第10話

 王女リーシャ・エルフィの乗った馬車シャラ・ファイが襲撃された際に王女の警護兵はひとりを残して殲滅されたが、最後に残ったひとりは身代金要求の書状を持たされて逃がされた――現場を見ていたわけではないからバスのそばを通っていた轍の跡が彼女の馬車シャラ・ファイのものであるとする証拠は無いが、状況から考えて彼女の馬車シャラ・ファイが残したものに間違い無い。

 樹海の中に人里は無く、道路は整備されていない――したがって普通は馬車シャラ・ファイでこの樹海に入る理由は無い。木の根っこや地面に埋まった岩が露出しているので、走りにくいだけだ。

 それでなくても遭難しやすいという理由で、天測航法アストロナビゲーションによるナビゲーションの技術を持たない大陸の住人たちはこの樹海に足を踏み入れない。野生動物の豊富な樹海を持つこの国に、樹海を狩り場にする狩人がライ以外にいないのはそのためだ。

 だから、どんなに急いでいても樹海の中を突っ切ってショートカットしようとする商団キャラバンのたぐいも無い――ついでに言えば、この先には街道以前に人間の生活圏そのものが無い。

 襲撃現場から途切れる事無くずっと続く轍の跡、それも真新しい痕跡を残すのは、拉致された王女を乗せた馬車シャラ・ファイ以外に考えられないのだ。

「必要無いからだ」 ライはそう返事をして、右足の脛に括りつけたナイロンとカイデックス樹脂を組み合わせたシースから作業用の小型のナイフを引き抜いた。積層材マイカルタやレザーワッシャーを組み合わせた複雑な構造のハンドルの代わりに分厚い鋼材にナイロン製のパラシュート用のコードを日本刀の柄の様に巻きつけたコードラップと呼ばれるグリップを備えた、ストライダーというアメリカのメーカーの製品だ。

 先ほどから湯を沸かすのに使っているミドルクッカートレックもそうだが、これらはライのもともとの持ち物ではない――食器類はあのバスと同じ様にこの森の中で発見したスバルのXV、ストライダーナイフはアメリカ軍特殊部隊兵士の遺体から回収、悪く言えば火事場泥棒したものだ。

 ライは抜き放ったナイフのグリップを握り直し、ナイフの鋒で地面にバツ印をつけた。それからその向こうに長い線を引いて、線の向こうからバツ印のところまで長い線に交差する別の線を引く――最後にすぐそばを流れる川を指差して、

「俺たちは川を渡っただろ? 奴らが川沿いに移動せざるを得なかったのは、人間マークシャラはともかく馬車シャラ・ファイはこの川を渡れないからだ」 ここから七ファードほど遡った先に水源地があるから、その水源地をぐるっと廻り込むために遡上したんだろう――ライはそう付け加えてから新たに引いた短い線をそのままさらに伸ばして、

「俺たちは徒歩での追跡だから、別に渡河場所を探す必要は無かった。馬車シャラ・ファイ。奴らが根城にしてると思われる山砦は、まっすぐこの先にある――といっても、馬車シャラ・ファイ自体はたぶんどこかで棄ててるだろうけどな。この先はかなりの高低差のある斜面を登る必要があるから、重い馬車シャラ・ファイは邪魔になる」

「でもこれだけあからさまな痕跡を残してるってことは、追跡されても問題無いってことですかね?」

「さてな」 ガラの質問にかぶりを振ってから、ライは少し考え込んだ――実のところ、それは重要な質問だ。

 馬車の轍など残しては、痕跡をたどるのに追跡技能者トラッカーなど必要無い――素人でも務まるだろう。正直言ってこの状況で戦闘が発生する事無く王女の身柄を奪還出来た場合、ライは料金を請求するのもはばかられるくらいだ。

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