第1話

 げらげらという下品な笑い声が、斜面を登った先から聞こえてきている――腹減ったなぁ、とぼやきをこぼしたのは誰だっただろうか。

 一応食欲が回復してきた者もいるらしい――望月春馬自身は、正直この状況で空腹を意識する余裕は無かった。

 率直に言ってしまえば、運転手や添乗員を含めあのバスに乗っていた人間すべてが――負傷の程度はともかく――命を落とさなかったのは奇蹟に近いと、春馬はそう思う。

 なにが起こったのかはわからなかった――彼らが乗っていた修学旅行のバスは名神高速道路を走行中、トイレ休憩に寄った草津のパーキングエリアを出発してから数分後にいったいなにに巻き込まれたのか、気づいたらマイナスイオンたっぷり、岩からなにからことごとく苔した森の中にいたのだ。

 否、それも正確ではないか――そのとき春馬はスマートフォンでWEBコミックを読んでいて周りに注意を払っていなかったので、正確な状況はわからない。運転手がいきなり叫び出したから何事かと思ってそちらを見たら、高速道路を走っていたはずのバスは森の中を走っていたのだ。

 走っていた時間そのものは、おそらく数秒に満たなかっただろう――彼らが運転手の叫びに反応したときには、すでに大人七、八人が手をつないでようやっと一周出来るくらいの太さの巨木がバスの目の前に肉薄していた。

 急ハンドルを切ってそれを回避した運転手の技量は、見事なものだったと思う――だが次の瞬間右前輪が跳ね上がり、バスは片輪走行の様に斜めに傾いたまま回避先の方向にあった最初の巨木の倍くらいの太さがある巨樹へと正面から突っ込んで、そのまま横転したのだ。

 その被害を思えば、車体最前部にいた運転手を含めて重軽傷者はいても死者は出ていない状況というのはまさに僥倖以外の何物でもあるまい――ただし治療を受けられるかどうかは別問題なので、考え様によっては苦しみが無意味に長引くだけかもしれないが。

 

 彼らがいるのはどことも知れぬ深い森の奥深くの高台の上に築かれた、朽ちた山砦さんさいだった。砦の半地下になった六室の牢獄のうち四室に、ひとつの牢獄につき八、九人の生徒が閉じ込められている――おっと、牢屋のひとつには引率の担任教師もいるが。

 ここがどこなのかはわからない――だがここが日本、否地球でないことだけは明白だった。

 建物の構造物に遮られて、今は外の様子はほとんど視認出来ない――ここに連れてこられたのは昼間だったが、この建物のある高台に登ってから建物に到着するまでの道程の左手側、かなり遠くに見える山脈の向こうに月が見えていた。

 月が見えること自体は、どうということでもない――地球にだって月はあるし、日本でも昼間に月が見えることはある。問題ははるか遠くに見える山の稜線に今まさに沈もうとしている月とは別にもうひとつの月が山脈の上に浮いていたことだった。

 無論、地球の月はひとつしか存在しない――その点だけでも、ここが地球でないことは明らかだった。

 バスが横転した場所からは、かなり離れているはずだ――大破擱座したバスの車内で意識を取り戻した数人がやっとの思いでバスの中から全員を引っ張り出したところで運転手を含む数人が重傷を負っているのに気づいて、治療の知識も道具も無いまま手をこまねいていたら、そこに人が通りかかった。

 三頭の馬に似た動物にかれた豪奢な馬車が、数十人の男たちに囲まれて森の中を通行していたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る