第11話

 先述したとおりセレガはかなり天井が高い構造になっており、シートバックの上端部と天井の中間くらいの位置に荷物置き場の棚がある――荷物置き場であって足場になる様な事態は想定されていないので、片足だけを荷物用の棚と天井の間に入れて行動することになる。そのため、横倒しになった状態での足場がいいとは言えない――左右の足で足場の高さが違うし、足を交叉させることも出来ない。

 咄嗟の回避行動にも支障が出るからだろう、彼は顔を顰めながらバスの車内へと一歩足を踏み出し――かけたところで足を止め、ライは足元に堆積したガラス片の山を爪先で蹴散らした。

 その下に埋もれる様にして床の上に落ちていた一枚のパネルを取り上げ、簡単に内容を確認する――細長い形状をしたいわゆるホワイトボードのたぐいで、星城学園高校修学旅行・三号車と記載されていた。ボードの縁の部分にペンを止めておくためのクリップがついているが、衝突の際に弾け飛んだのかペンは見当たらない。

「三号車だと?」 盛大に顔を顰めながら、パネルを足元に投げ棄てる。

「まさか、ほかの車も来てるんじゃないだろうな……」 そんなぼやきをこぼしながら、ライはサービスボックスを躱してバスの奥のほうへと足を進めていった。

 運転席のほうを見上げると、ステアリングが視界に入ってくる――ステアリングの中央から雑に干した洗濯物の様に垂れ下がっているのは、膨張したあとしぼんだエアバッグだ(※1)。シートベルトは伸びたまま元通りに巻き取られておらず、かつアンカー部分からはずされている――ELRが作動したのだろう。

 ELRは緊急時エマージェンシーロック式ロッキング巻き取り装置リトラクターの略称だ。エアバッグと同じく衝突時の安全性を確保するためのSRS、補助サプリメンタル拘束リストレイト装置システムの一種で、具体的には一定以上の速度でシートベルトが引き出されるとロックがかかり、乗員の体がシートから放出されたり、三点式以上のシートベルトの場合は腰部ベルトを支点に内臓に負担がかかるのを抑える仕組みになっている。

 乗用車のシートベルトでも強く引っ張るとロックして、それ以上伸びなくなることがあるはずだ――ちょっと強く引っ張った程度であれば一度テンションを抜いてやればもう一度引っ張って引き出すことも元に戻すことも出来るが、エアバッグが作動する様な状況では完全にロックしてそれ以上伸ばすことも元に戻すことも出来なくなる。そうすることで乗員の車外への放出を抑えると同時に、乗員の体をシート上に固定してエアバッグが乗員の体を正しい位置関係で受け止められる様にするのだ。

 足場になっている車体左側面の窓ガラスは、ことごとく砕け散っている――ガラス片が血で赤く染まっているのを目にしても、ライはさほど驚いた様子を見せなかった。横転の瞬間下側になる、つまり左外側席の乗客は粉砕された窓ガラスもしくはその下の地面に頭から突っ込むことになるのだ。横転したのはおそらく巨樹に衝突して車体が完全に停止してからだろうが、そうでなければ頭を地面にこすりつけられることになっていただろう。

「さて――破傷風つきのもみじおろしと窓ガラス、どっちがましだかな」

 そんなことをつぶやきながら、ライはシートバックに血の跡が残っているのに気づいたらしく顔を顰めた。

 脳漿が飛び散ったりはしていない――このバスは客席最前列だけが三点式シートベルト、それ以降の客席は二点式シートベルトを備えており、大部分は伸び切っているがそうでないものもちらほらと散見される(※2)。その座席に人が座っていなかったのか、あるいはシートベルトを締めていなかっただけかもしれない。


※1……

 漫画などの創作だとエアバッグが開きっぱなしになっている例をよく見かけますが、実際にはエアバッグは瞬時に開いて乗員の体を受け止めたあとは瞬時にしぼみます。開きっぱなしだと運転手が危険回避の行動を継続する必要があった場合や車輌の移動の際に視界の妨げになることに加え、開きっぱなしだと慣性で前方に倒れた乗員の体が壁に顔面から激突するのと同じ状況になるからでしょうね。


 ところで全然関係無いですが、エアバッグシステムにはひとつの特異な相違点があります――ほかの機構と違って、電気系統以外の動作チェックが出来ないことです。ELRつきのシートベルトもそうですが、動作させたらそのまま廃棄ですから。

 また、エアバッグ本体の中古売買は本来禁止されていて、販売も購入も違法行為になります。自動車リサイクル法の関連で、ヤフオクでは二〇二〇年からエアバッグ本体が出品禁止になっているそうです。

 現役を離れてしまったので実際にどの程度中古のエアバッグがヤミ販売で出回っているかは見当もつきませんが、中古のエアバッグユニットを修理した元事故車に装着して商品化する中古車屋もあります。明らかに形状の違う(=品番の違う)運転席用エアバッグユニットを中古車屋の依頼で付け替えた事例を見たことがありますが、以下の理由からお薦め出来ません。


1.正確に動作する保証が無いこと(上記の通り機能テストも出来ない)

2.タカタ製エアバッグの場合、例のアメリカでの事故後の対策品であるかどうかがわからない

3.1、2を踏まえて、自分がタカタの最初の誤作動品と同様の事故の犠牲者になる可能性もあります。無論、走行中であったら目も当てられません。

4. https://www.team-mho.com/no-used/

 手っ取り早い例でこんなのがありますが、リコール対象パーツは部分交換にとどまって丸ごと交換ではないことがあります。たとえばエンジンのヘッドカバーがリコール対象だった場合、エンジン丸ごと交換にはなりません。

 上記ブログで見る限りエアバッグユニットのリコールは膨張機インフレーター、エアバッグを膨張させるためのガスを発生させる部品のみの交換にとどまっており、残る部品は再使用になります。上記ブログの場合は助手席側ですが、つまり純正のエアバッグユニットでなければリコール対象にならないのですね。

 中古で買った車がリコール対象車でかつ未改修のままエアバッグユニットを中古品で交換した修復車輌だった場合、厄介な面倒事と面倒な厄介事がごちゃ混ぜになったとんでもねートラブルの原因になり得ます。


 上記の事例は作者が中古屋で働いてた当時の話なのでもう七、八年前ですが、購入した人がトラブルに巻き込まれてないことを願うばかりです。

 ところで、上記のブログ。どこの中古屋か知りませんが、この事情であれば店名晒してもいいと思うんですけど。


※2……

 作中に登場するセレガ・ハイデッカーは現行型と同じ車種ですが、二〇一八年六月にマイナーチェンジが発表され全客席ELR付3点式シートベルトおよび客席シートベルト警告燈がオプション設定されました。

 作中に登場するものは二〇一八年四月に登録された車輌なので、当該オプション設定の対象にはなっていません。

 マイナーチェンジ以前の車輌の場合は客席最前列のみが三点式、それより後ろの客席は二点式シートベルトで、どちらもELRが標準装備されています。


 この注釈を書いてるのが二〇二二年四月十七日なんですが、最近発覚した日野の燃費偽装のせいでめっちゃ複雑な気分です。バステクフォーラムで実車を確認出来た大型バスがセレガだけだったという理由でセレガを選んだのですが、この時点ですでに偽装やってたんだなあとか思うともうなんというかもうね。

 たぶんこれから日野は偽装した燃費と実際の燃費の差額を請求されたり、ほかの不正も含めて改修したり賠償したりといろいろ大変だと思います。

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