第58話

 それに今からナイフを抜こうとすれば、矢から手を離して射撃態勢を解かなければならない――ことここにいたれば、それを試みる価値は無い。獲物を逃がすリスクが増すだけだ。

 矢をつがえた弓を音も無く構え、ゆっくりと弓を引く――両端に滑車カムを備えたコンパウンド・ボウは、弓を引く際に独特の動作音がある。可動部分のあるパラレルリムはなおさらだ。

 ライの存在には気づいているらしく、それまで口吻で地面をほじくっていた猪がこちらに視線を向ける――だが警戒はしているものの、空腹が先にきているのか逃げ出そうとはしなかった。あるいは、自分なら人間など容易に斃せると考えているのか。

 それはあながち間違いではない――猪は非常に警戒心の強い動物だが、同時に獰猛さも併せ持っている。寸詰まりの体格と短い脚からは想像もつかないくらいの瞬発力とパワーを誇り、いったん苛立ちや怒りに任せて相手に敵意を向ければこの森の中では最強の部類に属する。

 猪の成獣は小型の個体でも七十キロ近い体重を持ち、短時間であれば時速四十五キロに達する速度で走ることが出来る――前人未到の記録を成し遂げたウサイン・“ライトニング”ボルトの世界記録ワールドレコードが百メートルで九秒五八、時速三十六キロ弱だ。人間の世界記録が毎秒十メートル強に対して猪は毎秒十二メートル、五メートル以内まで近づいた状態であれば、普通の人間は反応すら出来ないだろう。

 普通にタックルされるだけでも十分危険だが、雄の場合は犬歯が特に危険だ――雌の猪の犬歯は数センチ程度で生長が止まるが、雄の猪の犬歯は鼠の歯の様に一生伸び続ける。そして特に下顎の犬歯が上顎の犬歯とこすれあうことで非常に鋭利に砥がれており、雄の猪は頭部をしゃくりあげる様にして攻撃を行う。ジーンズ程度の布なら容易に斬り裂けるため、攻撃対象が人間の場合、ちょうど成人した人間の太腿の高さにくるこの犬歯で大腿動脈を切断されて失血死するケースが多い。

 雌は犬歯が短いので牙による攻撃を行うことは少ないが、代わりに噛みつき攻撃を行うことがある――雌でも顎の力は非常に強く、小動物の四肢の骨程度なら容易に噛み砕いてしまう。また、観光客が噛みつかれて重傷を負った事例もあるという――接近戦を挑まれるのは非常に危険だ。

 まだ十分距離があるからか、猪はあまりこちらを警戒していない――あるいは突進からの鋭利な牙の一撃で仕留められると思っているのか。この森を狩り場にする人間は、自分以外にいない――そして獲物を逃がしたことは無い。彼らはのだ。

 完全に弓を引ききったところで、一瞬の間を置いて矢を放す――パラレルリムのかたんという動作音とともに甲高い風斬り音を残して撃ち出された矢が、耳慣れない音に気づいてこちらに視線を向けた猪の脇腹へと吸い込まれる様に突き刺さった。

 分厚い筋肉と皮下脂肪、それに檻の様に密な肋骨に阻まれて、逆側からの射撃は心臓までは届かない。だが心臓まで届かなくとも、その一矢は右肺を貫いている――猪が電撃に撃たれた様に体を仰け反らせ、大きく開いた口から鳴き声とともに血を吐き散らした。

 一瞬の間を置いて、猪が弾かれた様に走り出す――普通の人間では反応出来ないほどの速度だが、同時に片肺を撃ち抜かれているためにそのスピードがそう長くは持続しない。

 呼吸が続かずに瞬く間に速度が落ちていく猪の後肢を、続けて放った一矢が射貫いぬく――筋肉の伸縮を阻害され、猪がバランスを崩して脇を駆け抜けようとした巨木に顔面から激突した。スピードを落とさずに離脱するために、巨木のすれすれを躱して走り抜けようとしたのがあだになった――猛スピードで巨木の幹に激突した猪が意識を失ったのか脳震盪でも起こしたか、投げ棄てた土嚢の様にバタンとその場で倒れ込む。

 あとは咽喉のどか心臓を刺してとどめを刺すか、あるいは左側を上にして倒れ込んだ猪の心臓を撃ち抜くか――体を細かく痙攣させながら血の泡を噴いている猪に注意深く近づいて、ライはとどめを刺すために太腿に括りつけたシースから大型ナイフを引き抜いた。

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