第65話
「蝋燭?」 不破康太郎が鸚鵡返しに尋ね返してくるのに、ライは小さくうなずいた。
「
「鯨蝋?」 ライの言葉にまたもや鸚鵡返しにしてくる不破康太郎に、
「マッコウクジラの脳油、正確には脳油から油分を分離した残存物のことだ――江戸時代末期にペリーが率いるアメリカの船団が来日して江戸幕府と日米和親条約、ついで日米修好通商条約を締結したが、理由を知ってるか?」
「……開国した事実じゃなくて、開国そのものの理由か?」 尋ね返され、ライはああとうなずいてみせた。
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の代将であるマシュー・カルブレイス・ペリーが旗艦サスケハナ号をはじめとする艦船四隻を率いて日本に来航したのは嘉永六年、一八五三年のことだ。『泰平の 眠りをさます
「否、知らない――どうしてだ?」
「鯨蝋は西洋で石鹸や高級蝋燭の材料、工業用潤滑油として利用されてて、当時マッコウクジラはアメリカ人による乱獲の対象になってた。連中はアメリカ近海のマッコウクジラを狩り尽くしたから、日本近海への遠征捕鯨を計画してたのさ――日本に開国を迫ってきたのは、日本を燃料になる薪などの物資の補給基地に利用するためだ」
鯨蝋、つまりマッコウクジラの脳油をはじめとする
アメリカ人は北米近海の鯨を乱獲で絶滅させ、太平洋西部でマッコウクジラの目撃情報があったのを頼りに日本近海に進出してきたのだ。余談ではあるが、片足を白い鯨モビィディックに喰いちぎられたことを逆恨みした捕鯨船の船長エイハブの――不当な――復讐を描いたハーマン・メルヴィルの長編小説『
アメリカ人は鯨肉を食する食習慣を持たず、また油を搾る以外の用途を見いだしていなかったため、大量の鯨の死骸が油を搾っては海中に投棄された。
「……なに? 日本てそんなのの子孫に捕鯨とかイルカ漁に難癖つけられてるのか」
「そうだ。自国近海の鯨を絶滅させてわざわざよその領海を荒らしに来た連中の子孫が、善人面して反捕鯨を訴えたりどっかの入り江でわざとらしく泣き真似して映画作ったりしてるんだ――そんなことしてる暇があるなら油だけ搾って棄てた鯨の遺骨を海底からサルベージして土下座でもしてればいいものを、自分の祖先の所業を成層圏より高い棚に上げて自分勝手な感情論だけでわめき立ててるあたり、あの手の連中は実にくだらん」
「本来なら一晩くらいは水に浸けたまま放っておきたいが――今は食い扶持が多いからな。作業を前倒しするしかないだろうな。皮剥ぎくらいまでは持っていきたい」
「剥いだ皮はどうするんだ?」
「せっかく灰を取ってあるからな、灰を擦り込んで保存して持ち帰る――民間にはパピルスみたいな紙が流通してるが、文書や書籍を中心に
「内臓は?」
「家に帰れば腸を利用することも出来るが、ここじゃ無理だ――肝臓も使うつもりは無いしな」 と、返事をしておく――ライが畜産業者の出身であることを知っている不破康太郎からすれば、まあ妥当な発想だと言えるだろうか。
腸を利用するというのはソーセージの話だ――かつての日本農業規格ではケーシングに使用した腸の由来の動物によって名称を定義していたが、現在では人工のケーシングを利用した製品が増えたために原料ではなく太さで定義している。
天然腸を使用した場合は動物の種類ごとに牛腸を使用したボロニア、豚の腸を使用したフランクフルト、羊や山羊の腸を使用したウィンナーと名称が変わるのだが、まあここで作業するぶんにはどうでもいい――強いてどれかと言われれば、豚の原種である猪の腸を用いたソーセージはフランクフルトに定義されるべきだろう。それはともかく挽肉を詰めるケーシングとして腸を利用するには内部の糞を完全に取り除かねばならず、その作業がここでは難しいのだ。
肝臓も食用にはなる――無論原始人以下の衛生観念しか持ち合わせていない下手物喰いがよくやる様なレバ刺しなどというのは、文字通り狂気の沙汰だが(※)。
心臓も食べられるが、なんにせよ下処理に時間がかかるので今回はそのつもりは無い。
「そうか――ところで、服を乾かさないのか?」 不破康太郎の質問に、ライは自分の下半身を見下ろした。
「どうせまた濡れる――それが済んでからでいい」 ライはそう返事をして、ほぼ出血の止まった猪の内臓を抜き取る作業に取りかかった。
※……
牛の肝臓のレバ刺しも理解出来ないけど、それが禁止されたから今度は豚のレバ刺しを食べ始めたと聞いて、作者は彼らの正気を疑いました。否、牛のレバ刺しの時点で疑ってたけど。豚なんて肉だって寄生虫ヤバいと言われてるのに、内臓の生食とかなにをか
実際やめろって言われてるのにもかかわらず生レバー食べた人たちが次から次へと風に煽られた立て看板みたいにバタバタ死んでるのに、それでも喰ってる奴らは正直信じがたいものがあります。自己責任とか言っても、連中のとれる責任なんてたかが知れてますし。
わかってて出してる奴らはまあどうでもいいけど、加熱用のつもりで出したレバーを客が勝手に生食したり、肉屋で買った加熱用レバーを家で生で食べて死んだら、やっぱりそれを売った店にだって警察来たり風評被害で悪評が立ったりするでしょうからね。事情を知らないまま騒ぎ立てて炎上させる奴らだっているでしょうし。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます