第44話

「ばぁ、馬鹿なことを! 逃がした兵士が王都に着くまでには、早馬を調達してもまだ日数がかかるはずだぞ! 一番近いレンスタグラ砦から指揮官の独断で部隊が派遣されても、」

「ところがどっこいそうでもないんだな、これが――否別に間違っちゃいないんだが、種明かしをしてやる義理も無いからよ。もうしばらくそこでおとなしくしてな」

 もう一回口ふさいどいてくれ――というライの言葉に、ガラの相棒がケニーリッヒ(仮)のもう一方の靴を脱がせにかかる。涎まみれになった靴下をもう一度詰め直すのが嫌だったのだろう――気持ちはわかる。

 ここは大陸南西部に位置する王家直轄領の、さらに南西部だ――隣国エルディアとの国境からここまでは、まともに街道を通ってくれば通行に要する時間だけで二ヶ月半以上かかる。実際には外国の軍隊がいきなり国内に踏み込んでくれば、国境警備に当たる辺境伯軍との戦闘になりかねない。その戦闘を回避するための折衝だけでも時間は必要になるし、越境行動の許可を取るのに王都との間で遣り取りするだけでも一ヶ月以上、許可が下りても検問などを通過するのにさらに数日、下手すれば十数日足止めされることになる――波風立てずに外国の軍隊がここまで到達するには、足止めされる時間を考慮すると四ヶ月以上かかるのだ。事件発生から日付が変わるか変わらないかの今の時間帯に、外国の兵がこんな場所にいるわけがないだろうに。

 そんなことを胸中でだけ突っ込んで靴下から逃れようと必死に顔を背けているケニーリッヒから視線をはずし、ライは兵舎の窓に視線を向けた。上階層の様子はここからではわからないが、下階層の室内は暗い――偵察のために潜入したときは照明の光が見えていたが、今は消えている。中にいた者たちが眠るために消したのか、でなければ煙幕を焚いたときに酸欠で消えたのだろう。

 ライは抵抗もむなしくふたたび靴下を口の中に詰め込まれたケニーリッヒ(仮)を油断無く見下ろしている細身の年若い兵士に視線を向け、

「すまん、松明を持ってるか」

 その問いに、若年の兵士――出発前の自己紹介によれば、たしかギジンという名だったはずだ――がこちらに視線を向けてくる。

「ああ」 ギジンがそう返事をして、襷がけにした鞄を探る――取り出した松明は燃焼部分を防水のために油紙で巻かれたもので、正規の軍用規格ミルスペックに基づいて調達された軍需物資であることを示す焼き印が取っ手の部分に捺されている。

「点火は頼む」

「ああ――ちょっと松明を出してもらえるか」

 ライの返事に、ギジンが松明の頭をこちらに向かって突き出してくる――防水のために燃焼部全体に巻かれた油紙の手元に近い部分を破ると、その内側に巻きつけられた綿の様な繊維の塊が顔を出した。

 麻綿、つまり麻紐などに使う麻の繊維を撚り合わせずにそのまま綿状にまとめたものだ。それを外側に巻きつけた布で押さえつけ、一部を露出させることで点火し易い様にしてあるのだ。

 ライは矢筒用のベルトとは逆、左肩から襷掛けにしたナイロン製の雑嚢ざつのうを探り、パラシュートコードで連結された点火器具ファイアスターターを取り出した。

 一方は水色、一方は黒に近いグレーのプラスティック製のタブが取りつけられており、水色のタブは金属の棒、グレーのタブは小指の爪ほどの大きさの金属板がついている。

 スウェーデンのアウトドアメーカーが製造するライトマイファイアというブランドのファイアスターターで、炭の破片を黒色火薬ブラックパウダーもどきにするのに使ったマグネシウムインゴットと違って純粋に火花を飛ばすためだけの道具だ――ギジンが破った油紙の下から露出した麻綿の上に金属の棒を翳して金属板ストライカーを押し当て、金属の棒を引きながらストライカーを押し出す様にして強くこすりつけると、強烈な火花とともに視界が一瞬だけ昼間の様に明るくなった。

 一度目ではなにも起こらない――火花が狙った場所に巧く飛ばなかったのだ。

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