそこから出てきたのだろう。その老婆はアツシを見下ろして微笑んでいる。

「今度の勇者はずいぶんと情けないですわね。犬一匹を相手に腰を抜かすだなんて、そんなことでは、この先モンスターと渡り合えませんわよ」

「……そもそも俺はそんなのと戦いたくない」

 アツシはそう返すと、自分に覆い被さる犬を邪魔くさそうに見た。すると犬はアツシの上から体をどけ、老婆の方へと小走りに寄っていく。

 体を起こしたアツシは、しかし地べたに座ったまま老婆を憮然と見た。

「あんたが、オヴェリアさん?」

「ええ、そうですわ。そしてこっちは護衛の騎士のシーリーン」

 オヴェリアは自分の傍らに立つ女騎士を見ながらそう云った。シーリーンと呼ばれた女騎士は赤い髪を男のように短くしている。男装の麗人といった感じだが、アツシをじっと見ているだけで挨拶もしない。

「エロイーズとは、もう自己紹介の必要はありませんわね?」

「ああ。あとはその犬だけど……」

 アツシはさっきの犬に視線をあてた。犬はオヴェリアの前まで来ると地面にお尻をつけ、ぱたぱたと尻尾を振っている。

「あんたの飼い犬かい?」

「ええ。私のお友達。名前はラッシー。ずっとここで過ごさなくちゃいけないんですもの、犬くらい飼ってもいいでしょう?」

 オヴェリアはそう云って小腰をかがめると、ラッシーの頭を愛しそうに撫でた。ラッシーが嬉しそうに「わん」と返事をする。アツシは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

「ちゃんと躾けておいてくださいよ。いきなり人に飛びかかるなんて」

「あら、ごめんあそばせ。でも噛みついたりはしなかったでしょう? この子はただ遊んでほしかっただけなのよ」

 そう云うオヴェリアの手を、ラッシーがいつの間にかぺろぺろと舐め始めており、オヴェリアはくすぐったそうに笑っていた。

 そんな老婆の姿を見ながら、アツシにはいくつか不思議に思うことがあった。年老いてなお、お嬢様のような言葉遣いで話すのは、そういう育ちの女性なのだろうからいいとして、そもそもどうして彼女は老いているのだろうか。

 アツシは疑問を一人で抱えきれなくなると、勢いよく立ち上がって云った。

「正直、びっくりしました。召喚されてくる勇者は若者ばかりで、勇者はみんな不老って聞いてたから、中身はともかく見た目は若いもんだと」

「それは私のマイティ・ブレイブの代償なのです。マイティ・ブレイブは人によって千差万別、そして発動に代償を伴うことがあります。私の場合は、外見上の若さが失われていくのですわ。と云っても寿命を削っているわけではありませんから、御心配なく」

「そ、そうなんですか……」

「他にはなにか?」

 オヴェリアに踏み込むように尋ねられ、アツシは気後れしながらも続けて尋ねた。

「あなたには常に護衛の勇者が三人ついてるって話だけど、二人しかいない……」

 そう、オヴェリアをなかにして、左右をエロイーズとシーリーンが固めているけれど、これでは一人足りないのだ。だがそれには三人が揃ってアツシをわらった。

「一人は伏せてあります。影から私を守ってくれているのですわ。しかし警備上の観点から、どこにどのような者を伏せてあるのかは教えられません。ごめんなさいね」

「いやいや、いいっすよ。俺、部外者なんで」

 外部の人間に警備体制を話せというのは無理な相談だ。ほんのちょっと気になっていただけなので、しつこく問い糾す意味も理由もない。

 そんなアツシを、オヴェリアがなおもわらう。

「……それで質問は終わりですの? もっとなにか気になることがあるのでは?」

 もちろん、あった。アツシは威儀を正すとオヴェリアを見据えて云う。

「予言って、なんですか? なんで俺が特別なんですか。なんで俺を呼んだんです? こうして俺と会ってみて、なにか新しい発見でもありましたか?」

 するとオヴェリアは目を細めた。紙背に徹する眼差しだった。

「怒っていますね」

「質問に答えて下さいよ」

「よろしい。予言は予言です。私たちの大切な仲間の一人のマイティ・ブレイブによると、今度来る勇者はこの世界に大いなる変化をもたらすというのです」

「それは聞きました。でも俺はそんな大したやつじゃない。まず第一に死にたくないって考えてるような男ですよ。モンスターどころか犬一匹にすら腰を抜かすような男だ。だからその予言は外れなんじゃないですか? 百発百中ってわけじゃないんでしょう?」

「その通り。でも予言が当たったとか外れたとかは、あくまで予言に無関係の、第三者の視点でしかありません。予言の当事者は、そうであってはならないのです。なぜならば予言とは、私たちの行動の指針となるものだからです」

「つまり……」

 眉をひそめたアツシの後を引き取って、オヴェリアは微笑みながらなおも云う。

「つまりいい予言が当たったとしたら、それは私たちが努め励んでその予言をつかみ取ることができたから。逆に外れたとしたら、それは私たちが過ちを犯してその未来を掴むことが出来なかったから。同じように悪い予言も、自らの行い次第で回避することができます。それが予言というものに対する向き合い方なのです」

 そこまで云われればアツシにもわかる。だからこそ、アツシは眉をひそめた。

「俺にその予言を意識して生きろと?」

「ええ、その通り。あなたには世界を変えると云う予言が出た。ですから、まずはあなた自身に、そのことを知ってもらいたかった。自分がそういう人間なんだと知ることで、予言された未来をつかみ取ってほしいと思ったのです。今日ここにあなたを呼んだのは、それが理由です」

 アツシはそのままオヴェリアと見つめ合った。先に目を逸らしたら負けてしまうような気がしたのだ。が、結局アツシはため息をついて目を伏せた。

「……そんなこと、誰かに伝えさせればすむことでしょう」

「いいえ。こうして会って話をすることは、とても大切なことです」

 ふふふ、とオヴェリアは上品に笑う。

 それが少しばかりアツシの癇に障った。

「俺は巻き込まれただけだ。自分ではなにも決めていない。戦う理由もないし、壁の外になんか行きたくもない。まして世界を変えるなんてさっぱりわけがわからない」

「それが普通です。召喚された勇者は皆、昨日までの生活と突然切り離され、新たにこの世界で生きていく意思と力を獲得せねばなりません。それに時間がかかることを、誰も責めたりはしませんわ。でも明日から始まる訓練過程はきちんとお受けなさい。勇者になるにしろならないにしろ、体を鍛えて損はありませんし、座学の時間には、この世界のありとあらゆる知識を叩き込んでくれます。あなたはこれからこの世界で生きていかなくてはならないのですから、利用できるものは利用しなさい」

「……はい」

 少し感情的な反発もあったが、アツシはそれをこらえて首を縦に振っていた。右も左もわからぬこの世界で自分の身をどう処すか、今はまだ見当もつかない。だから今は先人が用意してくれた舟に乗るしかないのだ。

 ――訓練か。

 そこでアツシは、ふと自分のマイティ・ブレイブのことが気になった。

「あの、もう一ついいですか?」

「はい?」とオヴェリア。

「ニコラさんって知ってますよね? 彼によると、俺のマイティ・ブレイブは召喚系らしいんですけど、このマイティ・ブレイブってどうやったら使えるようになるんですか? そもそもなにをどこから召喚するのかがわからないんですけど」

 するとそれには、オヴェリアではなくエロイーズが答えてくれた。

「マイティ・ブレイブは千差万別ですから、召喚系のマイティ・ブレイブと云ってもあなたがどこからなにを召喚するのかは、あなたが覚醒してくれなければ私たちにもわかりません。ただ勇者がマイティ・ブレイブに覚醒するときというのは、だいたい決まっています」

「それは?」

「真の勇気を発揮したとき」

 その力強い言葉にアツシは心を一撃された。ために一言も発せられないアツシに、エロイーズは教師然として語る。

「そもそもマイティ・ブレイブとは、最強の勇気という意味です。どうして私たちが召喚時に獲得した力にそのような名前が付けられたのでしょう? 祝福ブレスでもフォースでも奇跡ミラクルでもよかった。しかし、マイティ・ブレイブです。それはこの力が常に勇気とともにあるからなのです」

「勇気、ですか……しかし真の勇気を発揮するときって云うと……」

「多くは戦場で、命の危機に直面したときですね」

 そう云われて、アツシはさっと血の気が引くのを感じた。一方、エロイーズは眉一つ動かさない。その冷たい態度に、アツシは彼女が血の通った人間かどうか疑ったほどだが、エロイーズは淡々として云う。

「我々の統計だと、およそ七割の勇者が、戦いのなかに身を投じているときにマイティ・ブレイブに覚醒しています。訓練の最中や生活のふとした拍子に覚醒する者もいますが、実戦に勝るものはないというのが私たちの結論です」

 するとそこで話し手は、これまでずっと口を緘していた女騎士シーリーンに移った。

「無論、戦いは厭だ、壁の外になんか行きたくないと云って逃げ出した臆病者もいる。そういう奴はマイティ・ブレイブに覚醒しないまま、年老いることもなく、才能を腐らせ、何年も何十年もひっそりと生きているのだ。勇者とは勇気ある者、マイティ・ブレイブは真の勇気とともにある。力があっても臆病者は勇者にあらずということだな。おまえはそういう風にはなるなよ?」

 シーリーンの鋭い眼光に射られたアツシは、しかし頷くことができなかった。マイティ・ブレイブに覚醒してからモンスターと戦うのと、マイティ・ブレイブに覚醒するためにモンスターと戦うのとでは、危険の度合いが全然違うのではないか。

「俺は……」

 アツシが勇気と臆病のあいだで揺れていたそのとき、いきなり後ろから男の声がした。

「終わったか?」

「うおっ」

 驚いて振り返ると、そこに立っていたのはトロイだった。彼はアツシを一瞥すると、オヴェリアに視線を放つ。オヴェリアは一つ頷き、笑いを含んだ声で云った。

「ええ、だいたい終わったところですわよ。ありがとう、トロイ。彼をここまで連れてきてくれて。でも、もういいですわ。訓練過程に移って下さいまし」

 するとトロイはなにを思ったのか、腰に片手をあてて嘆息した。

「またおまえはそんな格好をして……」

「あら? 今日のドレス、なにかおかしいかしら?」

 オヴェリアはあどけなく小首を傾げた。少女がやれば可愛い仕草だが、老婆がやってもそれはそれで可愛いものだ。

「まあいい。それよりアツシ、この際だ。彼女たちに訊いておくべきことはないか? 云っておくが、こんなに簡単にここに入れるのはこれが最後だぞ?」

「……いや、もうだいたい聞くべき話は聞きましたから。ところでマイティ・ブレイブに覚醒するには実戦が一番って本当ですか?」

「ああ、そうだ」

 そう肯んじたトロイが、そこでふっとアツシをわらう。

「臆したか」

 図星を指されてアツシは言葉に詰まったが、隠しても仕方がない。後ろにいるオヴェリアたちがどんな顔をしているのは努めて気にせず、アツシはトロイに向かって云った。

「実戦って、人間同士じゃなくてモンスターを相手に戦うってことですよね?」

「もちろんだ」

「そうですか。俺はまだモンスターってものを見ていません。だからそれがどのくらいやばいのか見当がつかないんですけど――」

「地球にいたどの猛獣より遥かに危険で知的で強力で攻撃的だと考えてくれていい」

 それが最後の斧の一撃となって、アツシの勇気をへし折った。

「……ごめんなさい。正直、そんなのがごろごろしてるところになんか行きたくないです。こういう世界に来てしまった以上、訓練は受けさせてもらいたいくらいなんですけど、そのあとは壁の外に行かないまま壁を守る仕事に就くっていうのは無理なんですか?」

「モンスターが怖いのに壁を守れるのか? だいたいマイティ・ブレイブに覚醒していない勇者は現地人と大して変わらん。足手まといだ」

 そうばっさり切り捨てられてアツシは意気消沈した。そこへトロイが付け加える。

「……まあ、壁を維持しているのは勇者だけではない。見張りや、食事を作ったり武器や道具の整備をしたりといった裏方の仕事は、従者のほかに志願した現地民がやっている。壁の長大さに対して勇者は千人もいないわけだから、そういう後方支援には彼らの協力がかせん。そういう仕事をやるのが駄目というわけではない」

 それを聞いてアツシはぱっと顔を輝かせた。

「それいい! そういうのがやりたいです! 元の世界に帰れないならこっちで生きていくしかないし、なにか仕事をしなきゃいけないってのはわかりますよ。でもそれが戦いなんて……俺には無理です」

「で、他の奴らに危険な前線を押しつけるわけか」

「それは――」

 そう云われるとアツシは羞恥心をえぐられる思いだった。だが誰もが兵士になるわけではない。遠いところに立っている他人を盾として生きているのが現実だとしても、今までそれを非難されるようなことはなかった。それを拠り所にしてアツシは云う。

「……でも、みんながみんな、軍人や兵隊になるわけじゃないでしょう」

「俺はスイス人だったんだが、スイスは徴兵制度があった。男は全員兵士だ」

「に、日本にはそんなのなかったですよ!」

 アツシはそう云って、束の間トロイと睨み合った。お互いが全然違う価値観を背景にして立っているのがわかる。それだけに、解り合えないのがまた解ってしまう。

 先に折れたのはトロイの方だった。

「まあいい。おまえのような反応は珍しくもない。子供のように喚き散らして徹底拒否する奴もいたんだが、そういう奴よりは話が通じそうだ」

「話ですか?」

 もし無理強いと云うことなら、アツシだってそれこそ逐電も辞さないつもりであった。縄で括られて壁の外に連れて行かれるくらいなら逃げてやると、本気でそう思う。

 そんなアツシを仕方のなさそうに見て、トロイは口を切った。

「要するに死ぬのが怖いわけだろう。だが安心しろ。壁外での活動に熟練した二十人前後の勇者でチームを組み、全員がおまえ一人を支援する。新米勇者のお守りをするのは、なにもこれが初めてではない。これまでに何人もの勇者を壁外に連れ出し、マイティ・ブレイブに覚醒させた上で生還させている」

 それを聞いてアツシの心はちょっと揺れた。そういう実績なりノウハウなりがあるのなら、信じてみてもいいかもしれない。だがもちろんまだ首を縦には振らなかった。

 そこへトロイがとどめの一撃とばかりに云う。

「なにより、そのチームを率いる指揮官は俺だ」

 そう自信に溢れた声で云うトロイを、アツシは実際より大きなものに見て唸った。

「あなたは、そんなに強いんですか?」

「もちろん強い。伊達にこの世界で二百年も生き残っているわけではない。だが俺の強みは、もちろん俺のマイティ・ブレイブにある」

 トロイはそう云って右手を腰に持っていった。トロイは鎧装束で、左腰に長剣を、右腰に短剣を帯びているのだが、右手で短剣を逆手に持って鞘から抜いたのだ。

 ぎらりと光る銀色の刃を見て、アツシは思わずたじろいだ。

「ちょっと……」

「マイティ・ブレイブが、勇者によって千差万別だいうことは聞いているだろう?」

「え、ええ、まあ。戦闘向きなのとかそうじゃないのとか、色々あるって」

「そしてマイティ・ブレイブを発動させる条件も様々でな、そのなかに代償の有無もある。代償……つまりマイティ・ブレイブの発動に際してなにかを支払わねばならないということだ」

「ああ、その話ならハリーさんやオヴェリアさんからも聞きました。オヴェリアさんのマイティ・ブレイブの代償は老化だって」

「そして俺のマイティ・ブレイブにも代償がある。それは血だ」

「血って――」

 アツシが茫然とそう呟いたとき、トロイは短剣で左の人差し指の先をちょっとだけ切った。たちまち指の先から鮮血がしたたり落ちる。

「俺を見ていろ」

 威ある言葉でそう云われて、アツシは吸い込まれるようにトロイを見た。そして次の瞬間、トロイの姿が消えた。それは本当に、目の前にいた相手がぱっと消えたのだ。アツシは目になにかされたのかと思ったくらいである。

「えっ」

 やっとそんな声が出たときだ。

「後ろだ」

 愕然として振り返ると、トロイはオヴェリアたちの前に立っていた。ちょうど短剣を鞘に収めたところで、エロイーズが如才なく差し出したハンカチを指に巻いている。

「俺のマイティ・ブレイブがわかったか?」

 アツシは目の前で行われた現実を頭のなかで十分に検討したのちに云った。

「まさか、テレポーテーション?」

「そういうことだ。飛ぶ距離と質量によって必要な血の量は変わるが、俺のマイティ・ブレイブはテレポーテーションだ。これが俺が今まで生き残ってきた理由でもある。俺はどんな危機的状況からでも離脱することができるのだ。このマイティ・ブレイブがあればまず死ぬことはない。あの魔王と遭遇したときも……俺だけがこの力で逃げ帰ることができた」

 そこで言葉を切ったトロイは、少し悲しげな目をしたあとでアツシに尋ねてきた。

「安心したか?」

「……しました」

 勇者のマイティ・ブレイブが二十一世紀の地球の知識や技術を超越したものだということはエアリアルハンマーでわかっていたが、テレポーテーションなどと云うSFじみたことまで実現できるとは思わなかった。それが出来るのなら、たしかにどんな危険な状況からでも脱出できる。そう思って安心した矢先、アツシは落とし穴に気がついて顔色を変えた。

「……いや、待ってください。血がいるって、しかも飛ぶ距離や質量によって必要な量が変わるってことは?」

「俺のマイティ・ブレイブの代償は血液だ。当然、より遠くへテレポートしようとしたり、一度にテレポートする質量が大きければ大きいほどより多くの血が必要になる。そこでその血は、壁の外へ行く前にあらかじめ準備しておく。血液のプールがあるのだ」

「な、なるほど」

 ――注射器なんかはこっちの世界の技術でも作れそうだし、ちょっとずつ血を抜いて輸血パックみたいに貯めておけば大丈夫そうだ。

 アツシはそう解釈すると、ついに安心して微笑んだ。

「それで上手く俺のマイティ・ブレイブが覚醒したら、壁を守る任務に回してもらえるんですね?」

「おまえがそれを希望するなら検討しよう。ただしおまえのマイティ・ブレイブがどんなものかにもよる。おまえの希望を考慮するように、こちらも適材適所を考慮するということだ」

「なるほど、なるほど……」

 きちんとした訓練を受けさせてもらえて、壁の外へ行く際には先任勇者たちの護衛がつき、トロイという脱出手段もある。

「でも、絶対安全ってわけじゃないんでしょう?」

「それはその通りだ。ある程度のリスクは、覚悟してもらわねば」

「……しかし俺には、命をかける理由がない」

 結局、そこへ行きつくのだ。この世界に召喚され、今までの人生から切り離されたばかりで、いきなり命がけの戦いを求められても困る。心がそうは動かない。

 だがトロイも焦りはしなかった。

「無論、そうだろう。そうでなくては困る。マイティ・ブレイブは真の勇気とともにあるのだから、死への恐怖を克服したときが、もっとも覚醒する可能性が高いのだ。逆に自分の命を惜しまぬ者は、多くがマイティ・ブレイブに覚醒できないまま死んでいく。だから大いに死を恐れるがいい。その恐るべき死に向かって自分の背中を押したとき、おまえは覚醒する……かもしれん」

 そんなトロイの話を、いつしかアツシは神妙な顔で聞いていた。

 恐るべき死に向かって自分の背中を押せだって?

 アツシは自分にそんな決断ができる日が来るとはまったく思えなかった。だが勇者とは勇気ある者。勇気がなければマイティ・ブレイブに覚醒できないのであり、マイティ・ブレイブに覚醒して初めて勇者と呼ばれるのだ。

「……ハリーさんもニコラさんも、みんな凄い人だったんですね」

「そうだ。地球人は召喚された時点で誰でもその身にマイティ・ブレイブを宿すが、それを自在に使いこなすためには勇気を証明しなければならん。だから勇者は人々に尊敬されるし、従者は勇者のために一命を投げ打つ。おまえは勇者になれるか?」

 アツシは微妙に目を伏せた。ここで『なってみせる』と即答できるような性格なら話は早いのだが、生憎とそういう風にはできていない。

 結局、アツシは正直にこう答えることにした。

「わかりません」

「そうか。まあ出来ないと答えるよりは上等な返事だ。ただおまえが壁の外へ行くと決心してくれた場合、こちらは全面的に支援するということは憶えておいてほしい。そして明日から始まる訓練だけはきちんと受けてもらいたいのだ」

「それは、わかっています」

 オヴェリアにも云われたが、体を鍛えて損はないし、この世界のことをなにも知らない自分が教育を受けさせてもらえる機会を棒に振ることはない。

「やりますよ」

「よし、ではニコラのところに戻ろう。訓練の期間は十二週間に及ぶが、試験に合格せねば卒業できない。合格するまで、訓練期間は無限に延期するぞ」

「む、無限……」

「なぜそんなに厳しいのかというと、壁の外はもっと厳しいからだ。いくら俺たちが護衛してやるとはいえ、卒業試験に合格できるくらいの知力と体力がなくては死ぬ。死にたくなければ、石にかじりついてでも合格してみせろ」

 そうしたトロイの言葉は、アツシにとっては重荷でしかない。

「……わかりました。やれるかどうかわかりませんが、やってみます」

 アツシとしては精一杯の意志の強さを示したつもりだったが、トロイは憮然とした顔をするとアツシに詰め寄り、その両肩を両手で掴んだ。

「違う! やってみますじゃなくて、やるんだ! やれるかどうかわからないなんて、逃げ道を作ろうとするな! 絶対にやれ!」

 それには稲妻を纏う鞭で打ち据えられたような思いがした。軽いショックを受けているアツシに、トロイはなおも云う。

「訓練は厳しい。過去にはモンスターと戦う以前に訓練そのものから逃げ出した者もいる。だが、おまえはやり遂げろ。オヴェリアたちから予言は指針だという話を聞いただろう? おまえの予言だ。他人が骰子を投げて偶数が出るか奇数が出るかというのとは違うのだ。自分で予言を掴んでみせろ」

「……は、はい」

 アツシはどうにかこうにかそう云った。たとえそれがその場凌ぎの返事だったとしても、はいと云ったのだ。


        ◇


 そのあとアツシはオヴェリアたちに別れを告げ、トロイとともに奥庭を出て行こうとしたのだが、そのときになってエロイーズがトロイを引き止めた。

 エロイーズはアツシを先に行かせると、トロイに眼差しを据えて云う。

「……トロイ。話をこじれさせてはいけないと思って黙っていましたが、あなたは先ほど自分のマイティ・ブレイブについて、意図的に一部を伏せましたね」

「……云えば、反発されるからな」

「それがわかっているのなら、どうして――」

「俺はなにも間違ってなどいないからだ。もしアツシがそのことで反発するのだとしても、それは彼の心が弱いか、義務から逃げているかのどちらかであり、彼の問題のはずだ。俺の方が正しいのだから、彼の方が俺の意見を受け容れて納得しなければならない」

 するとエロイーズはため息をついてかぶりを振った。

「あなたは理屈ばかりで、人の心がわかっていない」

「彼がどのような反応をするかは、わかっているつもりだが?」

「それでも最後には自分に従えと云うのでしょう。自分の方が正しいから」

「そういうことだ。では失礼する」

 トロイはそこで話を終わらせると、エロイーズや、仕方のなさそうな目をしているオヴェリアたちに背を向けてアツシのあとを追った。


        ◇


 廊下で待っていたアツシは、トロイが扉をくぐって出てくるとさっそく尋ねた。

「エロイーズさん、なんだったんですか?」

「ただのお節介だ、気にしなくていい。それよりレナたちのところへ行くぞ」

 そういう次第で、アツシはトロイとともにレナとニコラが待っている部屋へやってきた。

 ニコラと卓子を挟んでいたレナは、アツシの姿を見ると弾かれたように椅子から立ち上がって小走りに寄ってきた。

「どうでしたか、アツシ様?」

「どうって、オヴェリアさんたちとは軽く挨拶をしたようなものだったよ。予言はあくまで予言に過ぎないし……」

「彼は予定通り、明日から訓練を受ける。順調であれば訓練過程を卒業後、壁の外へ出向いてモンスターと戦い、マイティ・ブレイブの覚醒に努めるはずだ。そうだな、アツシ?」

 ――いや、ちょっと待てよ。

 早手回しに外堀を埋められて、アツシは感情的な反発を覚えた。たしかに決心がつけばそうなるのだが、トロイは先にアツシの逃げ道を断とうとしている。しかし。

「よかった」

 レナのその声を聞いて、喉元までせり上がってきていた逃げ口上が引っ込んだ。いったいどういう心の働きが起きたのか、アツシは自分で自分に驚きながらもレナに微笑みかけていた。

「……うん。レナ、俺、やるよ。自分がどんな勇者になるのかはまだわからないけど、とにかく十二週間の訓練だ。それが今やることだって云うなら、乗り越えてみせる」

 するとレナはぱっと顔を輝かせ、アツシに抱きついてこようとしたのをどうにか自重したようだった。彼女は胸に手をあてて、息が迫るように云う。

「ありがとう、ございます! 感謝します! 私の勇者様!」

「いや、まだ感謝されるようなことはなにも……」

「いいえ。いきなり降って湧いた、運命とも義務ともつかぬものに、異世界のあなたが向き合って下さる。それだけで私たちはありがたいのです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る